季節性疾患罹患時における精神的脆弱性と殺害衝動の相関性

季節の変わり目。それは、完璧な体調管理を誇るわたし、橘恋春にとっても、僅かながら油断のならない時期。不覚にも、わたしは微かな喉の痛みと倦怠感を覚えていました。しかし、これは問題ではありません。完璧な自己管理能力に基づき、初期段階での完全鎮圧を行うのみ。周囲に悟られるなど、言語道断です。


そう決意し、いつも通り冷静沈着を装って授業を受けていた、はずでした。しかし、時折襲ってくる咳を抑えるのに苦労し、板書を写す手も心なしか重い。完璧なポーカーフェイスを維持しているつもりでしたが……。


「……ぷしゅんっ!」


あろうことか、くしゃみまで。幸い、小さな音で済みましたが、隣の席から、鋭い視線を感じました。見なくても分かります。早瀬蓮くんです。


(なっ……!? 聞こえましたか!? 今の微かな生理現象を!? まさか、わたしの体調不良に気づいたとでも!? いけません、これは由々しき事態です!)


ドクン、と心臓が警鐘を鳴らします。彼の前で、弱みを見せるわけにはいかないのです。絶対に。


放課後。いつもより少し重い足取りで廊下を歩いていると、案の定、背後から声がかかりました。


「よう、恋春大先生。今日はなんだか元気ないみたいだけど、どうかしたのか? 顔色も少し赤いみたいだし」


振り返ると、やはり早瀬くんが、心配そうな(と見せかけて、絶対に面白がっているに決まっているんです!)表情で立っていました。


(し、しまった……! やはり気づかれていましたか! 顔色が赤いのは、断じて熱のせいではありません! あなたに体調不良を指摘されたことによる、精神的な発熱です!)


「……余計なお世話です。わたしの体調は常に完璧に管理されています。顔色が赤く見えるのは、おそらく夕日のせいでしょう。あなたは早く帰りなさい」


努めて平静を装い、冷たく言い放ちます。しかし、その直後、こらえきれずに「こほんっ」と咳が出てしまいました。最悪です。


「おっと、夕日のせいで咳まで出るのか。それは大変だ。相当強力な夕日なんだなあ」


早瀬くんは、わざとらしく感心したように言います。


(ぐっ……! この男、わたしをからかっていますわね!)


「と、とにかく! わたしはこれで失礼します!」


足早に立ち去ろうとした、その瞬間。ぐらり、と僅かに視界が揺れ、体がよろめきました。まずい、と思った時にはもう遅く、倒れそうになったわたしの腕を、早瀬くんが素早く掴んで支えていました。


「ほら、やっぱり無理してるじゃないか。大丈夫か?」


彼の手に支えられ、間近で心配そうな顔(!)を向けられる。その距離感と、彼の手の温かさに、わたしの心臓は危険なほど高鳴り、顔が一気に熱くなりました。


(ひゃっ……!? さ、支えられた!? しかも、こんなに近くで……! あ、腕が……!)


「は、離しなさい! 不潔です! あなたのような方に触れられるなど、屈辱です!」


反射的に彼の腕を振り払おうとしますが、体が思うように動きません。


「はいはい、不潔で結構。でも、このままじゃ倒れちまうだろ? 保健室行くか? それとも、家まで送っていこうか? さすがにこの状態の女の子を一人で帰すのは、人としてどうかと思うぜ?」


彼は、至極真っ当な、しかしわたしにとっては最も受け入れがたい提案をしてきました。


(ほ、保健室!? 家まで!? 断じて嫌です! あなたに弱みを見せるなど! ましてや家を知られるなど、プライバシーの侵害、国家機密漏洩に匹敵する重大インシデントです!)


「け、結構です! わたしは自力で帰れます! あなたの助けなど、ミジンコ一匹分も必要ありません! これは戦略的な撤退です!」

「戦略的撤退って、ふらふらしながら言われても説得力ないぞ。それに、君の家、僕と同じ方向だろ? ついでだよ、ついで」


彼はこともなげに言います。


(お、同じ方向ですって!? なぜそれを……!? まさか、日頃からわたしをストーキング……!? 恐ろしい!)


