味覚崩壊パニックと、調理実習の気まずい約束

昼休み。母が心を込めて作ってくれたお弁当。彩りも栄養バランスも完璧なはずなのに、なぜか今日は味がしません。いえ、味がしないというより、なんだか変なのです。大好きなはずの甘い卵焼きがぼやけていて、普段なら顔をしかめるピーマンの苦味が、あまり気になりません。


(どうして……? 体調でも悪いのでしょうか……?)


不安に思いながら箸を進めていると、ふいに影が差しました。


「やっほー、恋春ちゃん。隣、いい?」


声の主は、早瀬蓮くんでした。彼が屈託のない笑顔で、おにぎりを片手に隣の席に座った瞬間――ドクン!と心臓が大きく跳ねました。そして、口の中に残っていた鮭の塩味が、まるで幻だったかのように掻き消えたのです!


(うそ……! 今、確かに味が……! まさか、彼が原因……!?)


顔がカッと熱くなるのを感じます。最近、彼が近くにいると、ドキドキしたり、顔が赤くなったり、おかしなことばかり起こります。まさか、味覚までおかしくなるなんて!


「……な、何か用ですか、早瀬くん」


声が震えないように、必死に平静を装って尋ねました。でも、きっと顔は真っ赤でしょう。恥ずかしい……!


「ん? いや、別に用ってわけじゃないけど、恋春ちゃんのお弁当、いつも美味しそうだなーって思ってさ」


彼は悪びれもなく、わたしのお弁当を覗き込んできます。


「み、見ないでください! 人のお弁当をジロジロ見るなんて、失礼です!」


思わず大きな声が出てしまいました。


「え、あ、ごめん……」


彼は少し驚いたように、しょんぼりと視線を逸らしました。その反応に、少しだけ罪悪感を覚えます。でも、彼に見られると、ますます変になりそうなのです。


(落ち着いて、わたし……! でも、このままではダメです。彼が近くにいると、まともに食事もできないなんて……! これは、わたしの健康に関わる重大な問題です!)


意を決して、わたしは彼に向き直りました。


「あ、あの、早瀬くん……! あなたに言わなければならないことがあります!」

「えっ? な、なに……?」


彼は少し戸惑った表情でわたしを見ます。


「その……最近、変なんです! あなたが近くにいると、ご飯の味が、よく分からなくなってしまうのです!」


勇気を振り絞って言ったものの、顔から火が出そうです。なんて恥ずかしいことを言っているのでしょう!


「え……? 僕のせいで、恋春ちゃん、ご飯の味が分からなくなっちゃうの……?」


彼は目を丸くして、信じられないという顔をしています。


「……これは、わたしの味覚受容野に対する、あなたを媒介とした選択的な干渉が発生している証拠です! このままでは、わたしは正常な味覚による食事を楽しめなくなり、栄養バランスの偏りによる健康被害、あるいは、人生における食の喜びそのものを喪失する危険性すらあります!」

「(もぐもぐしていたおにぎりを飲み込み、真顔で)なるほど。つまり僕は、恋春ちゃんに対して味覚限定のサイレントテロを仕掛けている、と。自覚はなかったが、とんでもない無差別攻撃だな。国際問題に発展しかねない」


彼は予想外の、しかし妙に真面目な顔でそう返しました。


(こ、国際問題……? いえ、そういうことでは……! しかし、事態の深刻さはご理解いただけたようですね)


「……! しかし、放置できない問題であることは確かです!」

「理解したとも。恋春ちゃんの食の喜びは、世界の平和にも匹敵する重要案件だ。僕が存在するだけで、その宝石のような味蕾を曇らせてしまうとは……万死に値するな、僕は」

彼は大げさにため息をつきます。


(ば、万死……!? いえ、そこまででは……! なぜこの人はいつもこう極端なのですか!)


「だ、大げさです! しかし、原因究明と対策は急務です! もし、このまま有効な手立てが見つからなければ……」

「(わたしの言葉を遮るように)僕を排除する、か?」


彼の声は、いつもの軽さとは少し違って聞こえました。


「……っ! それは、最悪の選択肢ですが、可能性としては……」

「ふむ。恋春ちゃんに物理的に排除されるってのは、それはそれでちょっと興味深い最期だが……まだ生きていたい気持ちもあるな」

彼は顎に手を当て、わざとらしく考え込みます。


(な、何を言ってるんですかこの人は……!)

「ですから! そうなる前に対策を……!」


「そうだな。対策だ。原因が僕という存在そのものにある以上、僕が積極的に関与すべきだろう。ここは一つ、加害者自らが被害者のために立ち上がる、という美談を演出しようじゃないか」


「び、美談……?」


「ああ。そこで提案なんだが、この『対恋春・味覚テロ』のメカニズムを解明するために、僕が作ったものを恋春ちゃんに食べてもらう、というのはどうだろう? いわば、『加害物質直接投与による反応観測実験』だ。ちょっと人体実験っぽい響きだが、背に腹は代えられん」


(か、加害物質直接投与……!? 言い方は物騒ですが、彼の言う通り、原因物質に直接触れるのが一番……。それに、彼が作ったものを……わたしが……?)

