放課後の美術室と、彼の描くわたしの肖像(という名の凶器)

芸術の秋。放課後の美術室は、油絵の具の匂いと、生徒たちの静かな熱気に満ちていました。わたし、橘恋春は、美術の課題である「人物画」のモデルとして、クラスメイトのAさんに頼まれ、椅子に座っていました。完璧な姿勢を保ち、表情も知的に、そして少しだけ憂いを帯びた(と自分では思っている)雰囲気で。Aさんは、真剣な眼差しでキャンバスに向かっています。


(モデルとはいえ、時間を無駄にはできません。この静寂を利用し、先日読んだカントの『純粋理性批判』の要点を反芻はんすうしましょう。カテゴリー論、アンチノミー……)


思考に集中しようとした、まさにその時。


「おー、恋春ちゃん、モデルやってるのか。絵になるねえ」


美術室の入り口付近から、あの、わたしの完璧な集中をいとも容易く破壊する声が聞こえてきました。振り返ると、早瀬蓮くんが、自分のスケッチブックを小脇に抱え、ニヤニヤしながら立っていました。彼は、どうやら自由制作の課題で美術室を利用しているようです。


(なっ……!? なぜ、あなたがここに!? しかも、わたしのこの芸術的な(はずの)ポージングを、そんな軽々しい言葉で評価するなんて! 不敬です!)


ドクン、と心臓が不規則に跳ねます。彼の存在そのものが、この静謐な空間における、予測不能なノイズなのです。


「……早瀬くん。ここは静かに制作に集中する場所です。私語は慎んでください」


わたしは、Aさんの手前、努めて冷静に、しかし明確な不快感を含ませて注意しました。視線は、あくまで遠くの石膏像へ。


「はいはい、失礼しました。でもさ、せっかくだから、俺も恋春ちゃんの肖像画、描いてもいいか? Aさんの邪魔にならないように、あっちの隅っこでさ」


彼は、悪びれもなく、とんでもない提案をしてきました!


(わ、わたしの肖像画を、あなたが!? しかも、このわたしがモデルになっている状況で!? そ、そんな、二重の羞恥プレイのような……! 断じて許可できません!)


「結構です! わたしはAさんのモデルとしてここにいるのです。あなたの気まぐれに付き合う義理はありません!」


わたしはきっぱりと拒絶しました。


「えー、つれないなあ。でも、恋春ちゃんみたいな美人を描けるチャンス、滅多にないしなあ。一生のお願い!」


彼は、大げさに手を合わせ、拝むような仕草(絶対に演技です!)をします。


(び、美人ですって!? な、何を根拠に……! いえ、客観的に見て、わたしの容姿が平均以上であることは論理的に否定できませんが、それをあなたに言われるのは……!)


彼の不意打ちの褒め言葉に、顔がカッと熱くなるのを感じます。


「……Aさんが、許可するというのなら、わたしに異存はありませんが」


わたしは、Aさんに判断を委ねるという、最も合理的な(そして、少しだけ期待している自分をごまかすための)逃げ道を選んでしまいました。Aさんは、少し困った顔をしながらも、「まあ、邪魔にならないなら……」と、早瀬くんの参加を許可してしまいました。


(ああ、Aさん……! なぜ、安易に許可してしまうのですか!)


こうして、わたしはAさんに加え、斜め向かいに陣取った早瀬くんからも、じっと見つめられながら絵筆を走らせられる、という、拷問のような状況に置かれることになったのです。


早瀬くんは、時折、意味ありげな笑みを浮かべながら、すごい勢いでスケッチブックに何かを描き込んでいます。彼が何を描いているのか、気になって仕方ありません。カントの哲学など、もはや頭から完全に消え去っていました。


(な、何を描いているのですか、あの男は……! まさか、わたしの顔に落書きでもしているのでは……!? それとも、もっと破廉恥な……!?)


