テスト終了後の赤点宣告と、追試補習の約束(と、その先の罠)

長く、そして熾烈しれつを極めた期末テストが、ようやく終わりました。最後の試験終了のチャイムが鳴った瞬間、教室は安堵のため息と解放感に包まれます。「終わったー!」「遊ぶぞー!」という声があちこちから上がり、生徒たちは浮き足立って帰り支度を始めています。


わたし、橘恋春は、テスト期間中も完璧な学習計画に基づき、全力を尽くしました。結果には自信があります。しかし、脳を酷使した疲労感は隠せません。わたしは静かに答案用紙を確認し、鞄に荷物をまとめました。早く帰宅して、休息を取らなければなりません。


「よっしゃー、解放! カラオケ行く人ー!」

「俺、ゲーセン!」


クラスメイトたちが、テストからの解放を祝う計画で盛り上がる中、わたしの隣の席で、一人だけどんよりとしたオーラを放っている人物がいました。早瀬蓮くんです。彼は机に突っ伏し、微動だにしません。


(……? 早瀬くん? いつもの彼らしくありませんね。まさか……)


その予感は的中しました。彼がゆっくりと顔を上げると、その顔には見たことのないような深いくまが刻まれ、目は虚ろです。


「……終わった……恋春ちゃん、僕、終わった……」

「……どういう意味ですか?」


わたしは、不吉な予感を感じつつ尋ねました。


「数学……完全に範囲、勘違いしてた……。たぶん、赤点……いや、追試確定だ、これ……」


彼は力なく呟き、再び机に突っ伏しました。その背中からは、真に迫った絶望感が漂っています。


(追試確定……! あの早瀬くんが!? 普段は不真面目に見えても、ああいうところで要領が良いはずなのに……。範囲の勘違いとは、致命的すぎます……)


わたしは内心で驚きつつも、かける言葉が見つかりません。


「はぁ……これで追試もダメだったら、夏休みの補習決定か……。楽しみにいてた旅行も、部活の合宿も、全部パーだ……。人生、詰んだ……」


彼の嘆きは、普段の軽薄さからは想像もつかないほど、具体的で切実でした。


(補習……。旅行や合宿も……。それは、確かに……)


彼のあまりの落ち込みように、わたしはほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、同情心が芽生えるのを感じました。


「……仕方ありませんね」


わたしは、気づけば口を開いていました。自分でも驚くほど、自然に。


「追試まで、まだ時間はあります。……その、わたしでよければ、追試の勉強、少しは手伝って差し上げても構いませんが」


言ってしまってから、ハッとしました。な、何を言っているのでしょう、わたしは! 彼に勉強を教えるなど! 時間の無駄ですし、何より、彼と二人きりで勉強するなど……!


早瀬くんは、ガバッと顔を上げました。その虚ろだった目に、一気に光が宿ります。


「え……!? ほんと!? 恋春ちゃんが、僕の追試の勉強を……!? あの、スパルタで有名な橘先生(!)に!?」


「か、勘違いしないでください! これは、クラスメイトとしての相互扶助の精神、及び、あなたの追試不合格がクラス全体の評価に影響を与える可能性への懸念からです! 決して、個人的な感情などでは……! それに、スパルタではありません! 合理的な指導を行うだけです!」


わたしは慌てて付け加えました。顔がカッと熱くなるのを感じます。


「うおおおお! さすが恋春大先生! 女神! 救世主! これで僕の夏休みは救われる!」


彼は、わたしの訂正など意に介さず、大げさに拝むような仕草をしました。


(め、女神……救世主……! ば、馬鹿なことを……!)


彼の過剰な反応に、わたしはたじろぎます。


「でもさ、恋春ちゃん」


彼は、急に真剣な(ように見える)表情になりました。


「君の貴重な時間を、僕のために使ってもらうなんて、申し訳なさすぎるよ。だからさ、これは僕からの提案なんだけど」


(……? 提案……?)


わたしは警戒しつつ、彼の言葉の続きを待ちます。


「もし、君の完璧な指導のおかげで、僕が追試に合格できたら、そのお礼に、僕とデートしてくれない? 君への感謝の気持ちを、ちゃんと形で示したいんだ」


デ、デートですって!?!?!?!? 追試合格のお礼!? わたしへの感謝の形!? なぜ、それがデートになるのですか! 論理の飛躍もはなはだしい!


瞬間、わたしのテスト疲れの脳が、再びショート寸前になりました! 顔が一気に沸騰し、心臓が警鐘を乱打します!


(な、な、な、何を言っているのですか、この人は! わたしが勉強を手伝うのは、あくまでクラスのため! それなのに、合格したらデート!? そんな個人的な見返り、要求するなんて! しかし、彼が合格しなければ、わたしの指導が無駄になる……? いえ、違う! そんなことは関係ありません! でも……!)


「そ、そんな……! 追試の合否と、そのような個人的な要求を結びつけるのは、倫理的に問題があります!」


わたしは震える声で反論しました。


「そうかな? でも、僕にとっては、恋春ちゃんの指導は命綱なんだ。それで合格できたら、感謝してもしきれないよ。その感謝を伝えるのに、君と楽しい時間を過ごす以上に良い方法があるとは思えないんだけど?」

彼は、妙に真摯しんしな表情で(しかし、瞳の奥は悪戯っぽく輝いています!)訴えかけてきます。


楽しい時間!? あなたと!? それが、感謝の表現!? ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」


わたしは声にならない絶叫を上げ、手に持っていた赤点回避祈願の消しゴム(テスト中に使っていたものです!)を、彼に向かって投げつけそうになりました! (もちろん、投げませんでしたが!)


