購買部における限定パン争奪戦と殺害の蓋然性について
昼休み。それは、限られた時間の中で効率的に栄養を摂取し、午後の活動に備えるべき重要なインターバル。わたし、橘恋春は、そのミッションを遂行すべく、完璧な計画と共に、人でごった返す購買部へと足を踏み入れていました。
本日のターゲットは、一日限定20個、幻とまで噂される『黄金のメロンパン』。その入手確率は極めて低いとされていますが、わたしは緻密な計算に基づき、最短移動ルート、最小接触人数、そして最適なタイミングを導き出していました。完璧なる「黄金のメロンパン奪取計画」。成功は目前のはず……!
人波をかき分け、ついにパンコーナーへ到達。ありました! ラスト一個、燦然と輝く黄金のメロンパン! わたしは計画通り、優雅に、しかし素早く手を伸ばしました。勝利を確信した、まさにその瞬間――
ひょいっ。
わたしの指先が触れる寸前、その黄金のメロンパンは、横から伸びてきた誰かの手に、いとも容易く奪い去られてしまったのです。
「おっと、これは失礼。早い者勝ちってことで、許してくれたまえ」
聞き慣れた、そして今最も聞きたくなかった声。顔を上げると、そこには、案の定、早瀬蓮くんが、最後のメロンパンを片手に、実に悪びれない笑顔で立っていました。
(なっ……!? あなたでしたか! 早瀬くん! わたしの完璧な計画を! この最終局面で! なんというタイミングの悪さ! いえ、これは偶然ではありません! きっとわたしの計画をどこかで察知し、妨害するために……!)
瞬間、脳内でアドレナリンが沸騰し、思考回路がショート寸前です。ドクン、ドクンと心臓が激しく脈打ち、計画失敗の衝撃と、彼に対する怒りで目の前が赤く染まるような感覚に襲われます。
「な、なんですのその言い草は! わたしはこのメロンパンを入手するために、秒単位で計算された行動計画に基づき、ここまで到達したのです! あなたのような、行き当たりばったりで行動する俗物とは違うのです! そのメロンパンは、論理的に考えて、わたしが手にするべきものでした!」
わたしは努めて冷静に、しかし抑えきれない怒りを込めて抗議します。声が震えているのは、決して動揺しているからではありません。論理的な正当性を主張するための、力強い発声の結果です。
「おや、そんな壮大な計画があったのかい? 僕にはただ、美味しいパンの匂いに釣られてやってきた、腹ペコの乙女がメロンパンに突進してきたようにしか見えなかったけどなあ。まあ、確かに君の気迫はすごかったけどね」
彼は飄々とした態度で、わたしの剣幕を柳に風と受け流します。
(は、腹ペコの乙女ですって!? しかも突進!? なんという不敬な物言い! わたしは常にエレガントで論理的です!)
顔がカッと熱くなるのを感じます。この男は、いつもいつもわたしの平静を乱す!
「わたしは! 論理的な判断と計算に基づき行動しています! あなたのような、本能に突き動かされる原始的な存在とは次元が違うのです!」
「はいはい、そうでございますか。高尚な橘恋春様には、僕のような俗物の考えは及びもつきませんで」
早瀬くんは全く反省の色を見せず、むしろ面白がるように肩をすくめると、ふと、手に持ったメロンパンに視線を落とし、そして意外な行動に出ました。彼はこともなげに、その黄金のメロンパンを綺麗に半分に割ったのです。
「まあまあ、そんなに怒らないでくれよ、恋春ちゃん。せっかくの昼休みなのに、眉間に皺寄せてたら勿体ないぜ? ほら、これでどうだ?」
彼はそう言って、割ったメロンパンの片方を、わたしの目の前に差し出してきました。
「……は?」
予想外の展開に、わたしの思考は完全に停止しました。
「半分こ、しようぜ? これなら、君も僕もメロンパンを食べられる。いわば、共同購入ってことにすれば、君の壮大な計画もある意味、形を変えて達成されたことになるんじゃないか? ウィン・ウィンってやつだよ」
彼は実に爽やかな笑顔で言います。
(は、半分こ……!? あなたと……!? わたしが……!? こ、共同購入ですって!? そ、そのような、非衛生的極まりない! しかも、一つのものを分け合うなどという、異常に親密すぎる行為を、このわたしに提案するというのですか!?)
ドッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!
脳内で危険なほどの近距離感が警報を鳴らし、心臓が破裂しそうなほど高鳴ります! 顔が火を噴くように熱い!