想像が悪い方へと暴走し、心臓がドキドキと早鐘のように打ち鳴らされます。顔の熱さが、さらに増していくのを感じました。


数十分後。Aさんが「そろそろ休憩にしましょうか」と声をかけてくれました。わたしはホッと息をつき、硬直していた体を解きほぐします。


「お疲れ様、恋春ちゃん。どう? 俺の傑作、見てみる?」


早瀬くんが、得意満面な顔で、自分のスケッチブックをこちらに差し出してきました。


(け、傑作ですって……? どうせ、ろくなものではないに決まっています。しかし、見なければ、彼が何を企んでいたのか分かりません……!)


わたしは、恐る恐る、しかし毅然とした態度で(と自分では思っています)、彼のスケッチブックを受け取りました。そして、そこに描かれていたものを見て、わたしは……言葉を失いました。


そこには、驚くほど正確に、そして美しく、わたしの姿が捉えられていたのです。知的な眼差し、少しだけ憂いを帯びた表情、完璧な姿勢……それは、わたしが理想とする「橘恋春」そのものでした。しかも、単に似ているだけでなく、絵全体から、描いた対象への温かい眼差しのようなものが、不覚にも伝わってくるのです。


(うそ……でしょう!? こ、こんな……わたしの、内面まで見透かしたかのような、完璧な肖像画を、あなたが……!? しかも、この、絵から感じる、この温かいものは……一体……!?)


わたしは、衝撃と、混乱と、そして……ほんの少しの、ありえないはずの喜びで、頭が真っ白になりました。彼の意外な才能、そしてその絵が放つ不可解な魅力に、心臓が激しく高鳴り、呼吸が浅くなるのを感じます。


「どう? なかなかだろ? やっぱり、恋春ちゃんは絵になるよ。特に、難しい本を読んでる時の、あの世界に入り込んじゃってるみたいな、ちょっと近寄りがたいオーラ。あれ、すごく惹かれるんだよな」


早瀬くんが、わたしの反応を面白がるように、そして畳み掛けるように、そんなことを言いました。


(わ、わたしの……読書中のオーラ……? 近寄りがたい……? それは、わたしが集中している証であり、他者を寄せ付けないためのバリアのようなもの……。それを、彼が……『惹かれる』……ですって……?)


彼の言葉は、わたしの最も大切にしている「知的な聖域」と、そこに踏み込ませたくないという「孤高のプライド」を、同時に肯定するような、矛盾した響きを持っていました。それは、批判でも、からかいでもなく、ただ彼の純粋な(ように聞こえる)興味と、ある種の称賛。だからこそ、わたしの心を複雑に揺さぶります。


(こ、こんな……わたしが意識して作り上げている、他者との壁のようなものを、彼が……肯定的に捉えるなんて……。そ、そんな……ありえない……。これは、また彼の策略……? わたしを油断させるための、巧妙な言葉……? でも、もし、本心だとしたら……わたしが守ってきたこの領域を、彼は……理解してくれている……というの……?)


顔が、カッと熱くなります。それは、怒りとは少し違う、もっと複雑で、理解されたいという密かな願望と、理解されたくないという防衛本能がぶつかり合うような、そしてどうしようもなく胸が苦しくなるような熱さでした。彼の言葉が、わたしの心の最も奥深くにある、誰にも触れさせたくなかった扉を、静かに、しかし確実にノックしてくるような感覚。認められない。認めたくない。でも、無視もできない。この、胸の奥から湧き上がってくる、戸惑いと、ほんの少しの期待が入り混じった感情を。


(だめ……! こんなものに、心を許してはいけません! わたしは、孤高の探求者でなければ……! こんな、安易な共感や理解に、安らぎを覚えてはいけない……!)