「……論理的には、合理的です。しかし、危険も伴いますが……」

「危険は承知の上だ。だが、恋春ちゃんの味覚と未来を守るためなら、僕はこの身を実験台に捧げよう。もちろん、主な被験者は恋春ちゃんだがな」


(……なんだか丸め込まれているような気もしますが……この味覚異常は、放置できません……)


「……具体的には、どうするのですか?」

「ちょうど来週、調理実習があるだろう? 僕と恋春ちゃんがペアを組んでだな、僕が愛と真心を込めて(あるいは無自覚な毒を込めて)調理したものを、恋春ちゃんに『あーん』して……いや、普通に味見してもらうんだ。その時の味覚の変化、心拍数、発汗量、そして可能なら幸福度ゲージの変動まで記録する。完璧なデータが取れるはずだ」


(こ、幸福度ゲージ!? そ、そんなものありません! しかし、調理実習は確かに良い機会……。ペアを組むのは、その……少し抵抗がありますが、実験のためなら……)


「……分かりました。その『対抗策実証実験』、受け入れましょう。ただし!」

「ただし?」

「これはあくまで科学的な検証です! 味見の際は、一切の主観を排し、客観的なデータのみを報告します! そして、もし提供された料理が、味覚以前に生命の危機を感じさせる代物だった場合、あるいは実験中にわたしの身体に危険な兆候が見られた場合は、即座に実験を中止! あなたを調理器具……例えば、そう、お玉かフライ返しあたりで、無力化します!」

「お玉かフライ返しで無力化……それは斬新な最期だな。了解した。恋春ちゃんにそんな武器を取らせないよう、精一杯まともなものを作ることを誓おう。まあ、僕の料理スキルが、恋春ちゃんの味覚テロの原因を上回る可能性も否定はできないがな」


(ま、まともなもの……? 不安しかありませんが……)


「……期待はしていません。とにかく、実験の成功を祈ります」

「ああ、祈ろう。恋春ちゃんの味覚と、僕の命運のために。じゃ、そういうわけで、来週の調理実習、よろしく頼むよ、共犯者……いや、共同研究者どの」


彼は悪戯っぽく笑い、軽くウインクまでして見せました。


(共犯者!? この人は、わたしが彼を殺してしまうかもしれないと警告したばかりだというのに、なんという不謹慎な……!)


「だっ、誰が! 一緒にしないでください! わたしは被害者であり、あなたは加害者……いえ、現時点では原因物質です!」


思わず語気が強くなります。彼の軽口に、わたしの論理的な思考が乱されそうです。


「いやいや、恋春ちゃん」彼はやれやれと首を振りました。「もう俺たちは、ただの被害者と原因物質じゃない。この『味覚テロ』という未曽有の危機に共に立ち向かう、運命共同体なんだ。言わば、そうだな……もはや夫婦のようなもの、と言っても過言ではない!」


彼は、さも当然のように、とんでもないことを言い放ちました。


「ふっ……!?!?!?」


瞬間、わたしの頭の中で何かが沸騰し、ショートしました。夫婦!? ふ、ふ、ふ、ふ……!? わたしと、彼が!? なぜ!? どういう論理!? 思考が追いつきません! 理解できません! 脳裏に、彼と二人でエプロン姿でキッチンに立ち、彼が作った(まともな)料理を味見して、わたしが(なぜか)はにかみながら「美味しいです」と言ってしまい、彼が満足そうに微笑む、そんな光景が……! 断じてありえないはずの、甘すぎる日常の妄想が、勝手に、鮮やかに、爆発的に再生されました!


顔が、首が、耳が、経験したことのないほどの熱を持ちます。心臓が、肋骨を突き破るのではないかという勢いで暴れ出します。視界がぐにゃりと歪み、呼吸がうまくできません。これが……これが、限界……!?


「(恋春の尋常でない反応を見て、目を丸くする)お、おい、恋春ちゃん!? 大丈夫か!? 顔、真っ赤だぞ! まさか、僕の言葉が新たな味覚異常……じゃなくて、全身異常を引き起こしたのか!?」


彼の心配そうな声が、遠くに聞こえます。でも、もう何も考えられません。ただ、この胸の中で燃え盛る、訳の分からない感情の奔流を、どうにかして外に出さないと、わたしが、本当に、爆発してしまう……!


「こっ、こっ、殺しますよっっっ!!!」


それは、もはや言葉というより、魂の叫びに近かった。涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしはありったけの声で叫びました。その勢いで、持っていた箸が床にカラン、と虚しい音を立てて落ちました。


「あなたのその! 不敬千万な夫婦発言と! わたしの脳内に破廉恥な新婚生活妄想を強制生成させるその存在自体が!!! 万死、いえ、億死、いえ、兆死、いえ、京死、もはや無量大数死どころか、宇宙が熱的死を迎えるまでの全プランク時間に匹敵する死に値します!!! 今すぐその不埒な発言を撤回しなさい! さもなくば、この! お弁当箱の蓋で!! あなたのその軽薄な顔面を! 原形がなくなるまで叩き潰しますよっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!」


教室中の視線が一斉にわたしたちに突き刺さります。でも、そんなことはもうどうでもよかった。ただ、目の前の、平然ととんでもないことを口走るこの男を、どうにかしなければ……!


