2

 静音を攫った男は、久我山 龍彦、と名乗った。


「助けてもらったと考えています」


 どんなに嘆いても避けられない、そんな状況だったと静音を、その《場》から連れ出してもらったのだと、静音は理解していた。それが、後々どのような混乱を生み、大問題になったとしても、あの場から静音が逃れられたことに、安堵すらしていた。


「そう? 行きがかり上、ではあるけど、貴女が助かったと思っているなら、良かったんじゃないかな」


 龍彦は、リビングルームに備え付けられているバーカウンターから洋酒の瓶を選ぶと、小さなグラスに注いだ。


「飲む?」


「いえ、いい……です」


「そう? 僕はいただくね」


 グラスを片手に、バーチェアに龍彦は軽く腰掛けた。窓際に立つ静音との距離をいたずらに縮めない、その配慮だった。


 今、このスィートを利用している人数は2人。それも、二人は知り合って数時間しか経っていない。


「向こうを見てきた。さすがに、騒ぎにはなっているみたいだね」


祭の見物でもしてきたような口調だ。


「……やっぱり、大事になっているんでしょうか」


「ならない訳はないだろうけど、貴女が気に病む必要はないさ。貴女は、被害者なんだから」


 落ち着いてみると、自分のしてしまったことの重大さが、静音に重くのしかかってくる。


「飲んだ方が楽になると思うけど、無理には勧めないよ。酒でごまかす癖がついたら、後が厄介だから。……僕みたいにね」


 言葉の最後にかすかな自嘲めいた気配を乗せて、龍彦は言った。


「久我山さんが……ですか?」


 驚いたように、静音は龍彦を見た。その視線を受けた龍彦は、軽く肩をすくめてみせる。落ち着いて、自信が溢れているような佇まいの龍彦に、《酒に逃れる癖》があるようには静音にはとてもではないが見えないからだ。


「龍彦でいいよ。この先、久我山っていう名前の人間とは、山ほど関わりを持つことになるし、そのとき困るから」


「……でも」


 ――省吾さんでさえ、呼び捨てにはできなかったのに。


 幼なじみであり、思いを寄せていた男の名を静音は思う。


「じゃあ、龍彦さん、にしておいて。たっちゃん、だと僕の弟と混ざるから」


 静音の心の揺れを知ってか知らずか、龍彦は、優しい笑顔を向けた。その笑顔に、静音は泣きたくなった。龍彦の笑顔には、静音への思いやりが感じられたからだ。


 ――わたしには。誰かに気を遣って貰う資格なんて無いのに。


 静音は、自分が自分の都合だけしか考えていないことを、重々承知していた。自分の中に芽生えた嫌悪感のために、代わりに負う者のいない重責を放り出したのだ。それは、龍彦がどれだけ否定しても、事実だった。


「僕の弟は、龍樹っていってね、龍の樹、って書くんだ。だから、たっちゃん、だと龍樹と混ざる。龍樹は、僕と違っていいヤツだから、会えば仲良くなれるかもしれないね」


 至極、明るく。軽い口調で龍彦は言葉を継ぐ。空気が重くなりすぎないように。


「……龍彦さんは、いい人ですよ? 困っていた私を、助けてくれた」


 いい人、と評されて、龍彦は苦笑いを浮かべた。


「それは、利害が一致したからだって、前にも話した通りなんだけどな」


「ただの利害の一致だけで、《久我山》一門の頭領が、命まで賭けられるんですか?」


 静音の問いに、龍彦は曖昧な笑みを浮かべ、答えた。


「《九曜》が相手なら、それも、あり得る、かな」

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