夕暮れの教室と致死量の優しさ、そして殺害理由
放課後の教室は、生徒たちのほとんどが帰り支度を終え、がらんとしていました。窓から差し込む西日が、机や床に長い影を落としています。わたし、橘恋春は、日直の仕事である日誌の記入を終え、鞄に教科書やノートを詰め込んでいました。今日中に復習すべき項目が山積みです。完璧な計画に基づき、一刻も早く帰宅しなければなりません。
「あれ……? ない……どこに入れたかしら……?」
鞄の中を探っていた手が止まります。今日の古典の授業で配られた、重要事項がまとめられたプリントが見当たらないのです。机の引き出し、教科書の間、ノートのページ……どこを探しても、ありません。
(まさか……! あのプリントを紛失するなど、わたしの完璧な管理体制にあるまじき失態……!)
焦りがじわじわと胸に広がります。他の生徒はもうほとんどいません。誰かに聞くわけにもいきません。わたしは内心の動揺を隠し、平静を装いながら、自分の机の周りをもう一度入念に探し始めました。
「おや、恋春ちゃん、まだいたのかい? 何か探し物?」
不意に、背後から軽やかな声がかかりました。振り返ると、今日のもう一人の日直である早瀬蓮くんが、教室の出口付近でこちらを見ていました。彼はとっくに帰ったものと思っていたのに。
(なっ……! なぜ、まだ……! しかも、わたしのこの失態を見られてしまうなんて……!)
「……いえ、別に。忘れ物がないか確認していただけです。お先にどうぞ」
わたしは努めて冷静に、彼に背を向けたまま答えました。弱みを見せるわけにはいきません。
「ふーん? でも、なんか焦ってるみたいだけど。もしかして、今日の古典のプリントとか探してたりして?」
彼は鋭い。わたしの僅かな動揺から、的確に状況を推察してきました。
「……っ! なぜ、それを……」
「いや、さっき君が鞄に入れるの、ちらっと見えた気がしたからさ。鞄の底の方とか、他のノートに挟まってるとか?」
早瀬くんはこともなげに言うと、わたしの隣までやってきて、屈託のない笑顔で言いました。
「よかったら、僕も一緒に探そうか? 二人の方が早いだろ?」
(な、なんですって!? あなたが、わたしの鞄の中を……!? いえ、それよりも、一緒に探すですって!? この、わたしの個人的な失態に、あなたを巻き込むわけには……! しかも、そんな、当たり前のように、優しさを差し出して……!)
彼の申し出に、心臓がドクンと跳ねます。彼の親切(?)は、いつもわたしの予測を超え、心をかき乱します。
「け、結構です! わたし一人で探せます! あなたの手を煩わせるようなことでは……!」
「まあまあ、そう言わずに。ほら、こっちの教科書の間とか……あった!」
わたしが断る間もなく、早瀬くんはわたしの机の上に積み重ねてあった教科書の一冊を手に取り、パラパラとめくると、あっさりと目的のプリントを見つけ出してしまいました。
「はい、どうぞ。やっぱり挟まってたみたいだね。よかったな、恋春ちゃん」
彼は、まるで当然のことのように、そのプリントをわたしに差し出し、太陽のような、眩しい笑顔を向けました。
その笑顔と、いとも簡単に問題を解決してくれた彼のスマートさと、そして何より、困っているわたしを当たり前のように助けてくれた彼の優しさが、真正面からわたしの心を射抜きました。
ドクン!ドクン!と、警告音が鳴りやまないように心臓が激しく脈打つ。顔に急速に熱が集まり、視界がぐらつくような感覚。息が詰まります。
(なっ……! なぜ……! なぜ、あなたはいつもそうなのですか!? わたしの失敗を、いとも簡単に見抜き、そして、こんなにも自然に、手を差し伸べて……! その、見返りを求めない、純粋な優しさは……! わたしの、完璧なはずの防御壁を、いとも簡単に……!)