「な、な、な、何を馬鹿なことを! け、結構です! あなたのような方と食べ物を分け合うなど、わたしの美意識と衛生観念が許しません!」
「えー、そうなのか? 残念だなあ。結構美味しいって評判なのに。じゃあ仕方ない、僕一人で全部いただくとするか。もぐもぐ……」
彼はわざとらしくメロンパンにかぶりつくふりをします。
(ま、待ちなさい! わ、わたしだって……食べたかった……いえ、違う! これは論理的な判断の問題です! ここで彼に全てを譲っては、わたしの計画の完全敗北を意味する! それだけは避けなければ! そ、それに、食品を無駄にするのは、地球環境に対する冒涜でもあります! やむを得ません、ここは、わたしが譲歩するしか……!)
ぐるぐると言い訳が頭の中を駆け巡ります。
「……っ! ま、待ちなさい!」
「ん? なんだい?」
「わ、わたしは……その、食品ロス削減という、地球市民としての責務を果たすため! やむを得ず! あなたのその非論理的な提案を受け入れます! あくまで、環境保護のためですから! 勘違いしないでください!」
早口で捲し立てながら、わたしは恐る恐る、しかし毅然とした態度で(と自分では思っています)、彼が差し出すメロンパンのかけらに手を伸ばしました。
「はいはい、地球市民の責務、ね。承知いたしました。恋春ちゃんは本当に偉いなあ」
早瀬くんはニヤリと口の端を上げながら、メロンパンをわたしの手に渡そうとしました。そして、その瞬間――
サワッ……
彼の指先と、わたしの指先が、ほんの僅かに、しかしはっきりと触れたのです。
(ひゃっ……!?)
まるで電流が走ったかのように、全身がビクッと硬直しました。触れた箇所から、彼の体温がじわりと伝わってくるような気がして、心臓が早鐘のように打ち鳴らされます。
「おっと、失礼。手が触れちまったな。感電しなかったかい? 大丈夫か、恋春ちゃん?」
彼は悪びれもなく、むしろ心配するような口調で(しかし目は笑っています!)言いました。
感電!? 大丈夫か、ですって!? 大丈夫なわけがありません! あなたのその不用意な接触と! その人を馬鹿にしたような口調と! その全てがわたしの許容量を完全にオーバーしているのです!!! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっ!!!!!!」
ついに、堪忍袋の緒が、音を立てて切れました!
「こ、こ、こ、殺しますよっっっっっ!!!!!!!! あなたのその計画妨害行為と! 不必要な物品共有の強要と! 不埒な身体的接触は!!! 万死に値します!!! 今すぐそのふざけた笑顔を消し去りなさい! さもなくば、この! このメロンパンで!!! あなたのその脳天気な頭部を粉々になるまで殴打して、パンくずと共に塵芥へと還して差し上げますよっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」
涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは手にしたメロンパン(黄金のメロンパン!)を振り上げ、彼を睨みつけました。周囲の生徒たちの「うわぁ……」「また始まった……」という囁き声が聞こえてきますが、もはや気にする余裕はありません!
早瀬くんは、一瞬目を丸くしましたが、すぐにいつもの、あの楽しそうな、人を食った笑みを浮かべました。
「おおー、ついに来た! 本日のメインディッシュ、メロンパン撲殺予告! しかも黄金のメロンパンとは、なんとも贅沢な凶器だねえ。甘い香りに包まれて逝けるなら、それもまた一興かもしれないな。でもさ、どうせ殴られるなら、君が一口齧った後の方がいいなあ」
「なっ……!? なんですの、その不謹慎極まりない要求は!?」
「だって、そうすれば、君と間接キス、できるだろ?」
彼は、とどめを刺すように、悪戯っぽく、しかし真っ直ぐにわたしの目を見て言いました。
間接……キス!?!?!?!?!?!?!?
その瞬間、わたしの脳内で、早瀬くんに顎クイされたわたしが、幸せそうに目を閉じて、彼と唇を触れ合わせてしまう(!?)という、可能性も倫理観も無視した超展開が、閃光と共に炸裂しました! なぜ嬉しそうにキスしてるの!? わたしの脳はどうなってしまったのですか!!!
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」
もはや言葉にならない、宇宙的規模の絶叫が内側で轟きます!
