彼の悪魔の囁きと、わたしの「殺意ノート」緊急事態宣言
梅雨特有の、じっとりとした空気が漂う放課後。窓の外は、いつ降り出してもおかしくない灰色の雲に覆われています。わたし、橘恋春は、図書室のいつもの席で、難解な古典文学の読解に取り組んでいました。完璧な静寂と、本の匂い。これこそが、わたしの集中力を最大限に高める環境です。
(この時代の言葉遣いは、現代語とは異なる論理体系に基づいている。その構造を正確に把握し、作者の意図を読み解かなければ……)
ペンを片手に、思考の海に深く潜り込もうとした、まさにその時。
「……あー、やっぱり降ってきたか。ツイてないなあ」
すぐ隣の席から、聞き慣れた、そして今は最も聞きたくない声が響きました。顔を上げると、いつの間にか早瀬蓮くんが、窓の外を眺めながら、大きなため息をついていました。彼の手には、読みかけのスポーツ雑誌。
(なっ……!? いつの間にわたしの隣に!? しかも、この聖域でそのような俗な雑誌を……! そして、その不吉な呟きは何ですか! わたしの集中力が……!)
ドクン、と心臓が不規則に跳ねます。彼の存在そのものが、この空間における最大の環境ノイズなのです。
「……早瀬くん。ここは静かに読書をする場所です。私語は慎んでください。それに、天気の話なら、天気予報を見るのが合理的です」
わたしは努めて冷静に、しかし明確な不快感を含ませて注意しました。視線は頑なに本へ。
「おっと、これは失礼。つい、恋春大先生のあまりに真剣なお姿に、心の声が漏れてしまった次第で。でもさ、天気予報、今日は午後から晴れって言ってたんだぜ? 大外れじゃないか」
彼は悪びれもなく、わたしの方に向き直って話しかけてきます。
(だ、大先生はやめてください! それに、天気予報が外れることなど、確率論的にあり得ることです! いちいち動揺する方が非合理的です!)
「……予報はあくまで予測です。絶対ではありません。それよりも、あなたはご自分の読書に集中された方がよろしいのでは?」
わたしは冷たく言い放ち、彼との会話を打ち切ろうとしました。
「まあ、そうなんだけどさ……」
早瀬くんは、少し困ったような顔で(絶対に演技です!)窓の外の雨脚が強まっていくのを見つめると、ふと、わたしの方を見て、何かを思いついたような、悪戯っぽい笑みを浮かべました。
「なあ、恋春ちゃん。もしかして、傘、持ってきてないんじゃないか?」
(なっ……!? なぜ、それを……!? た、確かに、今日は晴れの予報を信じて、傘を持ってきていませんでしたが……! まさか、わたしの鞄の中身まで透視しているとでも!?)
彼の的確な指摘に、わたしの心臓がドクンと大きく跳ねました。顔にカッと熱が集まるのを感じます。この男は、いつもいつもわたしの弱点や失態を見抜くのが得意なのです!
「……持っているか否かは、わたしの個人的な問題です。あなたには関係ありません」
わたしは、動揺を隠して強気に返しました。
「ふーん? でも、さっきから鞄の中、何度も確認してるみたいだけど? まさかとは思うけど、恋春ちゃんに限って、そんな初歩的なミスはしないよなあ?」
彼は、わたしの行動を正確に観察し、さらに追い詰めてきます。
(ぐっ……! 見られていましたか……! この男の観察眼は、時として探偵並みで腹立たしいです!)
「……仮に、万が一、億が一、傘を忘れていたとしても、それはわたしの問題です。あなたに心配される謂れはありません」
わたしは、あくまで可能性の話として、彼の追及をかわそうとしました。
「つれないなあ。じゃあさ、」
早瀬くんは、ニヤリと笑うと、自分の鞄から、一本の大きな傘を取り出しました。それは、二人で入っても余裕がありそうな、しっかりとした作りの傘です。
「僕の傘、一緒に入っていく? 相合傘ってやつだよ。これなら、恋春ちゃんも濡れないし、僕もヒーロー気分を味わえる。まさに一石二鳥、ウィン・ウィンだろ?」
彼は、こともなげに、とんでもない提案をしてきました!
