文化祭カフェの甘い罠と、わたしの鉄壁の防御(の脆さ)

文化祭当日。校内は朝から生徒たちの熱気と興奮で、普段の静けさが嘘のように賑わっていました。わたし、橘恋春は、先日まで自分がチーフとして指揮を執っていたクラスの出し物『戦慄迷宮~呪われし科学室~』の最終チェックを終え、完璧な仕上がりに満足していました。あの、早瀬蓮くんが勝手に描き加えた『呪いの紋章』も、不本意ながら、迷宮の雰囲気を高めるのに一役買っているのは認めざるを得ません。


(さて、わたしの任務は完了しました。次は、他のクラスの出し物を効率的に見て回る時間です。特に、あの男がウェイターを務めるという、隣のクラスのカフェの様子を、客観的に観察し、その問題点を洗い出す必要があります。決して、彼のエプロン姿に興味があるわけでは……!)


そう決意し、隣のクラスの教室へと向かうと、そこはすでに長蛇の列。どうやら早瀬くん目当ての女子生徒も少なくないようです。わたしは、その列に並ぶことへの若干の抵抗を感じつつも、「市場調査のため」と自分に言い聞かせ、最後尾につきました。


しばらく待って、ようやく店内へ。そこは、手作り感溢れる可愛らしい内装のカフェになっていました。そして、忙しそうに動き回るウェイター姿の早瀬くんが、わたしの目に飛び込んできました。……昨日までのペンキまみれのジャージ姿とは打って変わって、白いシャツに黒いエプロンを身に着けた彼は、その……普段の三割増しくらいには、爽やかに見えてしまうのが腹立たしいです。


「いらっしゃいませー! って、あれ? 恋春ちゃんじゃないか! よく来てくれたな!」


わたしを見つけた早瀬くんが、営業用の(しかし、わたしに対してはどこか違う)笑顔で近づいてきました。


(なっ……! わ、わたしに気づきましたか! しかも、その馴れ馴れしい呼び方! 他のお客さんもいるのですよ!)


ドクン、と心臓が警告音を発します。彼の周囲だけ、なぜか妙にキラキラして見えるのは、文化祭の魔法でしょうか、それとも……。


「……わたしは、隣のクラスの出し物の責任者として、貴クラスの運営状況を視察に来ただけです。別に、あなたに会いに来たわけでは……」


わたしは努めて冷静に、あくまで公的な立場を強調しました。


「はいはい、視察ね。じゃあ、視察ついでに、うちの特製スイーツでもどう? 今、ちょうど恋春ちゃんに食べてもらいたいお菓子が焼き上がったところなんだぜ? 昨日、君が褒めてくれた(?)『呪いの紋章』からインスピレーションを得て作った、新作のマドレーヌなんだ」


彼は、悪びれもなく、わたしの計画を無視して強引に誘ってきました。しかも、昨日の紋章の話を持ち出すなんて!


(わ、わたしに食べてもらいたいお菓子ですって!? しかも、『呪いの紋章』からインスピレーション!? どんなお菓子なのですかそれは! そもそも、わたしは褒めてなどいません! 客観的に評価しただけです!)


「結構です。わたしは甘いものはあまり……それに、あなたのクラスの出し物に個人的な興味はありません」


わたしはきっぱりと断ろうとしました。


「えー、つれないなあ。これ、恋春ちゃんのために、俺が徹夜して(嘘だけど)レシピ改良して作った『漆黒の呪いマドレーヌ~恋春スペシャル~』なんだぜ? 試食第一号、光栄だと思わない? 味見して、忌憚のない意見を聞かせてくれよ。今後の商品開発の参考にしたいし」


彼は、少しだけ寂しそうな(絶対に演技です!)顔をして、手に持っていた怪しげな黒いマドレーヌ(!?)が一つ入った小袋をわたしの目の前に差し出してきました。その袋からは、ふわりと甘く香ばしい……けれど、どこかスパイシーな、不思議な匂いが漂ってきます。


(わ、わたしのために……レシピ改良……!? し、試食第一号……!? しかも、『恋春スペシャル』ですって!? そ、そんな……! 黒いマドレーヌなんて、聞いたこともありませんが……!)


彼の言葉と、鼻孔をくすぐる未知の香りに、わたしの心臓がドクン、ドクンと大きく波打ちます。脳内で、彼がわたしのことを考えながら(!?)一生懸命お菓子を作っている姿が、またしても勝手に再生されそうになり、慌ててそれを打ち消しました!