しかし、彼の言葉は、まるで魔法のように、わたしの思考を侵食し始めます。彼の描いた、わたしの「近寄りがたいオーラ」まで表現された(ように見える)肖像画。そして、「惹かれる」という、直接的で、少しだけ危険な響き。


「……っ!」


わたしは、スケッチブックを強く握りしめ、俯いてしまいました。言葉が出てきません。ただ、心臓が、驚きと混乱と、そして彼への言いようのない興味で、激しく高鳴っているのを感じるだけでした。


彼の言葉が、わたしの心の奥底に、静かに、しかし深く突き刺さってきます。わたしが守ってきた「孤高」。それを彼は「魅力的」だと言った。それは、今まで誰にも言われたことのない、そしてわたし自身ですら、考えたこともなかった評価でした。


(……本当に……そう思っているのだろうか……。わたしのこの、人を寄せ付けないような雰囲気を……。それとも、またいつものように、わたしをからかっているだけ……?)


顔が熱い。俯いたままでも、彼からの視線を感じるような気がして、居ても立ってもいられない気持ちになります。このままでは、本当に、彼に心の壁を壊されてしまうかもしれない……。そんな、甘いような、恐ろしいような予感が、胸を締め付けます。


「おや? 恋春ちゃん、どうしたんだい? 俺の言葉、そんなに意外だった?」


早瀬くんが、わたしの反応を面白がるように、そして少しだけ、本当に少しだけ、心配そうな声色で(絶対に気のせいです!)顔を覗き込んできました。


「もしかして、図星だった? 本当は、誰かにそのオーラ、気づいてほしかったとか? それとも……」


彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべると、さらに声を潜め、わたしの耳元に囁くように言いました。


「……俺に、その『近寄りがたいオーラ』の奥まで、踏み込んでほしかったりして?」


(なっ……!?!?!? わ、わたしの……オーラの奥まで……彼に……踏み込んで……ほしい……ですって!?!?!?)


その、あまりにも直接的で、挑発的で、そしてわたしの心の最も深い部分にある、決して認めたくない願望(!?)を的確に抉り出すような悪魔の囁き! それが、わたしの最後の理性の糸を、無慈悲にも断ち切りました!


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」

わたしは、顔を真っ赤にしたまま、勢いよく顔を上げました! 目には、羞恥と、激しい怒りと、そしてほんの少しの(断じて認めたくない!)図星を突かれた動揺が入り混じった、猛烈な炎が燃え盛っています!


「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! わたしの聖域たる精神領域に土足で踏み込み、あまつさえその奥まで探ろうとするその不敬かつ破廉恥極まりない欲望と! わたしの純粋な知的好奇心を下劣な願望にすり替えるその悪魔的解釈は!!! この美術室に存在する全ての絵筆の毛を一本残らず逆立てるよりも、さらに冒涜的で許しがたい死に値します!!! 今すぐその汚れた願望を撤回し、わたしのオーラの半径10メートル以内に二度と近づかないと、この石膏像に誓いを立てなさい! さもなくば、この! あなたが描いたわたしの肖像画(精神的汚染物質指定!)で!!! あなたのその! 下心まる見えの邪悪な両眼を! 永久にわたしのオーラ(の聖域の外側)しか見えなくなるように、芸術的に塗り潰して差し上げます!!!!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは手に持っていた早瀬くんのスケッチブック(もはや呪いの絵巻です!)を構え、完全にパニック状態でした! Aさんが、完全にフリーズしてこちらを見ています!


「おっと、半径10メートルはちょっと寂しいな。それに、俺の目に呪いをかけるなんて、やっぱり恋春ちゃん、俺に注目してほしいんだ?」


早瀬くんは、わたしの剣幕にも全く動じず、むしろ満足そうに言いました。


「でも、やっぱり、俺の描いた恋春ちゃん、そしてあの近寄りがたいオーラの奥にある(かもしれない)本当の君、最高に魅力的だと思うけどな。俺は本気でそう思ってるし、もっと知りたい」


彼は、全く懲りずに、しかし今度は少しだけ挑戦的で、そしてどこか真剣な眼差しで、わたしの心の奥底に直接訴えかけるように言いました。


(し、知りたい、ですって!? わ、わたしのことを!? そ、そんな……! ああ、もう、この男の、この、真っ直ぐな(ように見えてしまう)言葉と視線が、わたしの理性を、わたしの壁を……!)