(あ、相合傘ですって!? あなたと!? わたしの完璧に計算されたパーソナルスペースに、あなたが侵入するというのですか!? しかも、ヒーロー気分ですって!? ふざけないでください!)
わたしの脳内で、狭い傘の下、雨音だけが響く中、肩を寄せ合い、彼の体温を感じてしまい、心臓が暴れ出す……そんな、ありえないはずの、しかし妙に具体的なシチュエーションが、雷鳴と共にフラッシュバックしました!
顔が、耳が、首筋まで、記録的な高温に達しそうです!
「け、結構です! わたしの辞書に、相合傘という単語は存在しません! たとえ濡れたとしても、あなたと一つの傘に入るよりは、遥かにマシです!」
わたしは、震える声で、しかし断固として拒絶しました。
「えー、そう言わずにさ。風邪ひいちゃうぜ? 恋春ちゃんが風邪で学校休んだら、僕、寂しくて死んじゃうかもしれないし」
彼は、大げさに胸を押さえ、悲しそうな表情(絶対に嘘です!)を浮かべます。
(さ、寂しくて死ぬですって!? な、何を馬鹿なことを……! わたしが休んだ方が、あなたは清々するはずです!)
彼のその言葉に、なぜか心臓がキュンと締め付けられるような、おかしな感覚を覚えました。いけません、これは彼の罠です!
「……とにかく、結構です! わたしは、あなたに頼るくらいなら、雨の中を走って帰ります!」
「ふーん、そうか。じゃあ、仕方ないな」
早瀬くんは、あっさりと傘を鞄にしまい、窓の外の雨を眺め始めました。その横顔は、どこか少しだけ、本当に少しだけ、残念そうに見えなくも……ありません。
(……え? あっさり引き下がるのですか? もっと食い下がってくるかと思いましたが……。いえ、その方が好都合です。これで、わたしの平穏は守られました……はずなのに、なぜでしょう、この、ほんの少しだけ、がっかりしているような気持ちは……?)
わたしは、彼の意外な反応に戸惑いつつも、自分の読書に戻ろうとしました。しかし、窓を叩く雨音と、隣の彼の気配が、どうしても気になってしまいます。
数分後。図書室の閉館を告げる音楽が流れ始めました。わたしは本を閉じ、帰り支度を始めます。窓の外は、依然として激しい雨が降り続いていました。
(……やはり、走って帰るしかありませんか。最悪です。完璧なわたしが、雨に濡れて帰るなど……)
重いため息をつきながら立ち上がると、隣で同じく帰り支度をしていた早瀬くんが、ふとわたしを見て言いました。
「なあ、恋春ちゃん。やっぱりさ、駅まででいいから、この傘、使ってくれよ」
彼は、先ほどの大きな傘を、再び鞄から取り出し、わたしの目の前に差し出しました。ただし、今度は彼自身が入るという素振りは見せません。
「……え?」
「別に、一緒に入ろうってわけじゃない。ただ、女の子がずぶ濡れになって帰るのを見るのは、やっぱり気分が悪いからさ。俺は、まあ、なんとかなるし」
彼は、少し照れたように、しかし真っ直ぐな目でわたしを見て言いました。
(わ、わたしのために……傘を貸してくれる、と……? 自分は濡れるかもしれないのに……? そ、そんな……)
彼の予想外の申し出と、その言葉に含まれる不器用な優しさに、わたしの心臓は、先ほどとは違う、温かい何かで満たされるような感覚に襲われました。顔が、じわじわと熱くなっていくのが分かります。
(こ、これは……単なる親切心……? それとも……? いえ、彼に限って、そんな深読みは……! でも、この状況で、彼の申し出を断るのは、あまりにも……)
わたしは、差し出された傘と、彼の顔を交互に見つめ、言葉に詰まってしまいました。
「……い、いえ、でも、それではあなたが……」
「大丈夫だって。俺、体力には自信あるから。風邪くらいじゃ倒れないよ。それより、恋春ちゃんが風邪ひいたら、それこそクラスの損失だろ? なんたって、うちのクラスの知恵袋なんだから」
彼は、いつものように軽口を叩きながらも、その瞳は優しく、わたしを気遣っているのが伝わってきます。
