体育祭借り物競争と、選択不能のパラドックス
体育祭当日。抜けるような青空の下、グラウンドは生徒たちの熱気と歓声で満ち溢れていました。わたし、橘恋春は、クラスの応援席でプログラムの進行を冷静に見守っていました。……いえ、正確には、次の自分の出番である「借り物競争」を前に、内心で完璧なシミュレーションを繰り返していたのです。どんなお題が出ても、最短ルートで最適な「物」あるいは「人」を見つけ出し、クラスに貢献する。それがわたしの使命です。
「さあ、続いては借り物競争! 各クラス代表選手、スタート位置へ!」
アナウンスに従い、わたしは緊張を悟られまいと平静を装い、スタートラインに立ちました。周囲の喧騒が、やけに遠くに聞こえます。
号砲一発。わたしは、日頃の鍛錬(主に脳内で)の成果を発揮すべく、完璧なスタートダッシュを切りました。目指すは、トラック中央に置かれたお題の紙。
(大丈夫、どんな難題が出ても、わたしの分析力をもってすれば必ず対応できるはず……!)
テーブルに到達し、震える手で一枚の紙を掴み取り、広げます。そこに書かれていた文字を見て、わたしは息を呑みました。
『 好きな人 』
……は?
すきな、ひと……?
その三文字が、わたしの思考回路を完全に停止させました。グラウンドの歓声も、風の音も、何もかもが消え去り、ただその文字だけが、わたしの目の前で残酷に存在を主張しています。
(す、好きな……人……!? な、なぜ、このタイミングで、このような、最も非論理的かつ、対処不能なお題が……!? わたしに、好きな人など……いるはずが……!)
全身から血の気が引き、同時に顔にカッと熱が集まります。心臓が、肋骨の内側で暴れ出し、呼吸が浅くなる。足が、地面に縫い付けられたように動きません。パニックです。これは、完全なるパニックです!
周囲の生徒たちが、わたしが固まっていることに気づき、ざわめき始めます。
「どうしたんだ、橘さん?」
「お題、なんだろう?」
好奇の視線が突き刺さるのが分かります。時間は、無情にも過ぎていきます。他のクラスの選手は、もう走り出しているかもしれません!
(ど、どうすれば……! わたしが行かなければ、クラスが……! でも、わたしが、誰かを、『好きな人』として連れて行くなんて……! そ、そんなこと、できるはずが……! いったい、誰を……!?)
わたしの頭の中は、完全に白紙の状態でした。論理も、分析も、何もかもが役に立ちません。この状況を打破する方法が、全く見出せないのです。
その時、グラウンドの反対側、次の競技の待機場所にいたはずの、あの男の声が、やけにクリアに響きました。
「おーい! 恋春ちゃーん! 何やってんだよー!」
早瀬蓮くんです。彼は、ゼッケンをつけた姿で、ニヤニヤしながらこちらに手を振っています。そして、周囲の注目を集めることも厭わず、メガホンでも使っているかのような大声で叫びました!
「もしかして、お題、『好きな人』かー!? だったら、ここにいるぜー! 早く来いよー!」
!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?
その瞬間、グラウンド中の視線が、トラック中央で固まっているわたしと、大声で叫ぶ早瀬くんに、文字通り集中しました! わたしは、頭の中で何かが臨界点を突破し、爆発するのを感じました!
(わ、わたしの……す、好きな人……!? か、彼が!? なぜ、あなたがそれを!? しかも、こんな大声で! 公衆の面前で! あ、ありえません! 断じて! これは、彼のいつもの悪ふざけ! そうに決まっています! わたしをからかっているだけ!)
しかし、わたしの心臓は、彼の言葉に抗うことができず、もはや破裂寸前まで激しく脈打っています! 顔は地球の核よりも熱く、立っていることすらできません!
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
わたしは声にならない絶叫を上げ、持っていたお題の紙(もはや憎しみの対象です!)をくしゃくしゃに握り潰しました!