「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその! 自分の不幸を利用した不当な取引と! 『楽しい時間』などという恩着せがましいお礼の提案と! そのわたしの善意(!?)を悪用する悪魔のような発想は!!! このテスト範囲の全教科書の総ページ数を合計したよりも多い死に値します!!! 今すぐそのふざけた条件を取り下げなさい! さもなくば、この! 消しゴム(祈願済み)で!! あなたのその! 追試に関する記憶ごと! 綺麗さっぱり消し去って差し上げます!!!!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは消しゴムを握りしめ、完全にパニック状態でした! まだ教室に残っていた数人のクラスメイトが、遠巻きにこちらを見ています!


「おっと、記憶を消されちゃ、追試に合格できないじゃないか」


早瀬くんは、ひらりと身をかわす真似をしながら、余裕の笑みを浮かべています。


「まあ、いいじゃないか、デートくらい。僕が合格したら、の話なんだし。 それとも、恋春ちゃん、僕が追試に合格するのが、そんなに嫌?」


彼は、少し意地悪そうに、わたしの反応をうかがってきます。


(ご、合格するのが嫌、ですって!? そ、そんなことは……! いえ、むしろ、合格してもらわないと、わたしの指導が……! でも、そしたらデート……!? あああ、もう!)


彼の言葉は、わたしの葛藤を的確に突いてきます。


「……っ! 合格するのは当然です! わたしの指導を受けるのですから! しかし、デートは別問題です!」

「じゃあ、合格したらデート、で決定な! よーし、俄然がぜんやる気出てきた! 恋春先生、ビシバシお願いします!」


彼は、わたしの反論を完全に無視し、勝手に話をまとめると、拳を握ってガッツポーズまでしてみせました。その変わり身の早さ!


「なっ……! ま、待ちなさい! 勝手に決めないでください!」


わたしは慌てて呼び止めようとしましたが、彼は「じゃ、勉強計画立てるために、図書室行こーぜ!」と、すでにわたしの腕を掴んで(!?)引っ張ろうとしていました。


(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 追試確定で落ち込んだかと思えば、それを理由に勉強を頼み、挙句の果てには合格したらデートだと要求し、勝手に決定して行動に移すなんて!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……あなたの追試の答案用紙に、合格点ギリギリになるような絶妙な減点をして(!?)お返しします!!!)


結局、わたしは、彼の追試勉強を手伝うことになり、さらに合格した場合のデート(!?)という、とんでもない約束を結ばされてしまったのです!


自室に戻り、追試範囲の確認と指導計画の作成を(不本意ながらも完璧に)行いながら、わたしは今日の出来事を振り返っていました。そして、鞄から例のノートを取り出します。『早瀬くんを殺したい99の理由』。この理不尽な約束と、それに対する複雑な心境を記録しなければ。


深呼吸を一つ。今日の、テスト後の衝撃的な告白(?)と、そこから生まれた奇妙な師弟関係(!?)、そしてその先に待つかもしれない危険な報酬について。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#88とナンバリングしました。


理由#88:期末テストでの赤点(追試確定)という自業自得の状況を利用し、わたしに追試勉強の指導を依頼。さらに、その指導への感謝として『追試に合格したらデート』という、指導の成果と個人的な見返りを不当に結びつける条件を提示し、最終的にわたしの反論を無視して一方的に約束を取り付けた罪。


……違う。これでは単なる契約内容の確認です。もっと本質的な、彼の窮状(?)に同情し、手を差し伸べてしまった結果、彼を『合格させる』という目標を共有し、その達成の暁には『デート』という個人的な関係性の進展を受け入れざるを得ない(かもしれない)という、このがんじがらめの状況と、それに伴う自己矛盾について記さなければ。わたしは書いた文章を、深い自己嫌悪と、ほんの少しの(ありえないはずの)使命感と共にぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#88:彼が示した窮状に対し、わたしが『指導する』という形で介入してしまった結果、『追試合格』という共通の目標を設定され、その達成報酬として『デート』を約束させられるという、極めて不本意かつ拘束力の高い関係性に巻き込まれた。このままでは、彼の合格のために全力を尽くさざるを得ず、その過程で師弟関係以上の感情(!?)が芽生え、最終的に追試合格と共にデートを受け入れ、完全に彼のペースに飲み込まれてしまう危険性が極めて高い。その致命的な責任感(!?)の暴走と、それに伴う個人的領域への侵食を阻止するための、緊急かつ絶対的な殺害動機。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや教育実習生(!?)のような立場に追い込まれた重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、深く息をつきました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの貴重な時間と平穏な心を奪う追試勉強地獄から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、追試範囲の数学の教科書を開きました。彼に、どこから教えるべきか……。


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の責任感につけこむのが上手すぎる人です。『恋春先生、ビシバシお願いします!』だなんて……)


彼の、あの妙にやる気に満ちた顔と、強引さが、忘れられません。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、計画性のなさも、そして……わたしを頼ってくる(?)時の、あの妙な素直さ(?)も、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、彼が追試に合格できるように、最も効率的で分かりやすい指導計画を、完璧に練り上げようと、本気で考えてしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、同情心を、そして(これから始まるであろう)貴重な時間まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼の追試勉強を手伝い、彼を合格させなければならないという奇妙な使命感と、その先にある(かもしれない)デートの約束に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……心を揺らされてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……まずは、彼の学力レベルを正確に把握するための、診断テストを作成しなければなりません! もちろん、手加減はしませんが!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る