「そ、そんな偶然はありません! たとえ同じ方向だとしても、わたしはあなたとは違うルートで帰ります!」

「ふーん? じゃあ、僕が今から恋春ちゃんのお母さんかお父さんに電話をして、許可をもらうってのはどうだ? それならストーキングじゃなくて、親公認のクラスメイトってことになるだろ」


彼は悪びれもなく、さらに踏み込んだ提案をしてきます。


(おっ、親公認!?)


脳裏に、娘さんを僕にください、と申し込む早瀬くんの姿が、悪夢のようにフラッシュバックしました! しかも、わたしは早瀬くんの隣で、とても幸せそうに頷いているのです! こんな光景! こんな未来! 断じて許されません!


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」


もはや声にならない、魂の慟哭が内側で渦巻きます!


「こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!!!!!!! あなたのそのプライバシー侵害発言と! 病人に対する不必要な干渉と! そのストーカー紛いの思考回路は!!! 万死、いえ、億死、いえ、兆死、いえ、もはや垓死(がいし)に値します!!! 今すぐわたしの前から消え去りなさい! さもなくば、この! この鞄の中に常備している! わたしの知性の結晶たる六法全書(小型版)の角で!!! あなたのその歪んだ思考回路が詰まった頭蓋骨を! 法的に可能な限り最大限に粉砕しますよっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」


涙目で、全身をわなわなと震わせながら、わたしは鞄に手をかけ、六法全書(もちろん小型版ですが!)を取り出す素振りを見せました。熱と怒りで、もはや自分が何を言っているのか分かりません!


早瀬くんは、一瞬「六法全書!?」と目を見開きましたが、すぐにいつもの、あの面白そうな、そしてどこか呆れたような笑みを浮かべました。


「おー、ついに垓死までインフレして、最終兵器・六法全書(小型版)の登場か。すごいな、恋春ちゃん。法律で殴られるって、どんな感じなんだろう? 新しい経験ができそうだ。でも、できれば僕、君に前科をつけたくないんだよね。君には幸せな人生を送ってほしいし」


(し、幸せ!? わ、わたしを、幸せに……!? そ、そんな……!)


彼の優しい言葉に、わたしの怒りの炎が一瞬にして鎮火しかけます。


「だからさ、ここは平和的に行こうぜ。ほら、僕の肩、貸してやるから。掴まりなよ。大丈夫、他の女子の残留思念(?)とかついてない、今のところ、君専用の清潔な肩だからさ」


彼はそう言って、優しく(!)微笑みながら、わたしの目の前に自分の肩を差し出してきました。


君専用!? 君専用ですって!?!?!?!?


脳内で、早瀬くんの肩にしっかりと掴まり、彼の背中に頬をすり寄せながら、まるでそれが自分の定位置であるかのように安心しきっている、熱に浮かされたわたしの姿が、鮮やかに再生されました! なんという破廉恥! なんという甘え! こんなわたしは断じて許容できません!


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」


最後の理性が、完全に焼き切れました!


「こ、こ、こ、こ、殺しますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!! あなたのその不敬千万極まりない所有権主張と! 病人の弱みにつけ込む悪魔のような所業と! わたしの脳内に破廉恥な依存妄想を植え付けるその存在自体が!!! 宇宙の法則に反する無量大数死(むりょうたいすうし)に値します!!! 今すぐその肩を原子レベルで分解しなさい! さもなくば、わたしが! この僅かに残った体力と! 完璧主義者としての最後の意地にかけて! あなたをこの場で完全に! 跡形もなく! 消滅させてみせます!!!!!!」


涙と汗と熱でぐちゃぐちゃになりながら、わたしはもはや何を言っているのか、何をしようとしているのかも分からず、ただただ彼に向かって絶叫していました。


早瀬くんは、さすがに目を丸くしていましたが、すぐに困ったような、でもやっぱり楽しそうな笑みを浮かべて、そっとわたしの額に手を当てました。


「うわ、やっぱり熱、結構高いじゃないか。これはさすがにまずいな。……よし、決めた」


彼は何かを決意したように頷くと、わたしの腕を掴んでいた手を離し、代わりに……


ひょいっ。


軽々と、わたしをお姫様抱っこしたのです。


「なっ……!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」


「ちょっと暴れないでくれよ。落っこちるから。大人しく保健室まで運ばれてくださいな、恋春『お姫様』」


彼は悪戯っぽく笑いながら、わたしを抱えたまま、スタスタと歩き始めました。


「//////////!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


もう、言葉になりません。声も出ません。ただただ彼の腕の中で、沸騰した頭と真っ赤な顔のまま、硬直することしかできませんでした。周囲の生徒たちの驚愕と好奇の視線が突き刺さります。


(ああああああああもう!!! この方は!!! いったいなんなのですか!!! 人の体調不良を弄び、心を掻き乱し、肩を貸すどころかお姫様抱っこまでするなんて!!! しかも『お姫様』ですって!? 絶対に許しません……! いつか、いつか必ず、この借りは……お姫様抱っこ100回分にして(!?)お返しします!!!)


