ノーマライゼーション・コード

Moca

第1話 intro



【往会記録 No.1047】

 日付: 20XX年 6月14日

 情報管理局 N値調整部 工匠第3調整局

 責任者: アオイ・セキネ(AOI SEKINE)



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 <調整内容>


 1. 下記ユーザー「イデア・フミヤ(IDEA FUMIYA)」の情報プロファイルに対し、N値内の数値低下を認む。


 対象ID: NF-J0340297

 数値は次の通り:

 ・社会適合値: -1.28

 ・感情表現値: -1.04

 ・家庭機能値: -1.32


(※N値=Normalization Index。社会的・感情的な“普通さ”の指標であり、±1.0を超えると軽度逸脱、±2.0を超えると強制是正の対象となる)


 2. 上記により、対象者に対し「経常モニタリング」と「自我抑制薬」の使用を推奨する方針とする。

 3. 一時値低下の可能性も考慮し、解除は少なくとも最短6ヶ月後をめどとする。



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 <評価について>

 対象者は、本人自身の正確性を自覚しており、一見には問題のない復元力のあるケースと判断される。 ただし、発言パターンに非統計的表現が見られる為、現状維持のための緊急対応を必要とする。



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【記憶断片 No.1047-A / 転写開始】


「誰も、僕の“違和感”に気づかないんです」


 イデア・フミヤの言葉だった。


 無表情だった。声も平均的だった。感情表現値が-1.04を記録するのも納得の、規定に沿った話し方だった。


 けれど、その言葉だけが異常だった。


 違和感。それはこの世界で最も危険な語彙のひとつ。N値制度において、“普通”は定量化されている。

 人は全ての行動・言動・生理状態に対し常時スコアが計測され、そのズレが±1.0を超えると “逸脱予備軍”、±2.0で “是正義務対象”とされる。

「普通であることに、疑いを持つ」というその概念こそが、我々の秩序に亀裂を走らせる。


 私は、その瞬間、なぜか呼吸を忘れていた。

 気づくと記録端末を握りしめる指が、ほんのわずかに震えていた。


 ……何を感じていた?


 違和感? 共鳴? あるいは――


「私も、同じことを考えたことがある」


 そんな言葉が喉まで出かかった。

 だが、私は記録にそうは残さなかった。

 代わりに、こう記した――


 > 対象は統制逸脱傾向を示す語彙を断片的に用いたため、感情抑制処置が必要と判断。


 処置完了の入力をしたあと、私は席を立った。

 標準的な歩幅で、標準的な廊下を、標準的な姿勢で歩いた。

 でも、鼓動だけが、なぜか統計から外れていた。


 それが、「私」の始まりだった。



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【断片記録 No.1047-B / 日常業務・抜粋】


 午前 09:00――

 平均祈祷。

「今日も統計に準拠した生活を誓います」

 同僚たちは、笑顔のシミュレータを作動させながら唱和する。

 声のトーンも、文脈値も完全一致。


 午前 10:30――

 定型応答処理。

 市民問い合わせ:「最近、子どもが感情の波を見せるのですが、異常ですか?」

 応答:「表現値が+1.20以上であれば、是正をお勧めいたします」

(実際、統計では+1.00を超えた子供の83%が2年以内に逸脱予備軍へ分類されている)


 午後 12:00――

 標準昼食。

 N食堂の本日のメニュー:「エネルギー最適化米」「社会参加タンパク」

 味覚変動を防ぐため、全料理は “味調整率±0.01” に保たれている。

 咀嚼回数:左右交互で22回。これが正解。


 午後 14:45――

 発言ログ確認。

 同僚の発言:「この天気、なんか不思議な気持ちになるね」

 内部通知:「発言パターンに感性過剰傾向あり。注意報告済」

 ※彼は次の日、1日休暇を与えられた(=情緒調整指導期間)


 午後 16:00――

 自身のN値確認。

 本日の感情揺らぎ:+0.03(許容範囲)

 だが、それでも胸の奥で、何かが浮き上がってくるような感覚があった。


 それを、まだ私は名前で呼べなかった。

 ただ、それは確実に、“日常”のなかにある異常だった。



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【内的逸脱記録 No.1047-C / 思考ログ 転写】