(ち、知恵袋ですって……? そ、それは、客観的な評価として受け取れなくもありませんが……。でも、やはり、彼にだけ迷惑をかけるわけには……)
わたしの論理と感情が、激しく葛藤します。彼が、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべました。
「それにさ、恋春ちゃんがもし風邪で寝込んだら、僕、お見舞いに行っちゃうかもしれないぜ? 君の部屋に。……で、ついでに、君のあの『秘密のノート』、こっそり読んじゃったりして。『早瀬くんを殺したい99の理由』、最新のやつ、どんなこと書いてあるのかなーって」
「な、なななな、なんでそのノートのことを知ってるんですかぁっっっっっっ!?」
わたしの声は、図書室の静寂を切り裂くほど、甲高く裏返っていました! 全身の血液が沸騰し、そして急速に凍り付くような、矛盾した感覚! まさか、彼が、わたしの、あの、絶対に知られてはならない秘密の核心を……!?
早瀬くんは、わたしのあまりの剣幕に一瞬目を丸くしましたが、すぐにいつもの人を食ったような笑みを浮かべました。
「え? だって、恋春ちゃん、いつも鞄から大事そうに出し入れしてるじゃないか。しかも、僕と何かあった後、必ず鬼気迫る表情で何か書き込んでるし。タイトルくらい、ちらっと見えちまっても仕方ないだろ? 視力、両目とも1.5だし」
(し、視力1.5ですって!? それは関係ありません! わ、わたしの不注意……!? いえ、あなたのその、盗み見るような行為が問題なのです! しかも、タイトルを知っていたなんて……! ずっと、気づかないふりを……!?)
頭が真っ白になり、言葉を失います。彼の悪びれない態度が、さらにわたしの怒りと羞恥心を煽ります。
「それにしても、『99の理由』かあ。すごい数だよな。もうそろそろ100個目達成しそう? 記念すべき100個目は、どんな理由で僕を殺してくれるのか、今から楽しみだなあ」
彼は、全く反省の色も見せず、むしろ面白がるように続けます。わたしの聖域であるノートの内容を、まるで娯楽小説の続編でも待つかのように!
(ひゃ、100個目……!? た、楽しみだなんて……! あなたは、自分が殺される理由を、そんな軽い気持ちで……! あ、ああ、もう、この男は……! わたしの、この複雑で、真剣な感情を、どこまで愚弄すれば気が済むのですか!)
わたしの怒りは、もはや臨界点をとっくに突破していました!
「~~~~っ!!!」
わたしは、声にならない絶叫を上げ、顔を真っ赤にして彼を睨みつけました!
「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! わたしの最も神聖な秘密を盗み見た上に、それをネタにして脅迫し、あまつさえその内容を娯楽として楽しむなどという、人間の所業とは思えない、悪魔的で、変態的で、言語道断な精神攻撃は!!! わたしのノートに記された99の理由の全文字数と、あなたのそのふざけた笑顔の持続時間を掛け合わせた数よりも、さらに筆舌に尽くしがたい苦痛を伴う死に値します!!! 今すぐわたしのノートに関する全記憶を自己消去し、二度とそのタイトルを口にしないと、この図書館の全蔵書に誓いなさい! さもなくば、この! 図書館の最も重い六法全書(もちろん本物です!)で!!! あなたのその! 覗き見趣味と悪趣味が詰まった頭蓋骨を! 法的にも倫理的にも再起不能になるまで粉砕し、あなたの存在そのものをこの世から抹消して差し上げます!!!!!!」
涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは近くの書架にあった六法全書(の背表紙)を指さし、完全にパニック状態で叫んでいました! 図書室の司書の先生が、ついに怒りの形相でこちらへ向かってくるのが視界の端に映ります!