「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその不敬千万極まりない思考回路と! 神聖なメロンパンを冒涜し、間接キスなどという破廉恥な概念を持ち出す言語道断な発言は!!! 万死、いえ、兆死に値します!!! 今すぐその不埒な願望ごと、メロンパンの糖分と共に消滅なさい! さもなくば、このメロンパンのクッキー生地の角で! あなたのその邪な思考回路が宿る脳天を! 粉砕しますよっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」
涙目になりながら、わたしはメロンパンを(今度こそ本気で凶器として認識し)構え直しました。周囲の野次馬が一斉に後ずさる気配を感じます。
早瀬くんは、さすがに一瞬だけ「おっと」という顔をしましたが、すぐに余裕の笑みに戻ります。
「おー、ついに兆死までインフレしたか。クッキー生地の角は確かに鋭利そうだねえ。でも、キスは諦めきれないなあ……じゃあ、テストが終わったら、改めてお願いするよ。 ほら、あそこのレジのおばちゃんも、『あらあらまあまあ』って顔でこっち見てるし」
彼はレジの方を顎で示します。見ると、確かにレジのおばさんが、なんとも言えない温かい(そして完全に面白がっている)笑みを浮かべてこちらを見ていました。
「……っ!」
わたしは唇を強く噛み締めます。悔しい。腹立たしい。けれど、これ以上、購買部の衆人環視の中で、メロンパンを凶器として振り回すみっともない姿を晒すわけにはいきません。
「というわけで」彼は悪戯が成功した子供のように笑います。「恋春ちゃんによる『黄金メロンパンキス付き処刑プラン』は、一旦お預けということで。さ、冷めないうちに食べようぜ? 地球市民の責務、果たさないと」
彼は自分の分のメロンパンにかぶりつきながら、悪びれもなくウインクしてきます。
「なっ……!!!」
もう、言葉も出ません。沸騰した頭と真っ赤な顔のまま、黄金のメロンパン(の半分!)を握りしめ、わたしは彼を睨みつけることしかできませんでした。
(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 人の計画を台無しにし、心をかき乱し、食べ物を分け合い、不用意に触れてきて、間接キスどころかキスを要求し、挙句の果てにわたしの殺意(!)すら楽しんでいる!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……メロンパン100個と、精神的苦痛に対する慰謝料を請求します!!!)
わたしはもはや限界でした。メロンパンをひったくるように受け取ると(半分ですが!)、彼に背を向け、足早に購買部を後にしました。背後で、早瀬くんが
「あれ? 恋春ちゃん、お茶はいいのかー? メロンパンだけだと喉渇くだろー? 僕の飲みかけのならあるけど?」
と、さらに追い打ちをかけるような呑気な声で言っているのが聞こえましたが、振り返る余裕など、パンくず一粒分もありませんでした。
今日の昼食計画は、完全に、そして無残に破綻しました。これも全て、早瀬くんのせいなのです。彼のせいで、わたしの心臓は危険なほど高鳴り、思考はメロンパンのようにふわふわと頼りなくなり、完璧なわたしは見る影もなかったのですから。
人気のない中庭のベンチで、わたしは荒い息をつきながら腰掛けました。そして、鞄から例のノートを取り出します。『早瀬くんを殺さなければならない理由』が記されている、わたしの心の叫びを受け止めてくれる唯一の存在。
深呼吸を一つ。今日の屈辱と混乱と、そして不覚にも感じてしまった、あの指先の微かな感触と、彼の口にした「キス」という、あまりにも直接的で破壊的な言葉の衝撃を記録しなければなりません。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#77とナンバリングし、今日の出来事を客観的に、そして極めて論理的に記述しようとしました。
理由#77:購買部における計画妨害及び不必要な物品(黄金のメロンパン)の共有強要、さらに意図的な身体的接触及び「キス」という、もはや破廉恥を通り越して犯罪的な発言による精神的動揺誘発の罪。
……違う。これでは、単なる彼の犯罪記録に過ぎません。もっと本質的な、わたしの純粋培養された精神世界を根底から揺るがす、彼の存在そのものの危険性について記さなければ。わたしは書いた文章を、怒りに震える手でぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。
理由#77:彼が、わたしの入手するはずだったメロンパンを横取りした上に半分こを強要し、指先接触及び『キス』発言によって、わたしの脳内に可能性も倫理観も無視した破廉恥極まりない妄想を強制的に生成させた。このままでは、彼とのあらゆる接触や会話が『キス』という最終目的に帰結するのではないかという、極めて深刻なパラノイアに陥り、最終的には彼と目が合っただけで失神するような、社会生活不適合レベルの精神状態に陥る危険性が極めて高い。その致命的な未来を回避し、わたしの精神の恒常性を維持するための、緊急かつ絶対的な殺害動機。
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや精神崩壊レベルの重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、鞄にしまいました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの平穏な精神世界から)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。
わたしは、手の中の黄金のメロンパン(の半分)を見つめます。まだほんのり温かい。胸のドキドキは、まだ少しも、まったく収まっていないのです。
(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……犯罪的な人です。キス……だなんて……)
彼の悪戯っぽい笑顔と、「諦めきれないなあ」と言った時の、あの妙に真剣な響きを帯びた声が、なぜか脳裏に焼き付いて離れません。
(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、計画を邪魔する行動も、犯罪的な発言も、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしのお腹は、ぐぅ、と鳴り、そしてこのメロンパンを、こんなにも……どきどきしながら、意識して、しまうのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)
結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼がくれたメロンパンの半分を、彼の「キス」という言葉の残響に耳を塞ぎながら、まるで禁断の果実を口にする罪人のように、しかしほんの少しだけ……期待するような気持ちで、口に運んでしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。……あ、やっぱり、すごく美味しい。なんて、絶対に、絶対に、絶対に! 認めてあげませんから!
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