殺害を宣言していたはずなのに、気づいたらプロポーズしていた私

放課後の家庭科室。甘い匂いの残滓が消えかけたその空間は、今日の調理実習の喧騒が嘘のように静まり返っていました。わたし、橘恋春と、早瀬蓮くん。二人だけが、後片付け当番としてそこに残されていたのです。


本来であれば、完璧な手順と効率に基づき、速やかにこの任務を完了させるはずでした。わたしが立てた「食器洗浄及び調理器具収納に関する最適化プラン」によれば、所要時間は15分。誤差は±30秒以内。それが、完璧なわたしの計画だったのです。


しかし、その計画は開始早々に頓挫しました。隣で洗い物を始めた早瀬くんの、その手際が、予想を遥かに超えて良かったのですから。


泡立てたスポンジが、汚れた皿の上を滑るように踊ります。無駄のない動きで汚れを落とし、流水で素早くすすぐ。腕まくりしたシャツから覗く、意外としっかりした腕。真剣な横顔に落ちる夕暮れの光。その一連の動作と光景は、まるで……まるで、何かの映画のワンシーンのように洗練されており、普段の彼の飄々とした態度からは想像もつかないものでした。


(なっ……!? なんですの、この、無駄にプロフェッショナルで、その……不覚にも、格好良く見えてしまう動きは……!? わたしのプランでは、彼はもっと非効率的に、あたふたと作業するはずでしたのに……!?)


ドクンッ! と、心臓が大きく、そして明らかに不自然な音を立てて跳ねました。まずい。これは計画にない、そして非常に危険な種類のイレギュラーな事態です。彼の予想外の側面に、明らかに、明確に、動揺してしまっている! まるで、通俗的な少女漫画のヒロインのように、不覚にも「キュン」などという、非論理的極まりない反応を示してしまった自分に気づき、思考回路に最大級の警報が鳴り響きます。


(いけません! 断じていけませんわ! これは早瀬くんによる高度な心理的攻撃! この「ギャップ」と称される現象を利用し、わたしの客観的かつ冷静な判断力を鈍らせ、最終的にはわたしを彼の支配下に置こうという魂胆に違いありません! 危険すぎます……! 即刻対処しなければなりません!)


わたしは持っていた布巾を、まるで宿敵を打ち据えるかのようにぎゅっと握りしめ、彼に向き直りました。


「早瀬くん!」

「ん? なんだい、恋春大先生。僕の華麗なる洗いっぷりに、ついに見惚れたかな?」


彼は悪びれもなく、泡のついた手で軽くウインクまでしてきます。


(ぐっ……! やはり確信犯! このような状況下で不必要な魅力を振りまくとは……! わたしの動揺を見抜いている……!?)


「ふ、不敬です! そうではありません! あなたのその、異常に洗練された皿洗いは、わたしの精神の平穏、特に心拍数の安定性を著しく乱します! このままでは、わたしは集中力を著しく欠き、この貴重な学校備品の皿を落下させ、粉砕してしまうという、極めて非合理的な事態を引き起こす可能性があります!」

「おっと、それは大変だね。皿も可哀想だし、僕としても、恋春ちゃんに怪我をさせるわけにはいかないからなあ」


(わ、わたしの心配……!? だ、ダメです! これは彼の常套手段! 優しさを見せて油断させる作戦です! 決して絆されてはなりません……!)


「その場合! 原因はあなたのその過剰な手際の良さ、及びそれに伴う不必要な視覚的魅力の発散にあるのですから、あなたは器物破損及びわたしの精神的動揺誘発の共犯者、いえ、明白な主犯となります! よって、わたしにそのような危険行為を強いる前に、即刻、そのスポンジ捌きを停止することを要求します! さもなくば……さもなくば、その泡まみれのスポンジで、あなたの口を物理的に塞ぎますよ!」


我ながら、警告が情熱的になりすぎている自覚はあります。しかし、パニックに陥ったわたしの脳が導き出した、これが現時点での最適解なのです。


「物騒だねえ、恋春ちゃんは。スポンジで口封じとは、新しい手の殺害予告、感謝するよ。だが、主犯の座は遠慮したいところだ。うーん、どうしたものかな」


早瀬くんは顎に泡のついた指を当て、わざとらしく考える素振りを見せます。そして、ポン、と手を打ちました。


「そうだ! 名案を思いついたぞ、恋春ちゃん!」

「な、なんですの……?」


どうせ、またろくでもない、わたしの心をかき乱すような提案に決まっています。警戒しなければ。油断は禁物です。


「僕が皿洗いスキルを封印する代わりに、このスキルを恋春ちゃんに伝授する、というのはどうだろうか? いわば、マンツーマンでの技術指導だ。これなら、君の集中力も『僕の指導』という一点に向かうだろうし、皿も安全。僕も主犯容疑から解放される。どうだい? これぞまさに、三方一両得、ウィン・ウィン・ウィンってやつじゃないかな?」


彼は得意げに、実に爽やかな笑顔で言い放ちました。


(ま、マンツーマン……!? ぎ、技術指導ですって!? わ、わたしが、この男に、て、手取り足取り……皿洗いを……!?)


