第32話 灯凛との別れ
あの戦いから一ヶ月が経った。
もう灯凜が転移してきてからは約三ヶ月になるが、日本で経過した時間を考えれば十日ほどだ。
このタイミングで帰れば、日本での影響も少ないだろう。
「父上。転移門の準備ができました」
穂積が恭しく頭を下げ、慎重に告げた。
「ありがとな。穂積」
俺は静かに頷き返す。
神穿ノ禍祓によって禍津日の魂だけを滅することに成功したことで、穂積は無事に回復した。
半妖としての力の大半は失ってしまったが、もともと彼女は人間として生きることを望んでいた。結果オーライというやつだ。
白い光を放つ転移門が、静かに揺らめいている。空気には、懐かしい匂いが混じっていた。
その向こうにあるのは、灯凜が元いた世界――そして、俺の故郷でもある日本だ。
風が静かに俺たちの間を吹き抜け、どこか名残惜しさを運んでくる。
「なんか、寂しくなりますね……」
灯凜がポツリと呟く。彼女の瞳は、かすかに揺れていた。
役目を終えた神穿ノ禍祓を胸に抱えながら、灯凜は少し寂しそうに微笑んだ。
「じゃ、そろそろ行くね……」
その声には、強がり混じりの明るさがあった。
俺は一歩前に出て、そっと肩を叩いた。
「灯凜殿。此度はこちらの事情に巻き込んでしまって、誠に申し訳なかった」
穂積が深々と頭を下げる。彼女の声は、真摯な響きを持っていた。
「気にしないでください。元はといえば、曾祖母ちゃんからの因縁ですし」
灯凜はそっと笑い、柔らかな光を纏った。
「煌天丸さん。約束を守ってくれて、ありがとうございます」
「気にすんな。あっちに帰ったら、俺の墓参りでもしてくれ」
俺は冗談めかして言ったが、灯凜はくすっと笑った。
「名前覚えてないのに、どうしろって言うんですか」
「まあな」
そう言って、俺たちは互いに顔を見合わせ、笑った。
「絶対、また来ますから。そしたら……一緒にお団子、食べましょうね」
「しょうがねぇな。じゃあ、日本土産も一緒に持ってきてくれ」
「はい、約束です!」
灯凜の声は弾んでいたが、その目は今にも泣き出しそうだった。
穂積もそっと前に出て、優しい声で告げる。
「あなたと出会えてよかった。これからのあなたの人生に、幸あらんことを祈っている」
「ありがとうございます、穂積さん」
灯凜は穂積の手をぎゅっと握り、小さく目を潤ませた。
「水無月様によろしくお伝えくだされ」
「はい! きっと曾祖母ちゃんもビックリすると思います」
灯凜は転移門へ向かって、一歩、また一歩と進む。
「じゃあな、灯凛。日本でも元気でやれよ」
「煌天丸さんも、ちゃんと生きててくださいね。ぜぇったい! また来ますから!」
彼女の最後の声は、風にさらわれて消えた。
転移門が静かに閉じられ、辺りに再び静寂が戻る。
「……泣かぬのですか?」
穂積がそっと問いかける。
俺は肩をすくめ、鼻で笑った。
「バーカ。四十九歳にもなる娘の前で泣けるかよ」
「それもそうですな」
穂積も、ほんの少しだけ笑った。
柔らかな風が吹き抜け、遠くの山々を撫でる。
「そうだ、穂積。肉まん食べるか?」
「肉まん、ですか?」
「ああ、俺の故郷の味だ」
俺は妖力を使い、懐かしい故郷の味――ふかふかに蒸した肉まんを作り出した。
湯気が立ち上り、肉汁の香りがふわりと広がる。
穂積は驚いた顔をしながらも、それを受け取った。
「おいしい……」
素直な感想に、俺はにやりと笑った。
「だろ?」
屋敷を包む夕暮れの光が、俺たちを静かに照らしていた。
新たな旅立ちを見送った場所で、静かに、だが確かに、何かが続いていくのを感じていた。
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