「そ、そんなものに釣られるとでも思っているのですか! わたしは論理と理性で……! しかも、その禍々しい見た目は何ですか! 呪われそうです!」

「まあまあ、見た目はアレだけど、味は保証するって。一口だけでもいいからさ。これも、クラスの出し物を成功させるための、共同作業の一環ってことで、どう?」


彼は、わたしの抵抗を意に介さず、さらにグイッと小袋を押し付けてきます。


(ぐっ……! 「共同作業」ですって……? 昨日の今日で、そのような言葉を……! しかし、彼のクラスの成功も、文化祭全体の盛り上がりには必要不可欠……。仕方ありません、これも、完璧な文化祭運営のための、やむを得ない措置……)


わたしの完璧なはずの理性が、未知の黒いマドレーヌと彼の言葉巧みな誘惑によって、徐々に侵食されていくのを感じます。顔がカッと熱くなるのを感じました。


「……っ! し、仕方ありませんね! あくまで、文化祭全体の成功のための協力、そして客観的な味覚評価のためですから! 断じて、あなたのお菓子に興味があるわけでは……!」


わたしは、半ばヤケクソ気味に、しかしあくまで上から目線で(と自分では思っています)、その小袋を受け取りました。


「やった! さすが恋春ちゃん、話が分かる! じゃあ、あちらの席へどうぞ!」


彼はパッと表情を輝かせ、満足そうにわたしを空いている席へと案内しました。


(ああ、また彼のペースに……!)


わたしは、内心でため息をつきながらも、席に着き、ラッピングを開け、禍々しい見た目の黒いマドレーヌを取り出しました。恐る恐る一口かじると……。


(なっ……!? こ、これは……!?)


予想を裏切る、複雑で奥深い味わいでした。竹炭か何かで色付けされた生地は、見た目とは裏腹にしっとりとしていて、ほんのりビターなチョコレートの風味。そして、後から追いかけてくるのは、カルダモンやシナモンのような、エキゾチックなスパイスの香り。甘さも絶妙に抑えられており、これは……美味しい、です。いえ、かなり、独創的で、美味しいです。


(うそ……でしょう!? 彼が、こんな……複雑で、計算された味を……!? しかも、このスパイスの使い方は、まるで……わたしの隠れた好みを、見透かされているかのようで……!?)


わたしは衝撃で言葉を失い、ただただ黒いマドレーヌを味わうことしかできませんでした。


「どう? どう? 『漆黒の呪いマドレーヌ~恋春スペシャル~』、お口に合ったかな?」


早瀬くんが、期待に満ちた目で、わたしの顔を覗き込んできます。


(こ、こんな時に、そんな子犬のような顔をしないでください……! 肯定的で、しかも詳細な感想を言わざるを得ないではありませんか……!)


「……まあ、その、見た目に反して、悪くは、ありませんね。……スパイスの配合は、なかなか興味深い試みかと。ただし、もう少し……」


わたしは、内心の感動と驚きを必死に押し殺し、なんとか専門家ぶったコメントをしようとしました。素直に「とても美味しい」と言うのは、なぜかプライドが許しません。


「興味深い、かー。厳しいなあ、恋春先生は。でも、」


彼はふっと笑みを浮かべると、わたしの顔にぐっと近づき、囁くように言いました。


「その『興味深い』マドレーヌ食べてる時の恋春ちゃんの顔、めちゃくちゃ可愛いけどな。もしかして、俺が作ったから、特別美味しく感じちゃったりした?」


か、可愛いですって!? わ、わたしの顔が!? 黒いマドレーヌを食べている顔が!? しかも、俺が作ったから特別美味しいだなんて!? ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!


その瞬間、わたしの頭の中で文化祭のBGMが完全に消え去り、代わりに非常ベルが鳴り響きました! 顔が、耳が、首筋まで、溶岩のように熱くなり、心臓は和太鼓の連打のように激しく脈打ち、呼吸も絶え絶えです!


(な、な、何を言っているのですか、この男は! 人の顔を見て可愛いだなんて! しかも、そんな自意識過剰な発言! わざとわたしを……!)


わたしは声にならない絶叫を上げ、手に持っていた食べかけの黒いマドレーヌ(もはや呪いのアイテムです!)を、彼に向かって振り上げました!


「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! 文化祭という神聖な場での不適切なセクハラ発言と! わたしの純粋な味覚評価を歪めようとするその自意識過剰な態度は!!! このカフェで提供される全メニューの総カロリーと、わたしの迷惑度を掛け合わせた数よりも、さらに破滅的に多い死に値します!!! 今すぐその不埒な発言を撤回し、全校生徒の前で謝罪なさい! さもなくば、この! 『漆黒の呪いマドレーヌ』(呪詛増量)で!!! あなたのその! 軽薄な笑顔を! 永久に封印して、あなたのクラスのカフェの真の『呪物』として奉納して差し上げます!!!!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは黒いマドレーヌを構え、完全にパニック状態でした! カフェ店内の他の生徒たちが、完全に凍り付いています!


「おっと、『呪物』として奉納されるのは、ちょっと新しいな。ご利益あるかな?」


早瀬くんは、わたしの剣幕にも全く動じず、むしろ面白そうに言いました。


「でも、そんなに真っ赤になって怒るってことは、やっぱり、俺の作ったマドレーヌ、特別美味しかったんだろ? 恋春ちゃん専用の愛情、たっぷり込めたからなあ」


彼は、全く懲りずに、さらに燃料を投下してきました!


