汗と殺意の因果関係に関する一考察

体育の授業、本日は長距離走。わたし、橘恋春は、事前に計算した完璧なペース配分に基づき、自己ベストを更新するという輝かしい成果を上げました。しかし、その達成感も束の間、わたしは致命的なミスを犯していたことに気づいたのです。


――タオルを、持ってくるのを忘れました……!


額や首筋を伝う汗の不快感。しかし、完璧主義者たるわたしが、備品を忘れるなどという失態を他者に知られるわけにはいきません。平静を装い、涼しい顔でグラウンドの隅へ移動し、呼吸を整えながら、この危機的状況をいかに乗り切るか、思考を巡らせていました。イオン飲料での水分補給計画も、このままでは不快指数が勝ってしまいそうです。


「お疲れ様、恋春大先生。見事な走りだったね。まるで精密機械のようだ。自己ベスト更新、おめでとう」


突如、背後からかけられた声。振り返るまでもなく、わたしの平穏を脅かす唯一の存在――早瀬蓮くんが、少し息を切らせながらも、爽やかな笑顔で立っていました。


(なっ……!? なぜこのタイミングで……! しかも、わたしの状況を正確に把握しているかのような発言……! まさか、わたしの失態に気づいているというのですか!?)


ドクン、と心臓が嫌な音を立てます。彼の前で、完璧でない姿を見せるわけにはいきません。


「……当然の結果です。わたしの計算に狂いはありませんでしたから。あなたも、もう少し計画性を持って走られては?」


努めて冷静に、そしてわずかに優位に立つような口調で返します。視線は遠くの空へ。彼の顔を見てはいけません。


「はは、手厳しいねえ。僕はつい、前の恋春ちゃんの美しいフォームに見惚れてしまって、ペースを乱しちゃったんだよ」


(う、美しいフォームですって!? からかっているのですか!? それとも……!?)


彼の不意打ちのような言葉に、わずかに頬が熱くなるのを感じます。いけません、動揺しては!


「……くだらないことを。それより、早く移動しないと、次の授業に遅れますよ」


わたしは話を切り上げようとしました。しかし、早瀬くんは、わたしのわずかな動揺を見逃しませんでした。


「まあまあ、そう急がずに。ところで恋春ちゃん、もしかして……タオル、忘れたのかい? 大変だなあ、そんなに汗をかいて。綺麗な肌が汗でベタつくのは、見ていて忍びないよ」


彼は心配そうな顔で(しかし、その瞳の奥には面白がる色が確実にあります!)、核心を突いてきました。そして、畳み掛けるように、自分のスポーツバッグから、まだ新しそうな清潔なタオルを取り出しました。


「仕方ないなあ。僕のでよければ、使うかい? まだおろしたてだから、そんなに汚れてないと思うぜ?」


彼は、その青いスポーツタオルを、わたしの目の前に差し出してきました。


(なっ……!? あなたのタオルを、わたしに!? しかも、おろしたて……? いえ、それでも! あなたが一度でも触れたものを、わたしの肌に触れさせるなど、断じて……! でも、この汗の不快感は……!)


脳内で、論理と生理的欲求が激しく衝突します。顔がカッと熱くなり、呼吸が少し乱れるのを感じました。


「け、結構です! あなたのような方のタオルなど、衛生観念上、到底受け入れられません!」

「えー、そう言わずに。ほら、遠慮しないで。恋春ちゃんが汗で困ってるの、見てられないんだよ」


彼はさらにタオルを近づけてきます。そのタオルから、微かに石鹸のような清潔な香りが漂ってくるような気がして、心臓がドクンと跳ねました。


「な、な、何を……! 不必要な気遣いは無用です! わたしは、この程度の状況、精神力で乗り越えられます!」

「おや、また顔が真っ赤だぞ。長距離走のせいだけじゃなさそうだね。もしかして、僕のタオルを使うのが、そんなに……嬉しいのかい?」


彼は悪戯っぽく笑いながら、核心を突くような言葉を投げかけてきました。


(う、嬉しいですって!? な、な、何を根拠に!? わたしはただ、彼の非論理的な親切(?)に困惑しているだけで……!)


「そ、そんなわけがありません! あなたの思い上がりも甚だしい!」

「ふーん? じゃあ、もしかして……僕の匂いがついちゃうのが嫌、とか?」


早瀬くんは、さらに踏み込んできます。その言葉は、わたしの心の奥底にある、決して認めたくない可能性を刺激しました。


(に、匂い……!? 彼の……!? わ、わたしが、そんな、破廉恥極まりないことを意識しているとでも!? そ、そんなはずは……絶対に……!)


脳裏に、なぜか早瀬くんの青いタオルに顔をうずめ、その清潔な(と想像される)香りに、うっとりと恍惚の表情を浮かべている自分の姿が、雷に打たれたかのようにフラッシュバックしました! なぜ!? なぜわたしはこんなにも変態的な妄想を!? これは彼の精神攻撃に違いありません!!!


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」


もはや声にならない、魂からのサイレント絶叫が、体内で反響します!


「こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!!!!!!! あなたのその不敬千万な発言と! わたしの清廉潔白な精神を汚染するような邪推と! その存在自体が破廉恥なタオルは!!! 万死、いえ、億死、いえ、京死(けいし)に値します!!! 今すぐそのタオルごと、わたしの視界から、いえ、この宇宙から消え去りなさい! さもなくば、この! このタオルで!!! あなたのその不埒な首を! この鍛え上げた(長距離走で!)脚力と腕力をもって! 力の限り絞め上げて、即座に窒息死させて差し上げますよっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは彼の手からタオルをひったくり、それを凶器として構えました! 周囲で着替えに向かおうとしていた生徒たちが、ぎょっとして足を止めるのが見えます。


早瀬くんは、一瞬だけ驚いた顔をしましたが、すぐにいつもの、あの人を食ったような、それでいてどこか嬉しそうな(!)笑みを浮かべました。


「おっと、ついに京死までインフレしたか。しかも僕のタオルで僕を絞殺とは、なんともエモーショナルでいいねえ。恋春ちゃんの手で、僕の匂いが(まだほとんどついてないけど)ついたこのタオルで絞め殺されるなんて……うん、最高の最期かもしれないなあ。今際の際につぶやく君への愛の言葉を考えておかなくちゃ」


(あ、愛の言葉ですって!? 最高の最期!? な、な、何を言っているのですか、この男は!? わたしの殺意を! まるで愛の告白のように受け止めて……!?)


彼の言葉は、わたしの怒りのボルテージをさらに跳ね上げると同時に、心の奥底の、何か別の感情を激しく揺さぶりました。


「でも、できれば更衣室で着替えて、さっぱりしてからにしてくれるかな? 汗だくのまま天国に行くのは、ちょっとね。ほら、体育の先生も、メガホン構えてこっち睨んでるし」


彼はグラウンドの端を指さします。見ると、確かに体育教師が、鬼のような形相でメガホンをこちらに向けていました。


「……っ!」


わたしは唇を強く噛み締めます。悔しい。腹立たしい。そして、なぜか猛烈に恥ずかしい! これ以上、この場で晒し者になるわけにはいきません!


「というわけで」


彼は悪戯が成功した子供のように、そしてどこか満足げに笑います。


「恋春ちゃんによる『愛の(?)タオル絞殺刑』は、一時保留ということで。さ、早く汗拭かないと、本当に風邪ひくぜ?」


彼は悪びれもなく、わたしが握りしめているタオルを指さしました。


「なっ……!!!」


もう、言葉も出ません。沸騰した頭と真っ赤な顔のまま、彼のタオルを(なぜか)握りしめ、わたしは彼を睨みつけることしかできませんでした。


(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 人の弱みにつけ込み、心をかき乱し、タオルを押し付け、変態的な妄想を植え付け、挙句の果てに絞殺を最高の最期だなどと喜び、わたしの殺意(!)を弄んでいる!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……タオル100枚分にしてお返しします!!!)


わたしはもはや限界でした。タオルを握りしめたまま、彼に背を向け、脱兎のごとく更衣室へと走り去りました。背後で、早瀬くんが


「あれ? 恋春ちゃん、タオル使ってくれるのか? ありがとー! 感想、後で聞かせてくれよなー!」


と呑気な声で言っているのが聞こえましたが、振り返る余裕など、汗一滴分もありませんでした。


今日の体育の成果は、彼のせいで完全に霞んでしまいました。これも全て、早瀬くんのせいなのです。彼のせいで、わたしの心臓は危険なほど高鳴り、思考は汗と彼の言葉でぐちゃぐちゃになり、完璧なわたしは見る影もなかったのですから。


誰もいない更衣室の隅で、わたしは荒い息をつきながら、握りしめていた彼のタオルを見つめました。まだ新しい、清潔な感触。そして、ほんの微かに、彼のものかもしれない……いや、気のせいかもしれません! 匂いが……。


鞄から例のノートを取り出します。『早瀬くんを殺したい99の理由』。わたしの混沌とした感情の受け皿。


深呼吸を一つ。今日の屈辱と混乱と、そして不覚にも感じてしまった、あのタオルの感触と、彼の「最高の最期」という言葉の衝撃を記録しなければなりません。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#84とナンバリングし、今日の出来事を客観的に、そして極めて論理的に記述しようとしました。


理由#84:体育授業後、タオルを忘れた弱みにつけ込み、自身のタオル使用を強要。さらに精神汚染発言及び絞殺肯定発言により、わたしの理性を著しく侵害した罪。


……違う。これでは、彼の罪状を並べただけです。もっと本質的な、わたしのアイデンティティすら揺るがしかねない、彼の存在がもたらす予測不能な化学変化について記さなければ。わたしは書いた文章を、怒りに震える指でぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#84:彼が、わたしの失態(タオル忘れ)を利用し、自身のタオルを押し付け、さらにその匂いを意識させるような発言と、あろうことか絞殺を『最高の最期』と肯定するような異常な反応を示した。このままでは、彼に対する殺意が、倒錯した愛情(!?)へと転化し、最終的には彼の望み通り(!?)タオルで彼の首を絞めながら恍惚の表情を浮かべてしまうような、破滅的かつ理解不能な未来を迎えてしまうかもしれない。その致命的な未来を回避し、わたしの正常な倫理観と精神構造を守るための、緊急かつ絶対的な殺害動機。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや自己同一性に関わる重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、鞄にしまいました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの正常な精神活動領域から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、手の中の青いタオルを、もう一度見つめました。柔らかい感触。そして、やっぱり、ほんのりと清潔な……彼の匂い?


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……理解不能な人です。「最高の最期」だなんて……)


彼の、あの妙に嬉しそうな顔が、脳裏に焼き付いて離れません。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、わたしの弱みにつけ込む狡猾さも、殺意すら受け入れる異常さも、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、このタオルを、こんなにも強く握りしめて、そしてほんの少しだけ……その匂いを、確かめたいと思ってしまっているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼が(半ば強引に)貸してくれたタオルを、彼の言葉を反芻しながら、まるで大切な宝物のように、しかし断じてそうではないと自分に言い聞かせながら、そっと自分の汗を拭いてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……あ、意外と肌触りがいい。なんて、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に! 認めてあげませんから!

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