 けれど、統計が規定する“正解”と、私の思考だけは、まだ完全には一致していなかった。


 昼食時、配膳された「社会参加タンパク」を口に運ぶとき。

 AI音声が「今週の平均栄養値を2.3%上回っています。優秀です」と囁いたその瞬間。


 私は、思った。


 > 「これは、本当に“美味しい”のか?」


 味覚は、許容範囲内。

 感情揺らぎも、数値では±0.03。

 でも、“自分”という数値化できない存在が、どこかで首を傾げていた。喉の奥に、微かに渋い金属のような味が広がる。それは、どこにも記録されない感覚だった。


 職場の天井は、まるで空のように青く塗られている。

 それは最適照明と映像パネルによる“安定色演出”なのだが、私は毎日、その模様のわずかな変化を記録している。


 誰も気づかないような変化。

 でも、確かにそこにある揺らぎ。


 > 「どうして、それを『異常』と呼ぶのか?」


 言葉に出すことはできない。

 出せば、逸脱とされる。


 けれど――頭の中までは、誰も統制できない。


 まだ、私の“自由”はここにある。


 けれど私は、気づいたのではない。


 知っていた。


 それは昔から、ずっと知っていたことだった。


 たとえば、誰もがAIと話すときに使う「適正応答トーン」。

 あの抑揚を“真似ているふり”ではなく、

 私は最初から“完璧に再現”できていた。息継ぎのリズム、音節の間さえも。


 それは訓練の成果ではない。私の中にあらかじめ在ったものだった。

 そうでなければ、私の兄が壊れるはずがなかった。



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【断章 No.1047-D / 記憶再生:兄・ユウの崩壊】


 彼の名は、ユウ・セキネ。

 かつて、“突出した知性と創造性”で注目された逸材だった。


 演算値 +3.1。

 感性出力 +2.6。

 表現力は、平均から逸脱しすぎていた。


 私たち家族は「誇り」であるはずの彼を、

 ある日突然、「矯正施設」へ送った。


 ユウは、最初のうちは笑っていた。

「また新しい詩を書いたんだ、今度読んでくれよ」

 小さな声でそう言いながら、ノートを見せてくれた彼の手は、いつも少しだけ震えていた。

「心配するな、アオイ。ちょっと“合わせてくる”だけさ」と。


 だが、三ヶ月後に戻ってきた彼の笑顔は、標準的すぎた。


 目が、揺れていなかった。

 呼吸が、全く同じリズムだった。

 会話が、正しすぎた。


 > 「今日はね、全てがちょうどいい日だったよ」


 その一言が、私の記憶に深く刻まれている。


 ユウの瞳には、光がなかった。

 それ以来、私は知っている。


 統制されるより先に、自分を“完璧に模倣”できる者が最も深く壊れるということを。


 そして私は、まだそれを――うまく演じ続けている。



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【内勤記録 No.1047-E / 対面業務・報告ログ】


 案件番号:CT-P11352

 対象者:カナエ・ミク(CANAE MIKU)/市民階層:標準下位層

 N値:±0.03(範囲内)

 主訴:「娘が笑わなくなった」


 面談時間:17分42秒

 処置方針:家庭心理安定パッチ(低容量)+定期観察



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「N値は特に異常ありませんね。環境刺激の変動かと思われます」

