テスト期間中の教室においても彼を殺害しなければならない必然性

テスト期間中の放課後。普段の喧騒が嘘のように静まり返った教室は、学生たちの真剣な自習の熱気に満ちています。わたし、橘恋春は、窓際の席で、次なる攻略対象――すなわち、難解とされる古典文学の読解問題と対峙していました。完璧な計画に基づき、わたしの知性は今、満点を獲得すべく精密な分析を進めている最中です。集中、集中……。


ペンを走らせ、重要と思われる箇所に赤線を引こうとした、まさにその時。すぐ隣の空席に、どさりと誰かの鞄が置かれ、椅子が引かれる音がしました。まさか。この、学業成就を願う者たちの聖域ともいえる空間で、しかもわたしの隣に座ろうなどという、集中力を削ぐ不届き者が存在するはずが――。


顔を上げると、そこには、やはりというべきか、いてほしくない人物No.1、早瀬蓮くんが、実に爽やかな笑顔で座っていました。彼は当たり前のように自分の参考書を開きながら、軽い口調で話しかけてきます。


「やあ、恋春大先生。今日も眉間に皺を寄せて、古の言葉と格闘してらっしゃる。その集中力、少し分けてほしいものだよ」


(なっ……!? なぜこの人がここに!? よりによってわたしの隣に!? この神聖な勉学の場を汚すおつもりですか!? しかもその軽々しい口調! わたしの集中力が霧散してしまいます!)


瞬間、脳内で構築していた完璧な解答への道筋が、音を立てて崩れ去りました。彼の存在そのものが、この空間における最大のノイズなのです。ドクン、ドクンと、心臓が警戒信号を発するように不規則に波打ちます。


「……ここは静かに自習をする場所です。私語は慎んでください。それに、わたしは『大先生』などと呼ばれるような存在ではありません」


努めて冷静に、小声で、しかし明確な拒絶を含ませて注意します。視線は頑なに参考書へ。彼の方を見てはいけません。彼の顔を見ると、わたしの思考は完全に停止してしまうのですから。


「おっと、これは失礼いたしました。つい、恋春大先生のあまりに知的なオーラに当てられて、声が出てしまった次第で。それにしても、この問題、さっぱり分からなくてねえ。もしよろしければ、この哀れな子羊に、大先生の明晰なる頭脳の一端を拝借願えないだろうか?」


彼は困ったような顔で、自分の参考書の特定の箇所を指さします。その指が、やけに綺麗に見えてしまうのは、きっと気のせいです。断じて!


(ぐっ……! 質問ですって!? わたしに!? この男が!? ……これは、わたしの知性を試そうという挑戦状!? それとも、単にわたしを煩わせるための口実!? いずれにせよ、受けて立たないわけにはいきません!)


完璧主義者のプライドが、彼の申し出を拒否することを許しませんでした。それに、ここで彼に教えることで、わたしの優位性を再確認させ、彼を黙らせることができるかもしれません。あくまで論理的な判断です。


「……仕方ありませんね。どれですか? わたしの知の泉から、ほんの数滴だけ、恵んで差し上げましょう」


わたしは少しだけ身を乗り出し、彼が指さす問題に目をやりました。……ふむ、確かに少し捻くれた問題ですが、基本を押さえていれば解けるはず。


「なるほど、この部分ですね。これはまず、作者の意図を……」


わたしは、日頃の学習の成果を遺憾なく発揮すべく、明瞭かつ論理的に説明を始めました。声は意識して低く、落ち着いたトーンで。完璧な教師のように。


「ふむふむ、なるほどねえ……。恋春ちゃんの声って、こうして聞くとすごく落ち着くし、説明も分かりやすいな。まるで本物の先生みたいだ。ありがとう、助かったよ」


説明を終えると、早瀬くんは感心したように頷きながら、不意にそんなことを言いました。


(せ、先生みたい……!? わ、わたしの説明が、分かりやすい……ですって……!?)


カァァッ! と、顔に一気に熱が集まるのを感じます。予期せぬ、そしてあまりにも直接的な褒め言葉に、心臓が大きく跳ね上がりました。まずい、これはまずい状況です! 彼のペースに乗せられてはいけません!


「と、当然です! わたしにかかれば、この程度の問題、解説するなど容易いことです! あなたも少しは見習って、自力で解けるよう努力なさ……」

「でもさ」


早瀬くんは、わたしの言葉を遮るように、ふと真剣な眼差しで参考書を見つめ、続けました。


「ここの解釈なんだけど、前の文脈との繋がりを考えると、恋春先生の言った解釈だけじゃなくて、こういう捉え方もできなくないかな? 作者は、あえてここで多義的な表現を使うことで……」


彼は、先ほどわたしが解説した箇所について、実に的確かつ鋭い、別の視点からの解釈を提示してきたのです。それは、わたしが完全に見落としていた、しかし言われてみれば確かに有り得る、深い読み込みでした。


(なっ……!? なんですの、この指摘は……!? わ、わたしの完璧な解説に、異を唱えるというのですか!? しかも、その指摘が……ぐうの音も出ないほど、的確だなんて……!?)