「おや? 恋春ちゃん、どうしたんだい? 俺の言葉、そんなに意外だった?」


早瀬くんが、わたしの反応を面白がるように、そして少しだけ、本当に少しだけ、真剣な眼差しで(絶対に気のせいです!)顔を覗き込んできました。


その、探るような、しかしどこか優しい(ように見えてしまう)視線が、わたしの限界の引き金を引きました。このままでは、わたしは、本当に、彼に心の奥底まで見透かされ、支配されてしまう……! それだけは、絶対に避けなければ!


「~~~~っ!!!!!」


わたしは、顔を真っ赤にしたまま、勢いよく顔を上げました! 目には、羞恥と、反発と、そしてほんの少しの(断じて認めたくない!)共感を覚えてしまった自分への怒りが入り混じった、複雑な炎が燃え盛っています!


「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! わたしの聖域たる読書中のオーラを勝手に分析し、それを『惹かれる』などという不適切な言葉で表現し、わたしの孤高の精神を汚そうとするその不敬かつ冒涜的な行為は!!! この美術室に存在する全ての石膏像が自己崩壊するよりも、さらに絶望的で救いのない死に値します!!! 今すぐその不埒な分析結果を撤回し、わたしのオーラは断じてあなたを惹きつけるものではないと、このキャンバスに指で署名なさい! さもなくば、この! あなたが描いたわたしの肖像画(精神的凶器認定!)で!!! あなたのその! 人の心の壁を勝手に乗り越えようとする不埒な好奇心を! 美しくも残酷に封印し、永遠にわたしの『近寄りがたいオーラ』の前に跪き続ける呪いをかけて差し上げます!!!!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは手に持っていた早瀬くんのスケッチブック(もはや呪符です!)を構え、完全にパニック状態でした! Aさんが、絵筆を握りしめたまま硬直しています!


「おっと、二連発新しいな。それに、俺の好奇心に呪いをかけるなんて、恋春ちゃん、意外と俺のこと、独占したいのかな?」


早瀬くんは、わたしの剣幕にも全く動じず、むしろ満足そうに言いました。


「でも、やっぱり、俺の描いた恋春ちゃん、そしてあの近寄りがたいオーラ、最高に魅力的だと思うけどな。俺は本気でそう思ってる」


彼は、全く懲りずに、しかし今度は少しだけ挑戦的な眼差しで、わたしの心の奥底に直接訴えかけるように言いました。


(み、魅力的ですって!? 本気で!? そ、そんな……! ああ、もう、この男の、この、わたしの最も守りたい部分を肯定するような言葉が、わたしの理性を……!)


「だ、黙りなさい!!! この、美的感覚破綻者! わたしの理解を超えた芸術家(悪い意味で)!」


わたしは、もはや語彙の限界を超えた罵詈雑言を浴びせるしかありませんでした。


「はいはい、美的感覚破綻者ね。光栄だな」


彼は肩をすくめると、スケッチブックをそっとわたしから取り上げました。


「まあ、この絵は、特別に恋春ちゃんにプレゼントするよ。俺からの、ささやかな想いってやつ?」


彼は、悪戯っぽくウインクすると、そのスケッチブックをわたしの膝の上にそっと置きました。


(ぷ、プレゼント!? ささやかな想い、ですって!? な、何を……!?)


わたしは、あまりの衝撃に、何も言い返すことができず、ただただ膝の上のスケッチブックと、彼の顔を交互に見つめることしかできませんでした。


(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 勝手に人の絵を描き、それを褒め(てしまいそうになり)、眉間のシワを可愛いと言い、挙句の果てにはその絵を『想い』と共にプレゼントしてくるなんて!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……あなたの全持ち物に、わたしのサイン(もちろん呪いの!)を書き込んでお返しします!!!)