「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! 早瀬蓮っ!!! あなたのその! 公衆の面前での
涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしはグラウンドの反対側にいる彼に向かって、ありったけの声で叫んでいました! 周囲の生徒たちは、完全に度肝を抜かれ、静まり返っています!
「おっと、怖い怖い」
早瀬くんは、遠くからでも分かるほど、肩をすくめ、全く
「でもさー、恋春ちゃん! そうやって怒ってるってことは、やっぱり図星なんだろー? 俺じゃなかったら、他に誰がいるって言うんだよー!? 早くしないとビリになっちゃうぞー!」
(ず、図星ですって!? ち、違います! 断じて! そ、それに、他に誰かって……! い、いません! わたしには、好きな人など、断じて……! ああ、でも、このままではクラスに迷惑が……! でも、彼を選ぶなんて、そんなこと……!)
彼の悪魔のような追撃と、迫りくるタイムリミットに、わたしは完全に思考停止し、その場で
(……ええい! もう、どうにでもなれです!)
わたしは、顔を真っ赤にしたまま、半ば自暴自棄になりながら、意を決して走り出しました! 向かう先は……!
体育祭が終わり、喧騒が去った夕暮れの教室で、わたしは一人、自分の席に座っていました。今日の借り物競争での出来事が、何度も何度も頭の中でフラッシュバックします。あの屈辱、混乱、そして……。
わたしは、鞄から例のノートを取り出しました。『早瀬くんを殺したい99の理由』。
深呼吸を一つ。今日の、あの悪夢のような借り物競争と、彼の、わたしの心を正確に射抜いた悪魔の囁きについて記録しなければ。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#86とナンバリングしました。
理由#86:体育祭の借り物競争において、わたしが『好きな人』というお題を引いた際、公衆の面前で『橘さんの好きな人はここにいる』と名乗り出てわたしを指名。さらに『他に誰がいる』と発言することで、わたしが彼を選ばざるを得ない(!?)状況を作り出し、精神的な屈辱と深刻なダメージを与えた罪。
……違う。これでは単なる被害報告と彼の悪行の記録です。もっと本質的な、彼の言葉によって、わたし自身が、彼以外に『好きな人』の選択肢を思い浮かべることができなくなってしまった、その恐るべき心理的支配と、それに抗えなかった自分の弱さについて記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや震える指でぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。
理由#86:彼が、体育祭という公の場で、わたしが引いた『好きな人』というお題に対し、あたかもそれが運命であるかのように『橘さんの好きな人はここにいる』と宣言し、さらに『他に誰がいる』と問い詰めることで、わたしの思考回路に強烈なバイアスをかけ、彼以外の選択肢を事実上排除した。これにより、わたしは彼の言葉通りに行動せざるを得ない(と誤認する)状況に追い込まれ、無意識のうちに彼への特別な感情を『好き』という形で肯定しかねない、極めて危険な精神状態に陥った。このままでは、彼の言葉がわたしの現実認識を支配し、最終的には完全に彼の意のままに操られる人形と化してしまう。その致命的な自己決定権の喪失と、それに伴う精神の隷属を回避するための、緊急かつ絶対的な殺害動機。
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや洗脳レベルの重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの心を支配しようとする彼の言葉から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。
わたしは、窓の外に沈む夕日を見つめました。グラウンドで響いた、彼の自信に満ちた、そして少しからかうような声が、まだ耳に残っています。「俺じゃなかったら、他に誰がいるって言うんだよー!?」
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の心を的確に見抜き、追い詰めるのが得意な人です。あんなこと、よく大声で……)
彼の顔を思い出すだけで、また顔が熱くなります。
(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、根拠のない自信も、わたしの心を公衆の面前で
結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、プライドを、そして全校生徒の前での尊厳(!?)まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼を選んでしまったという事実に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……言い訳できない感情が込み上げてくるのを、気づかないフリをするしかありませんでした。……明日、クラスメイトたちに何と言い訳すればいいのでしょう……。もちろん、あれは緊急避難的な、最も合理的な判断だったと説明しますが!
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