(あ、愛情ですって!? 誰が誰への!? わ、わたしの専用!? そ、そんな……!)


「~~~~っ!!!」


わたしは、今度こそ本当に声も出せず、ただただ顔を真っ赤にして後ずさり、そして……持っていた黒いマドレーヌを、床に(幸い誰にも当たらずに)落としてしまい、脱兎のごとくその場から逃げ出してしまいました!


「あ、おい、恋春ちゃん! マドレーヌの感想、最後まで聞いてないぞー! まだまだスペシャルメニューあるんだけどなー!」


背後で早瀬くんの呑気な声が聞こえましたが、振り返る余裕など、竹炭の粉末一粒ほどもありませんでした!


『戦慄迷宮』の自クラスの教室に戻り、わたしは今日の文化祭カフェでの出来事を思い返していました。あの黒いマドレーヌの衝撃的な美味しさ、彼の言葉、そしてわたしの醜態……。わたしは鞄から例のノートを取り出します。


『早瀬くんを殺したい99の理由』


この沸騰する感情と混乱を鎮めるための、唯一無二の記録。


深呼吸を一つ。今日の、文化祭カフェでの予期せぬ甘い罠と、彼の破壊的な「可愛い」及び「愛情」発言について記録しなければ。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#50とナンバリングしました。


理由#50:文化祭のクラスカフェにおいて、『恋春スペシャル』と称する手作りマドレーヌ(黒)を強引に試食させ、その予想外の美味しさでわたしの味覚と判断力を麻痺させた。さらに、飲食中の顔を『可愛い』と評し、『俺が作ったから特別美味しい』『愛情を込めた』などという、極めて個人的かつ自意識過剰な発言で精神的動揺を引き起こし、わたしの冷静な文化祭視察計画を完全に頓挫させた罪。


……違う。これでは単なる彼の問題行動とわたしの被害報告、そしてマドレーヌのレビューに過ぎません。もっと本質的な、彼がわたしの隠れた嗜好まで的確に把握し、手作りのお菓子という極めてパーソナルな攻撃(!?)でわたしを揺さぶり、さらに「可愛い」「愛情」という直接的な言葉でわたしの自己認識と彼への感情(断じて恋ではない!)を強制的に揺さぶろうとしている、その恐るべき心理的戦略と、それに抗いきれないわたしの心の脆さについて記さなければ。わたしは書いた文章を、もはやあの黒いマドレーヌの味が忘れられないと感じながら(!?)、ぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#50:彼が、わたしの潜在的な味覚的嗜好(スパイス等)まで正確に分析し、『恋春スペシャル』と銘打った手作りマドレーヌ(黒)という、極めて個人的かつ心理的効果の高い手段で接触を試みた。その完成度の高い味覚的満足感を利用してわたしの警戒心を解き、無防備な状態を作り出した上で、『可愛い』『愛情を込めた』という直接的な言葉による精神攻撃を敢行。これにより、彼がわたしに対し、単なるクラスメイト以上の特別な感情を抱いている(あるいは、わたしにそう誤認させようとしている)可能性を強く示唆し、わたしの自己認識と彼への感情の境界線を曖昧にしようとした。このままでは、彼からの個人的な働きかけ(手作りのお菓子、甘い言葉など)に対し、理性的な抵抗が不可能となり、最終的には完全に彼の術中に嵌り、彼への特別な感情を認めざるを得ないという、致命的な精神的降伏を招く危険性が極めて高い。その甘美で巧妙な心理的罠から逃れ、橘恋春としての論理と自律性を守るための、緊急かつ絶対的な殺害動機。……しかし、あのスパイスの配合、本当に絶妙だった。一体どこで……。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや恋愛戦略(!?)に巻き込まれたような重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心を特製マドレーヌで攻略しようとする彼の魔の手から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、ふと自分の口元に手をやりました。もう黒いマドレーヌの欠片などついていないはずなのに、なぜか彼の視線を感じたような気がして、顔が熱くなります。


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の隠れた好みまで把握して、手作りのお菓子で狙い撃ちしてくるなんて、戦略的すぎます……! しかも、あんな自信満々な顔で『愛情』だなんて……)


彼の、あの悪戯っぽい笑顔と、少しだけ真剣な(ように見えた)お菓子作りの情熱(!?)が、忘れられません。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、強引な誘いも、甘い罠も、自意識過剰な愛情表現(!?)も、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、彼が言っていた『まだまだスペシャルメニューあるんだけどなー!』という言葉を、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……気にしてしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、味覚を、そして文化祭を楽しむ計画まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼の手作り黒マドレーヌの衝撃的な美味しさと、彼の「愛情」という言葉に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……心を奪われそうになってしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……あのカフェ、もう一度だけ、今度は完全防備で(そして変装もして)行って、他のスペシャルメニューも全て試食し、その問題点を徹底的に洗い出してあげなければなりません! もちろん、文化祭全体の質の向上のためですが!

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