頭が真っ白になりました。自分の知性に対する絶対的な自信が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じます。彼の、普段の飄々とした態度からは想像もつかない、知的な一面。そのギャップが、再びわたしの心を激しく揺さぶります。


「あ、いや……そ、それは……その可能性も、確かに……考慮に入れるべき、かもしれません、が……しかし、基本的な解釈としては……!」


しどろもどろになりながら、必死に反論しようと試みますが、言葉がうまく出てきません。顔はきっと、林檎のように真っ赤になっていることでしょう。


「おっと、ごめんごめん。つい熱くなっちゃった。恋春先生の解説が分かりやすかったから、僕も色々考えちゃってさ」


彼は慌てたように手を振り、フォローするように言いました。しかし、その瞳の奥には、明らかに面白がっている色が浮かんでいます。


「それにしても、そんなに真っ赤になって、一生懸命反論しようとする恋春ちゃんってさ……うん、やっぱり、すごく可愛いと思うよ。ずっと見ていたい」


ドッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!


最後の「可愛い」「ずっと見ていたい」という一言が、完全にわたしの理性のダムを決壊させました。全身の血液が沸騰し、頭のてっぺんから湯気が出そうなほどの感覚。視界がチカチカと点滅し、呼吸が浅くなります。思考回路は完全にショートし、もはや論理的な思考など、どこか彼方へ吹き飛んでしまいました。


可愛い!? 見ていたい!? しかも、あんな優しい声で、目を細めて……!? あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!


「〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっ!!!!!!」


声にならない悲鳴が、静かな教室に響き渡る寸前、わたしは最後の力を振り絞りました。


「こ、こ、こ、殺しますよっっっ!!!! あなたのその不躾極まりない発言と! わたしの知性を弄ぶような態度と! その人を惑わすような笑顔は!! 万死に値します!!! 今すぐその口を閉じなさい! さもなくば、この赤ペンで、あなたの額に『俗物』と刻みつけますよっっっ!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは赤ペンを握りしめ、彼を睨みつけました。それはもはや警告ではなく、完全に制御を失った感情の爆発、限界を超えたSOSのシグナルでした。周囲の生徒たちが、何事かとこちらに視線を向けているのが分かります。


早瀬くんは、一瞬驚いたような顔をしましたが、すぐにいつもの、あの人を食ったような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべ、予想外の行動に出ました。彼はすっと身を乗り出すと、わたしの顎に軽く指を添え、上向かせたのです。


「おっと、ついに来たか、本日の殺害予告タイム。赤ペンで額に刻むとは、なかなか独創的だねえ。マーキング、か。いいねえ。僕に恋春ちゃんの印をつけてくれるってこと?」


!?!?!?!?


(ひゃっ……!? ち、近い……! あ、顎に……指が……!? い、印ですって……!?)


心臓が喉から飛び出しそうです!


「でもさ、恋春ちゃん」


早瀬くんは、わたしの目をじっと見つめ、悪戯っぽく、しかしどこか真剣な響きを込めて囁きました。


「僕が君の所有物になるってことは、当然、君も僕の所有物になるってことだよ? それでも、いいのかな?」


!?!?!?!?!?!?!?!?


(しょ、しょ、所有物……!? わ、わたしが、彼の……!? 彼も、わたしの……!? そ、相互所有……!? そ、そんな……破廉恥な……!)


脳裏に、早瀬くんのその言葉を、なぜか恍惚とした表情で受け入れ、彼の胸に顔をうずめている自分の姿が、突如として鮮明に映し出されました! まるでそれが当然であるかのように! なんてこと! なんて破廉恥なわたし!!!


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」


もはや声にならない、魂からの絶叫が喉の奥で渦巻きます!


「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!!!!!!! あなたのその不敬千万な発言と! わたしを所有物扱いし、さらに相互所有などという不埒な概念を持ち出す思考回路と! それを肯定しかねないわたしの脳内イメージは!!! 万死、いえ、億死に値します!!! 今すぐその考えと、わたしの脳内イメージを原子レベルで分解しなさい! さもなくば、赤ペンどころか、このコンパスの針で、あなたの存在そのものをこの三次元世界から抹消しますよっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」


涙目になりながら、わたしは鞄から取り出したコンパスを(もちろん安全キャップはつけたままですが!)わなわなと震わせながら、彼に突きつけました。周囲の生徒たちの息を呑む音が聞こえます。


早瀬くんは、さすがに一瞬目を見開きましたが、すぐにいつもの余裕を取り戻し、さらに楽しそうな表情で顎から手を離しました。


「おっと、ついに億死まで到達した上に、最終兵器コンパスまで登場か。さすがは恋春大先生、スケールが違うねえ。コンパスの針は……うん、ちょっと痛そうだから、存在抹消はできればテストが終わってからにしてくれると嬉しいかな。 さすがに、存在を抹消された状態でテストを受けるのは、採点基準的に厳しいと思うんだ。ほら、あそこの先生も、鬼の形相でこっち見てるし」