「(一瞬呆気に取られた後、苦笑いを浮かべながら)……はは、威勢がいいな。宇宙の熱的死まで持ち出すとは。でも、夫婦喧嘩はほどほどにしないとな?」


「だ、誰が夫婦ですかっ!!! 訂正してください!!! 今すぐ!!!」


わたしは机をバン!と叩き、完全にパニック状態で彼に詰め寄りました。


「あなたは! 余計なことは! しないで! わたしの味覚異常の責任を取るだけでいいんです!」


「責任? ふーん、責任、ねえ……。じゃあやっぱり、結婚するしかないな」

早瀬くんは、悪戯っぽく笑いながら、とどめを刺すように言いました。


「けっ……!」


結婚!? け、け、け、けっこ……!?

わたしの思考は完全に停止し、言葉を失い、ただただ口をパクパクさせることしかできませんでした。全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、隣の席の背もたれに手をついて、かろうじて支えます。


(あああああもう! なんなんですかこの人は! 夫婦!? 責任!? 結婚!? 殺します!? わたし、何を言っているの!? 頭がおかしくなりそう! でも、でも、彼のせいだ! 全部、全部、早瀬くんのせいなんですからー!!!)


わたしは真っ赤な顔のまま、ぜえぜえと肩で息をします。早瀬くんは、さすがにわたしの反応が予想以上だったのか、少し驚いた顔をしながらも、やはりどこか楽しそうな目で、そんなわたしを見ていました。


こうして、わたしの昼休みは、周囲の好奇の目に晒されながら、過去最大級のパニックと、早瀬くんによる「結婚」という名の最終爆弾投下と共に幕を閉じたのでした。来週の調理実習……いえ、その前に、わたしはこの感情の爆発と、彼の言葉の意味をどう処理すればいいのでしょうか。もはや、味覚どころか、人生そのものが崩壊しかねない気がしてきました。


自席に戻り、冷めきってしまった(そして味のしない)お弁当を前に、わたしは鞄から例のノートを取り出しました。『早瀬くんを殺したい99の理由』。混乱した思考を整理するための、唯一の手段。


深呼吸を一つ。今日の異常な味覚障害と、そこから発展した危険な約束、そしてあの「夫婦」と「結婚」という、二重の爆弾発言がもたらした精神的ダメージを記録しなければなりません。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#26とナンバリングしました。


理由#26:わたしの味覚異常の原因が彼にある可能性を指摘したところ、それを逆手に取り『対抗策実証実験』と称して調理実習での共同作業及び味見を強要。さらに『夫婦のようなもの』及び、責任の取り方として『結婚』という、論理的にも現実的にもありえない妄言を発し、わたしの精神を崩壊寸前まで追い込んだ罪。


……違う。これでは単なる被害記録と彼の暴言リストです。もっと本質的な、彼の存在がわたしの五感、そして理性そのものを侵食し、あろうことか彼との関係性に『結婚』などという最終目的(!?)を幻視させかねない、その致命的な危険性について記さなければ。わたしは書いた文章を、怒りに震える手でぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#26:彼の存在が、わたしの味覚という基本的な感覚機能に異常を引き起こすことが判明。さらに、その解決策として調理実習での共同作業(ペア結成)を承諾させられ、『夫婦のようなもの』『結婚するしかない』という段階的な言語爆撃によって、わたしの脳内に彼との共同生活、ひいては婚姻関係という、正気の沙汰とは思えない、しかし抗いがたい引力(!?)を持つ未来像を強制的に植え付けた。このままでは、五感全て、そして人生設計すら彼に支配され、最終的には彼の傍でしか味を感じられず、彼の言葉一つで結婚を承諾(!?)してしまうような、完全に理性を失った存在に成り果てる危険性が極めて高い。その人間としての尊厳と自由意志を失う未来を回避し、橘恋春としての自我を保つための、緊急かつ絶対的な殺害動機。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや人生の根幹に関わる重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、鞄の奥深くにしまいました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの狂い始めた五感と人生設計から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、床に落ちたままの箸を拾い上げました。まだ心臓のドキドキは収まらず、顔も熱いままです。


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……人の感覚から人生まで狂わせるなんて、悪魔のような人です。『結婚』だなんて……)


彼の、あの悪戯っぽい笑顔と、「結婚するしかないな」と言った時の、妙に確信犯的な響きが、頭の中で何度も何度も繰り返されます。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、突拍子もない提案も、わたしの感覚と人生設計を狂わせる存在そのものも、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、来週の調理実習で、彼が作る料理を……そして、彼が『責任』を取ってくれる(!?)かもしれない未来を、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……期待してしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を、味覚を、そして人生観まで滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼との調理実習という名の「実験」、そしてその先に待つかもしれない(ありえないはずの!)未来に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……危険な好奇心と、抗いがたい期待を抱いてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……来週までに、お玉とフライ返し、どちらを凶器として携帯するか、真剣に検討しなければなりません!

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