結局、わたしは、早瀬くんが描いたわたしの(美化されすぎた)肖像画を、なぜか断ることができず、持ち帰ることになってしまったのです。


自室に戻り、わたしはそのスケッチブックを、机の上にそっと立てかけました。何度見ても、そこに描かれているのは、理想化された、しかしどこか本当のわたしのような気がして、胸が苦しくなります。そして、鞄から例のノートを取り出します。


『早瀬くんを殺したい99の理由』


この、新たな芸術的(そして感情的)攻撃を記録しなければ。


深呼吸を一つ。今日の、美術室での予期せぬモデル体験と、彼の描いた絵がもたらした衝撃、そしてあの破壊的な「プレゼント」と「想い」という言葉について。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#97とナンバリングしました。


理由#97:美術室において、わたしの許可なく肖像画を描き、さらにその絵を『傑作』と称し、わたしのチャームポイント(眉間のシワ!?)を指摘するなどして精神的動揺を引き起こした。最終的に、その絵を『ささやかな想い』という不適切な言葉と共にプレゼントとして押し付け、わたしの拒否権を奪い、精神的な負債を負わせた罪。


……違う。これでは単なる彼の迷惑行為とプレゼントの記録です。もっと本質的な、彼の描いた絵が、わたしの自己認識を揺るがし、彼がわたしに対して抱いているかもしれない(認めたくない!)特別な感情を意識させ、その結果として彼からの「贈り物」を拒絶できなかった、わたしの心の深い部分での敗北について記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや自分の感情の複雑さにため息をつきながら、ぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#97:彼が、美術室という特殊な空間で、わたしの内面を的確に捉えた(とわたしが感じてしまうほど)高度な技術で肖像画を描き上げた。その作品を通じて、彼がわたしに対して、単なるクラスメイト以上の深い関心と(おそらくは好意的な)感情を抱いている可能性を強く示唆し、わたしの自己認識と彼への感情に深刻な混乱をもたらした。さらに、その絵を『ささやかな想い』という言葉と共にプレゼントすることで、わたしに精神的な『借り』を作らせ、彼との間に特別な(そして断ち切り難い!?)繋がりを強制的に構築しようとした。このままでは、彼の芸術的才能と巧みな言葉によって完全に心を掌握され、最終的には彼の『想い』を受け入れ、彼のミューズ(!?)としての役割を甘んじて受け入れてしまうという、致命的な自己喪失と芸術的隷属を招く危険性が極めて高い。その美しくも危険な罠から逃れ、橘恋春としての理性的自己と芸術的批評眼を守るための、緊急かつ絶対的な殺害動機。……しかし、あのデッサンの線の美しさは、客観的に評価せざるを得ない。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや芸術と恋の狭間(!?)での重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心を美しい絵で射抜こうとする彼の魔の手から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、机の上のスケッチブックに描かれた自分の顔を、もう一度見つめました。彼の言う「眉間のシワ」が、なぜか今日は、それほど嫌ではないような気がして……。


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の心を、絵筆一本でかき乱すなんて、反則です……!「ささやかな想い」だなんて……)


彼の、あの少し照れたような、でも自信に満ちた笑顔と、「俺は本気で可愛いと思ってるんだけどな」と言った時の、あの真っ直ぐな声が、忘れられません。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、予測不能な才能も、そして……わたしのコンプレックスすら肯定するような、その全てが、わたしの心を複雑に揺さぶるのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、彼が次にわたしの絵を描くとしたら、どんな表情をすればもっと『チャーミング』に見えるのだろうか、なんて、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……考えてしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、プライドを、そして美的感覚(!?)まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼が描いたわたしの肖像画と、そこに込められた(かもしれない)彼の「想い」に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……心を奪われてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……この絵、どこに飾れば、最も彼を『殺せる』でしょうか。いえ、もちろん、芸術的観点からの最適な配置を考えるだけですが!

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