「おっと、六法全書で殴られるのは、法治国家の国民としてどうかと思うな」
早瀬くんは、わたしの剣幕に少し驚きつつも、やはり面白そうな表情を崩しません。
「でも、そんなにノートのこと隠したいってことは、やっぱり、僕のこと、色々書いてあるんだ? ……もしかして、本当は『早瀬くんの好きなところ99』だったりして」
彼は、最後の最後までわたしをからかうように、とんでもない憶測を口にしてきました。
(す、好きなところですって!? そ、そんなわけ……! 断じてありません! ああ、もう、この男の思考回路は、どうなっているのですか!!!)
早瀬くんは、わたしの剣幕に苦笑いを浮かべながらも、傘を差し出す手を引っ込めません。
「でもさ、恋春ちゃん。意地張って風邪ひくより、素直に人の親切を受け取る方が、よっぽど合理的だと思うけどな? それとも、やっぱり、僕と相合傘したかった?」
彼は、最後の最後で、またしても悪戯っぽい笑みを浮かべて、核心を突くような(あるいは、わたしを試すような)言葉を投げかけてきました。
(あ、相合傘したかった、ですって!? そ、そんなわけ……! いえ、でも、彼が濡れるくらいなら、わたしが少し我慢して、二人で……!? ああ、もう、何を考えているのですか、わたしは!)
「~~~~っ!!!」
わたしは、もはや反論する言葉も見つからず、ただただ顔を真っ赤にして彼を睨みつけ、そして……差し出された傘を、ひったくるように受け取ってしまいました!
「……っ! あ、ありがとうございます……! こ、これは、あくまで、合理的な判断の結果ですから! 断じて、あなたに感謝しているわけでは……!」
早瀬くんは、わたしの行動を見て、満足そうに、そしてとても優しく微笑みました。その笑顔は、梅雨空を吹き飛ばすような、不覚にも眩しいものでした。
「どういたしまして。じゃあ、気をつけて帰れよ。傘、明日返してくれればいいから」
彼は、自分は濡れることも厭わず、颯爽と(?)雨の中へと駆け出して行きました。
ご指摘の通りです!ラストの「殺害理由」の記述に、今回の「秘密のノート」の件と、それに伴う恋春の感情をしっかりと反映させるべきですね。それによって、彼女の葛藤と早瀬くんへの複雑な思いがより鮮明になるはずです。
では、ラストの「殺害理由」記述部分を、今回の出来事を踏まえて修正します。
(前略、早瀬くんが傘を貸して雨の中へ駆け出して行った後)
わたしは、大きな傘を手に、一人図書室の出口に立ち尽くし、彼の後ろ姿が見えなくなるまで、ぼんやりと見送っていました。
(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 相合傘を断られた腹いせ(!?)に自分だけ傘を貸し、わたしに罪悪感と、そして何か別の温かい感情を抱かせ、挙句の果てにはわたしの最も神聖な秘密(あのノートのことです!)を知っていたことを暴露し、それをネタに脅迫までして、最後にはまた期待させるようなことを!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……あなたの全教科書とノートに、わたしの名前で『秘密の交換日記』と書き込んで、クラス中に誤解を招くことでお返しします!!!)