結局、わたしは早瀬くんにお姫様抱っこされたまま保健室まで運ばれ、熱を測られ、早退することになりました。保健室の先生と早瀬くんの「あとは任せろ」「頼んだぞ」的なアイコンタクトが、猛烈に腹立たしかったですが、もはや反論する気力も残っていませんでした。


一人、タクシーで(もちろん自分で呼びました!)家に帰り着き、ベッドに倒れ込みながら、わたしは朦朧とする意識の中で、鞄から例のノートを取り出しました。『早瀬くんを殺さなければならない理由』。もはや、わたしの存在証明そのもの。


深呼吸を一つ(ぜえぜえ)。今日の屈辱と混乱と、そして不覚にも感じてしまった、彼の腕の中の奇妙な安心感(断じて気のせいです!)と、あの「君専用」という言葉の破壊力を記録しなければなりません。新たな「理由」として。わたしは震える手でペンを握りしめ、#91とナンバリングし、今日の出来事を客観的に、そして極めて論理的に(熱に浮かされながらも!)記述しようとしました。


理由#91:風邪による衰弱という不可抗力な状況を利用し、不必要な心配、プライバシー侵害発言、さらに最終的には合意なき身体的拘束(お姫様抱っこ)を実行した罪。


……違う。これでは、単なる被害届です。もっと本質的な、わたしの完璧な自己像と尊厳を根底から破壊した、彼の恐るべき行動原理について記さなければ。わたしは書いた文章を、もはや恨みを込めてぐしゃぐしゃと線で消し、改めてペンを走らせました。


理由#91:彼が、わたしの体調不良を好機と捉え、心配するふりをして接近し、最終的には『君専用』という言葉で油断させ、抵抗できない状況で物理的に拘束(お姫様抱っこ)するという、極めて計画的かつ悪質な犯行に及んだ。このままでは、わたしが弱るたびに彼に主導権を握られ、最終的には完全に彼の庇護下に置かれ、彼のことしか考えられなくなるという、悪夢のような未来が現実のものとなる。その致命的な隷属状態を回避し、わたしの自由と独立を守るための、緊急かつ絶対的な殺害動機。


……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質と、それがもたらす、もはや人権問題レベルの重大な危機を、極めて冷静かつ客観的に(高熱にうなされながらも!)記録できたはずです。わたしはノートをパタンと閉じ、枕元に置きました。これでまた一つ、彼をこの世界から(わたしの自由意志を守るために!)排除すべき、明確かつ正当で、そして極めて論理的な理由が積み重なったのです。


わたしは、重い瞼を閉じました。まだ、彼の腕の感触と、耳元で聞こえた「お姫様」という声が、熱に浮かされた頭の中でリフレインしています。


(まったく、本当に厄介で、危険で、そして……強引な人です。「君専用」だなんて……お姫様抱っこまでするなんて……)


彼の、あの少し困ったような、でもやっぱり楽しそうな顔が、なぜか瞼の裏に焼き付いて離れません。


(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、強引な行動も、全部全部、腹立たしいのです! だから、また一つ、あなたを殺さなければならない、極めて論理的で正当な理由が増えてしまいました! ……それなのに! それなのにどうして! わたしは、あの腕の中を、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ……安全だと、感じてしまったのでしょうか! ……ばかぁーーーーーっ!!!)


結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を滅茶苦茶にされ、体調不良という最悪の状況で最大の屈辱(?)を受け、そして……どうしようもなく、彼の強引な優しさ(?)に、ほんの僅かだけ……ほんの僅かだけ……安堵してしまった自分に、気づかないフリをしながら、深い眠りへと落ちていくしかありませんでした。……早く、熱が下がって、彼に反撃しませんと……!

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