瞬間、頭にカーッと大量の血液が逆流し、全身の毛穴という毛穴が開くような感覚に襲われました。視界が白く点滅します。


「な、な、な、何を馬鹿なことを仰っているんですか!! そ、そのような、ひ、非論理的かつ危険極まりない提案、断じて受け入れられませんっ! むしろ、危険因子との物理的距離が縮まり、有害なフェロモン……ではなく! あなたのパーソナルスペースへの侵入を許すことになり、より深刻な精神汚染、すなわち、さらなる心拍数の乱高下と、それに伴う思考能力の著しい低下を引き起こす可能性が指数関数的に増大します!!」


顔が熱い。声が震えています。もう、自分でも何を言っているのか分からなくなってきました。


「おや、残念だなあ。せっかくの平和的解決案だと思ったんだけど。じゃあ、仕方ない。僕はこのまま洗い続けるしかないね。恋春ちゃんは、くれぐれも皿を割らないように、僕の華麗な手つきから目を逸らして、壁でも見ていてくれたまえ」


彼はあっさりと提案を引っ込め、再び皿洗いに戻ろうとします。


(ま、待ちなさい! それでは、結局わたしは集中できず、皿は危険に晒されたまま……! しかも、わたしが壁を向いている間に、彼が何を仕掛けてくるか……! いや、それよりも何よりも、このままでは、わたしがただ彼のスキルに圧倒され、その魅力(!)に恐れをなして逃げ出したみたいではありませんか……!? それは、完璧主義者、橘恋春のプライドが、断じて許しません……!)


ぐるぐると、矛盾した思考が頭の中を高速で駆け巡ります。


「……っ!」


わたしは唇を強く噛み、スカートの裾を握りしめました。悔しい。腹立たしい。けれど、ここで彼の提案を完全に拒絶するのは、戦略的に見て得策ではない……のかもしれません。あくまで、あくまでも、皿の安全確保と、わたしの完璧主義者としての矜持を守るため。それ以外の理由は、断じて、断じてないのです!


「……わ、分かりましたわ! 受けて立ちましょう、その提案!」

「お、気が変わったのかい。さすがは恋春大先生、状況判断が的確だ」

「か、勘違いなさらないでください! これはあくまで、学校備品の安全確保と、あなたの主犯容疑を晴らすための、やむを得ない措置! 不可抗力です! 決して、あなたと接近したいとか、ましてやその……手解きを受けたいなどと、微塵も、ミクロン単位でも思ってませんから!」


早口で捲し立てます。顔はきっと、沸騰したやかんのように真っ赤でしょう。


「はいはい、承知いたしました。あくまで不可抗力、ね。では、指導を開始するよ。まずは、スポンジの持ち方からだ。そう、もっと優しく、泡を包み込むように……」


早瀬くんは、わたしの隣に、ごく自然に立ちました。


近いっ……! 近すぎます……!


彼の体温や、石鹸の清潔な香りが、何のフィルターもなく、ダイレクトに伝わってきます。わたしは全身をカチンコチンに硬直させ、息を吸うことすら忘れそうになりました。心臓が、肋骨を突き破らんばかりに激しく脈打っています。


「ほら、恋春ちゃん、力が入りすぎだよ。肩の力を抜いて。そんなに緊張しなくても、取って食ったりしないって」


彼の指が、わたしのスポンジを持つ手に、そっと触れました。


(ひゃっ……!?)


「そうそう、そのくらいでいい。意外と筋がいいじゃないか。……うん、上手いじゃないか」


彼の声が、すぐ耳元で、囁くように聞こえます。その声に含まれる、からかうような響きと、ほんの少しの、しかし破壊的なほどの優しさが、わたしの心臓を、そして思考回路を、直接鷲掴みにするのです。


(う、上手い……? わ、わたしが……? この、早瀬くんに……褒められた……? え、えっ、どうしよう……)


込み上げてくるときめきが、わたしの全部を上書きしていきます。論理も、プライドも、自己防衛本能も、何もかもが、彼の一言と、この近すぎる距離の前では、跡形もなく溶けて、蒸発していくのです。頭の中が真っ白になって、目の前がキラキラして、胸の奥から、熱くて、甘くて、苦しくて、訳の分からない感情が、マグマのように噴き出してくるので。


上手いって……! 上手いって言ってくれました……! わたしのことを……!


ということは……つまり……これは……!?


脳裏に、白いタキシード姿の早瀬くんと、ウェディングドレスを着たわたしが、なぜか、はにかみながら微笑み合っている、という全くもって非現実的かつ意味不明な光景が、閃光のようにフラッシュバックしました! なぜ花嫁衣装!? なぜ花嫁衣装!?


「〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」


声にならない絶叫が、喉の奥で爆発しました。


「け、け、け、結婚してくれるって言うんですか!? ……じゃなくて! こ、殺しますよっっっ!!! やっぱり、あなたのような超危険人物は、社会から隔離……いえ、今すぐこの場で、このスポンジの泡で窒息させて抹殺しますっっっ!!!」


涙目で、全身をわなわなと子鹿のように震わせながら、わたしはスポンジを持ったまま彼を睨みつけました。それはもう、警告などではなく、完全に制御不能となった感情の奔流、助けを求めるSOSの絶叫だったのです。


早瀬くんは、一瞬きょとんとした顔をしましたが、すぐにいつもの、あの楽しそうな、人を食った笑みを浮かべました。


「おっと、ついにプロポーズまで飛び出したかと思ったら、通常営業の殺害予告に戻ったね。感情のジェットコースターが激しいねえ。だが、新妻に泡まみれで殺されるってのも、物語としては悪くない最期かもしれないね。……なんてな。ほら、司書の先生じゃなくて、用務員のおじさんがこっち見てるぞ? 『若いのう、青春じゃのう』って顔で」


彼は窓の外を指さします。確かに、校舎裏を掃除していた用務員さんが、こちらを見て、なんとも言えない温かい笑みを浮かべているような気がします。


「……っ!」


わたしは再び唇を強く噛みます。これ以上、みっともない姿を晒すわけにはいきません。特に、あんな優しい目で見られては……!


「……と、いうわけで」


早瀬くんは悪戯っぽく笑います。


「本日の『早瀬蓮・泡まみれ窒息ハネムーンプラン』は、一旦保留ということで。まずはこの皿たちを片付けようじゃないか、共犯者どの」


彼は、まるで何事もなかったかのように、わたしの手からスポンジをそっと取り、代わりに乾いた布巾を渡してきました。


「さ、拭き取り作業、頼んだよ。僕の完璧な洗い上がりを、君の完璧な拭き取りで仕上げてくれ」


(共犯者……!? 完璧な……!? ハネムーンプランですって!?)


もう、何も言い返せません。わたしは沸騰した頭と真っ赤な顔のまま、ただ黙って布巾を受け取り、彼が洗い上げたピカピカの皿を、震える手で拭き始めるしかなかったのです。


(ああああああああもう!!! この男は!!! なんですの、いったい!!! 人の心を掻き乱し、変な提案をし、不用意に近づき、褒めたかと思えばからかい、挙句の果てに『共犯者』だなんて!!! 絶対に、絶対に許しません……! 必ず、この屈辱と混乱の責任を取らせて……!)


結局、後片付けは、当初の予定時間を大幅にオーバーして終了しました。これも全て、早瀬くんのせいです。彼のせいで、わたしの完璧な計画は崩壊し、心臓は警鐘を乱打し続け、冷静で論理的なわたしは影も形もなかったのですから。


誰もいない教室に戻り、わたしは自分の席に力なく座り込みました。そして、鞄から例のノートを取り出します。『早瀬くんを殺さなければならない理由』が記された、わたしの秘密の記録帳。


深呼吸を一つ。今日の混乱と、不覚にも感じてしまった、あの危険なほどの高揚感を記録しなければなりません。新たな「理由」として。ペンを握りしめ、#68とナンバリングします。


理由#68:家庭科室という半密室空間において、共同作業を強要し、不必要な『マンツーマン指導』を提案。物理的接近により、わたしの精神的平穏を著しく侵害した罪。


……違う。これでは、ただの状況報告に過ぎません。もっと本質的な、わたしの心が最も揺さぶられた、あの瞬間の危険性を記さなければ。わたしは書いた文章をぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#68:彼の手際の良さに不覚にもときめき、さらに「上手い」と褒められたことで、脳内に意味不明な結婚式のイメージがフラッシュバックし、あやうく求婚するところだった。このままでは、わたしの完璧な人生設計が彼によって破壊され、最終的に彼と添い遂げるという、論理的にありえないはずの最悪の結末を迎えてしまうかもしれない。その極めて深刻な危険性に対する、予防的措置としての殺害動機。


……ふぅ。これでよし。今日の出来事の本質と、それに伴う深刻なリスクを、客観的かつ論理的に記録できたはずです。わたしは満足してノートをパタンと閉じました。また一つ、彼を社会から、そしてわたしの人生から排除すべき、明確で正当な理由が積み重なったのです。


窓の外は、もうすっかり夕暮れの色に染まっています。胸のドキドキは、まだ少しも、まったく収まっていないのです。


(まったく、本当に厄介で、危険極まりない人ですわ。共犯者、だなんて……。それに、あの時の……『上手いじゃないか』って……あんな優しい声で……)


彼の声が、その響きが、やけに鮮明に耳に残っています。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、軽々しい言葉も、予測不能な行動も、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいましたよ! ……それなのに! それなのにどうして! どうしてわたしの心臓は、こんなにも馬鹿みたいに、うるさく鳴り響いているのでしょうか! ……ばかぁっ!)


わたしは、机に突っ伏して、今日何度目か分からない赤面を隠すしかありませんでした。早瀬くんへの「殺意」と、それとは全く別の種類の、熱くて、苦しくて、そしてほんの少しだけ……嬉しいような、そんな厄介極まりない感情が、わたしの中で激しく渦巻いている。その感情の本当の名前に、気づかないふりをしながら。

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