立っているのがやっとです。呼吸すらままなりません。
「……あ、ありがとうございます……」
かろうじて、蚊の鳴くような声で礼を言うのが精一杯でした。顔はきっと、夕陽以上に赤く染まっているに違いありません。
「どういたしまして。困った時はお互い様だろ?」
早瀬くんは、わたしの動揺には気づいているのかいないのか、いつものように軽い口調で、しかし、その瞳には確かな温かさを宿して言いました。
「それに、恋春ちゃんが本気で困ってる顔、ちょっと珍しくてさ。助けられてよかったよ」
彼のその言葉、特に「助けられてよかった」という、彼の満足感を示す響きが、わたしの限界メーターを完全に振り切らせました。
「~~~~っ!!!」
わたしは声にならない悲鳴を上げ、反射的に彼からプリントをひったくるように受け取りました。
「な、なんですか、それは……! わたしが困っているのを見て、楽しんでいたというのですか!? それとも、憐れんでいたのですか!?」
パニックに陥った頭では、彼の言葉を素直に受け取ることなどできませんでした。
「おっと、そう怒るなって」
早瀬くんは肩をすくめ、いつもの余裕を見せながら言いました。
「別に深い意味はないって。ただ、いつも完璧な恋春ちゃんにも、そういう一面があるんだなって思っただけだよ。その、人間らしいっていうか……」
「人間らしいですって!? わたしは常に完璧です! あなたのような方に、わたしのことを分かったような口を利かないでください!」
「……まあまあ、落ち着けって」
彼の飄々とした態度が、今のわたしには火に油を注ぐだけでした。彼の優しさが、今はただただ恐ろしい。期待してしまう自分が、何よりも怖いのです。
「その……! その、人を無条件に助けるような、致死量の優しさで……! わたしの心を乱さないでください!!!」
息も絶え絶えに、わたしは早瀬くんを睨みつけます。涙が滲みそうな瞳は、もう完全に制御を失っていました。
「……っ、これ以上、わたしを勘違いさせないでください……! あなたのその優しさが、わたしにとって何か特別なものかもしれないなんて、そんな馬鹿げた期待を抱かせないでください! わたし、死んでしまいますから!……殺しますよ!!!」
最後の言葉は、もはや脅しではなく、自分の内なる嵐に飲み込まれ、助けを求めるような、悲痛な絶叫でした。
「えぇぇぇっ!?!? ちょ、待て待て、恋春ちゃん! だから、なんで僕が心配したら、君が死にそうになって、僕が殺されそうになるんだよ!? 『勘違い』って、だから何を!? 特別って……! 俺はただ、クラスメイトとして心配で……! っていうか、本当に大丈夫か!? 顔色、すごいぞ!?」
ここでようやく早瀬くんは、わたしのあまりにも切羽詰まった様子と、支離滅裂な言葉に、いつもの余裕を失い、本気で心配そうな顔で詰め寄ってきました。彼の瞳には、からかいの色は微塵もなく、ただ純粋な困惑と気遣いが映っていました。
その真摯な眼差しが、さらにわたしを追い詰めます。
「……っ! 近寄らないで下さいっ!!」
わたしは叫ぶと、鞄をひっ掴み、逃げるように教室を飛び出しました。
背後で早瀬くんが「あ、おい! 恋春ちゃん!」と何かを叫ぶ声が聞こえた気がしましたが、もう振り返ることはできませんでした。
人気のない階段の踊り場で、わたしは壁に背をもたせかけ、荒い息を整えました。まだ心臓は激しく鳴り、顔は熱い。鞄から例のノートを取り出します。『早瀬くんを殺したい99の理由』。わたしの混乱を受け止めてくれる、唯一の場所。
深呼吸を一つ。今日の、あの致命的なほどの優しさと、それに伴う自己崩壊の危機を記録しなければなりません。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#62とナンバリングしました。
理由#62:わたしがプリント紛失という失態を犯した際、それを発見・解決し、さらに『困った時はお互い様』『助けられてよかった』などと、過剰な親切心と共感を示したこと。その『致死量の優しさ』によって、わたしの自己防衛本能を麻痺させ、彼の行動に特別な意味を見出しかねない危険な精神状態へと追い込んだ罪。
……違う。これではまだ彼の行動記録に過ぎません。もっと核心を突かなければ。彼の優しさが、なぜわたしにとって「致死量」なのか。なぜそれが「殺意」に繋がるのか。その倒錯した論理を。わたしは書いた文章に線を引くと、改めてペンを走らせました。
理由#62:彼が、わたしの弱さ(失態)に対し、警戒心を溶かすような純粋な優しさで介入した。これにより、わたしの完璧に構築された自己像が揺らぎ、『助けられる』という経験を通して、彼の存在に依存してしまう可能性が露呈した。彼の無自覚な優しさを特別な好意と誤認し、期待し、そして裏切られる(であろう)未来を想像することは、わたしの精神にとって耐え難い苦痛であり、自己同一性の崩壊(=死)に繋がる。その致命的な脆弱性を刺激し続ける彼の存在そのものが脅威であり、完璧な橘恋春を守るための、緊急かつ絶対的な殺害動機。
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす深刻な危機を、極めて冷静かつ客観的に記述できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、震える手で鞄にしまいました。これでまた一つ、彼をこの世界から、そして何より、わたしの脆すぎる心から遠ざけるべき、明確で正当な理由が積み重なったのです。
わたしは再び歩き出します。まだ胸の奥の嵐は収まらない。彼がプリントを見つけてくれた時の、あの安堵したような、そしてわたしに向けられた温かい眼差しが、夕陽の光のように、瞼の裏に焼き付いて離れないのです。
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……なぜ、あんなにも自然に優しくできるのですか……。わたしには、理解できません……)
彼の優しさを思い出すだけで、胸が苦しくなります。
(……早瀬くん。あなたのその、人を助けることを厭わない態度も、屈託のない笑顔も、温かい言葉も、全部全部、わたしの心をかき乱し、平静ではいられなくさせるのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、あの時差し伸べられた手を、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……掴んでしまいたいと、願ってしまったのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)
結局、わたしは今日も彼に心を滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼の「致死量」の優しさに、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……救いを求めてしまいそうになった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……明日、彼にどんな顔をして会えばいいのか、本当に分かりません……。
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