 私の声は滑らかだった。音調、間、強勢、すべてが指導値通り。


 彼女は頷いた。素直で、反応も過剰ではない。

 平均的に疲れた母親の顔。だがその目元には、疑問が宿っていた。


 >「この子……ほんとは、何が楽しいのか、分からないだけなんじゃないですか?」


 一瞬、返答のフォーマットが揺らいだ。

 脳裏に、イデアの「違和感」という単語が焼き付いていた。


 私は、その語を避けるようにして、淡々と告げた。


「必要があれば、笑えるようになります。制度がそう設計されていますから」



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【報告登録:処理済】

 処理内容:対象者に精神安定指導と補助処置の案内。逸脱なし。

 備考:感情表現抑制薬の提案は見送り。


 ※個人的な感情記録はなし。



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【断章 No.1047-F / 回想:帰路にて】


 帰り道、私はふと気づいた。

 今日の夕陽は、昨日と0.03ルクスだけ光度が違う。

 でも、誰も気づかない。


 私だけが、それを“異常”と感じる。

 けれど報告はしない。誰にも言わない。


 > 「平均は、私の目には足りなすぎる」


 私はまだ統計の外にはいない。数値上の私――N値、応答率、感情揺らぎ――はすべて“正常”だ。

 けれど、統計の中だけでは、生きられない何かが、確実に息をしていた。



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【内勤記録 No.1047-G / 巡回監査・要点転写】


 案件番号:CT-P11589

 対象施設:エモーション制御学区 第13補習クラス(通称:エモ補13)

 担当教員:カトウ・レンジ

 指導記録:児童の情動再調整プログラム状況調査



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 午前9時。

 私は制御学区の見回りに向かった。


 そこでは、子どもたちが「感情パターン基礎」の授業を受けていた。

 投影されたホログラム映像を見て、適切な反応をする訓練だ。


【場面1:犬が死ぬ】→【表情:涙腺起動1.2秒以内】【発声:嗚咽音:20dB前後】

【場面2:友達から手紙をもらう】→【表情:喜色】【発声:「ありがとう」テンプレート応答】


 カトウ教員は私に微笑んで言った。

 >「この子たち、平均的によく泣けるようになりましたよ」


 私は肯定の頷きを返した。

 事実、彼らの反応はほぼ全て“規範通り”だった。


 ただ、一人だけ。

 全ての映像を無表情で見つめ、しかし、誰よりも先に言葉を口にする児童がいた。


 >「これは、泣くところです」

 >「これは、笑うところです」


 その子のN値は正常。

 表現もタイミングも正しい。


 なのに、私には分かってしまった。

 彼女は感情を模倣していた。


 私は報告書に記した。

 >「児童番号13-FC:応答傾向は基準内。追加指導の必要は見られず」


 でも、心の中には別の言葉があった。

 > 「あれは、かつての“ユウ”と同じだ」



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【断章 No.1047-H / 路面広告:市街第6セクター】


 帰路、市街第6セクターの交差広告に新しいスローガンが加わっていた。


 > 『統計は愛。あなたの平均は、誰かの安心』


 下には市民の感情値平均グラフがリアルタイム表示されている。

 笑顔比率:41.2%(昨日より +1.1%)

 怒り検出:8.3%(正常)


 それを見た瞬間、私は意味のない数字の洪水の中で、目を逸らしていた。


 平均が愛?

 それが、兄を壊した世界の言葉だと思った。



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【生活記録 No.1047-I / 帰宅後ログ】


 午後19時24分。

 居住区ユニット「E-N3-07」に帰宅。


 玄関認証AI「ルナ」が出迎える。

 >「おかえりなさい、アオイ。今日の感情総消費量は117.2。適正範囲内です」


 室温:22.7℃(平均)

 照明:夕暮れ演出モード

 BGM:「共感フラット・コンポジション#142」


 私は靴を脱ぎ、制服をかけ、冷蔵庫から「平衡栄養水」を取り出す。

 味覚刺激:甘味0.8/塩味0.3/苦味0.0(刺激レベル制御済)


 飲みながら、ニュース映像をつける。

 画面には、市民の「N値向上キャンペーン」の成功例が映し出されていた。

 >「この一年で、市民の平均値は過去最高に! 私たちは、ますます“正しく”なっています!」


 何も感じない。

 何も違和感はない。

 そう、私は演じている。


 感情のない笑顔を浮かべたまま、私はベッドに体を沈めた。


 天井には、AIが選んだ「睡眠導入映像」――星の動かない空。

 音のない、静止した宇宙。


 だが私は目を閉じる前に、ひとつだけ想像してしまう。


 > ……もしあの星が、少しだけ動いたら。

 > ……もしあの音楽が、ほんの少しズレていたら。


 私はきっと、泣いてしまっていたかもしれない。

 でも、それはまだ、夢の中でしか許されていない。



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