彼は教壇の方を顎で示します。見ると、確かに先生が、般若のような形相でこちらを睨みつけていました。


「……っ!」


わたしは唇を強く噛み締めます。悔しい。腹立たしい。けれど、これ以上、この場で理性を失った姿を晒すわけにはいきません。完璧な橘恋春の名が廃ります。


「というわけで」彼は悪戯が成功した子供のように、そしてどこか満足げに笑います。「恋春先生による『存在抹消計画』は、一時凍結ということで。……残念だけど、続きはまた後で、ね?」


彼は悪びれもなく、悪魔のような(しかしわたしには天使のようにも見えてしまう瞬間があるのが腹立たしい!)笑顔でウインクまでしてきます。


「なっ……!!!」


もう、言葉も出ません。沸騰しきった頭と真っ赤な顔のまま、コンパスを握りしめたまま硬直し、わたしは彼を睨みつけることしかできませんでした。


(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのです!!! 人の集中力を奪い、心をかき乱し、知性を試し、褒めたかと思えば核心を突き、可愛いと言い、挙句の果てに所有物だの相互所有だのと言い出し、わたしの殺意(?)すら楽しんでいる!!! 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……倍にしてお返しします!!!)


わたしはもはや限界でした。参考書とノートとコンパスを乱暴に鞄に叩き込むと、椅子を蹴るようにして立ち上がり、脱兎のごとく教室を後にしました。背後で、早瀬くんが


「あれ? 恋春先生、もう帰り? 古典の続きは、また明日教えてくれるのかー?」


と呑気な声で言っているのが聞こえましたが、振り返る余裕など、原子一つ分もありませんでした。


今日の学習計画は、完全に、そして宇宙の塵のように無残に破綻しました。これも全て、早瀬くんのせいなのです。彼のせいで、わたしの心臓は超新星爆発を起こしそうなほど高鳴り、思考はブラックホールに吸い込まれ、完璧なわたしは見る影もなかったのですから。


人気のない廊下の隅で、わたしは荒い息をつきながら壁に手をつきました。そして、鞄から例のノートを取り出します。『早瀬くんを殺さなければならない理由』が記されている、わたしの聖域にして、唯一の理解者。


深呼吸を一つ。今日の屈辱と、制御不能なまでの混乱と、そしてほんの少し感じてしまった、あの背徳的な高揚感を記録しなければなりません。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#41とナンバリングし、今日の出来事を客観的に、そして極めて論理的に記述しようとしました。


理由#41:テスト勉強中に不必要な接近及び質問を行い、わたしの集中力を著しく妨害。さらに、わたしの解説に対して的確な反論を行うことで知的優位性を脅かし、最終的に『可愛い』という不適切な発言及び『相互所有』という破廉恥な概念の提示により、わたしの精神を崩壊寸前まで追い込んだ罪。


……違う。これでは、まだ状況説明の域を出ません。もっと本質的な、わたしのアイデンティティすら揺るがしかねない、彼の恐るべき精神的侵食と、それに対するわたしの脆弱性について、厳粛に記録しなければ。わたしは書いた文章を、もはや憎しみを込めてぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#41:わたしの知的権威を揺さぶり、精神的動揺を引き起こしただけでなく、あろうことか『相互所有』という概念を提示し、それを肯定しかねない破廉恥な妄想をわたしの脳内に植え付けた。このままでは、彼に完全に精神的イニシアチブを握られ、最終的には彼とわたしが互いを所有し合うという、可能性的にありえず、倫理的にも許容し難い未来を迎えてしまうかもしれない。その屈辱的かつ危険な未来を回避し、わたしの個としての尊厳を守るための、緊急かつ絶対的な殺害動機。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや存在論的な危機を、極めて冷静かつ客観的に記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、鞄の奥深くにしまいました。これでまた一つ、彼をこの世界から排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは再び歩き出します。胸の奥の嵐はまだ銀河系レベルで荒れ狂っていますが、やるべきことをやったという、奇妙な達成感と疲労感がありました。


(まったく、本当に厄介で、危険で、理解不能な人です。でも……わたしの説明、分かりやすかった、か……それに、あの指摘……確かに、鋭かった……そして、『君も僕の所有物』……)


彼の言葉と、あの悪戯っぽい笑顔と、そして不覚にも脳裏に焼き付いてしまった、あの破廉恥極まりない妄想が、ぐるぐると頭の中を駆け巡ります。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、時折見せる鋭さも、わたしを所有物扱いする不埒さも、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で、宇宙の法則に基づいた理由が増えてしまいました! ……それなのに、どうしてでしょう! どうしてわたしの心臓は、ブラックホールに落ちる星のように、こんなにも激しく、そしてどこか甘く、ドキドキと鳴り続けているのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を滅茶苦茶にされ、そして……どうしようもなく、彼の知的な一面に感心し、褒められたことに喜び、そしてあの『相互所有』という言葉に、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ……危険な、そして抗いがたい魅力を感じてしまった自分に、気づかないフリをするしかありませんでした。

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