自室に戻り、わたしは今日の出来事を思い返していました。図書室での、あの奇妙なやり取り。そして、彼から借りた、まだ新しい傘……。彼の、あの悪びれない笑顔と、「好きなところ99だったりして」という、ふざけた言葉。わたしは鞄から例のノートを取り出します。
『早瀬くんを殺したい99の理由』
この、雨模様のように複雑で、もはやプライバシー侵害の怒りまで加わった感情を整理するための、唯一の手段。
深呼吸を一つ。今日の、梅雨空の図書室での、彼の予測不能な優しさと、それに続く悪魔的な秘密の暴露、そしてそれによって引き起こされたわたしの心の激震と、もはや殺意だけでは説明できない感情の渦について記録しなければ。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#51とナンバリングしました。
理由#51:梅雨時の図書室において、わたしが傘を忘れたことを見抜き、当初は相合傘を提案。それを拒否されると、今度は自身の傘を一方的に貸し出すという、自己犠牲的な(ように見せかけた)行動でわたしに恩を売り、罪悪感と感謝の念を抱かせた。その上で、あろうことかわたしの『早瀬くんを殺したい99の理由』という秘密のノートの存在を知っていたことを暴露し、その内容を娯楽として楽しむような発言を繰り返し、さらには『好きなところ99』などという不敬な邪推を行うことで、わたしのプライバシーと尊厳を著しく侵害し、精神的な混乱を極限まで高めた罪。
……違う。これでは単なる彼の悪行の列挙と、わたしの被害報告に過ぎません。もっと本質的な、彼の、計算なのか天然なのか判別できない優しさと、わたしの最も深い秘密を握っているという圧倒的なアドバンテージ、その両方によって、わたしの論理的な防御壁がいとも簡単に打ち破られ、彼に対して、もはや殺意だけでは処理しきれない、恐怖と羞恥と、そして(認めたくない!)ほんの少しの期待が入り混じった、極めて危険な感情を抱かせてしまう、その致命的な影響力について記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや自分の心の中で降り続く土砂降りの雨音を聞きながら、ぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。
理由#51:彼が、わたしが傘を忘れたという状況を利用し、一度は相合傘を提案してわたしの警戒心を煽った後、一転して自己犠牲的な形で傘を貸し出すという心理的揺さぶりをかけた。さらに、わたしの最重要機密である『早瀬くんを殺したい99の理由』というノートの存在を以前から認知しており、それをネタに脅迫的な発言を行うことで、わたしの精神的な砦を根底から破壊した。これにより、彼の優しさと悪魔的な策略の前に、わたしは完全に無防備な状態に陥り、彼への感情は、純粋な殺意から、恐怖、羞恥、そして(あってはならないはずの)彼への興味や期待が複雑に絡み合った、極めて不安定で危険なものへと変質し始めている。このままでは、彼の言葉一つでわたしの全行動が支配され、秘密のノートの内容すら彼に都合よく解釈(あるいは暴露!?)され、最終的には彼の掌の上で踊らされる人形と化す。その、プライバシーも尊厳も失った、甘くて苦い(そして絶対に屈辱的な!)未来を回避し、橘恋春としての自我と秘密を守り抜くための、緊急かつ絶対的な殺害動機。……しかし、彼がわたしのノートのタイトルを正確に覚えていたこと、そして『好きなところ』と揶揄した時のあの楽しそうな顔は、なぜか妙に……いや、断じて何も感じていません!
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや個人情報保護法違反とストーカー規制法違反(精神的な意味で!)のコンボのような重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心の奥底まで覗き込もうとする彼の魔の目から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。
わたしは、窓の外でまだ降り続く雨を見つめました。そして、玄関に立てかけてある、彼から借りた大きな傘を思い出します。
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の秘密を握って楽しむなんて、最低な人です。「好きなところ99」だなんて……)
彼の、あの悪びれない笑顔と、わたしのノートについて語った時の、あの悪魔のような楽しげな声が、忘れられません。
(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、強引な誘いも、そして……わたしの最も大切な秘密を暴き、それを弄ぶような、その全てが、わたしの心を掻き乱し、殺意を増幅させるのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、明日、彼に傘を返す時、あのノートの件について、一体どんな顔で、どんな言葉で抗議(そして感謝も少しだけ?)すれば、最も彼を『殺せる』のか、完璧にシミュレーションしてしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)
結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、理性を、プライバシーまで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼の不器用な優しさと、彼に秘密を握られてしまったという絶望感と、そして(認めたくない!)彼がわたしのことを少しでも気にかけている(のかもしれない)という微かな期待に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……心を揺さぶられてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……明日、彼に会う前に、ノートの隠し場所を、もっと完璧な場所に変更しなければなりません! もちろん、彼に見つからないように、ですが!
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