第5章:壊すことは、生きていること

校内では、誰も事件に気づいていないふりをしていた。


透がカッターを向けた相手――黒瀬は、翌日から登校してこなかった。

“体調不良”という扱いで、担任が申し訳程度に説明しただけ。

教室には変わらぬ日常が流れていた。


でも、透だけは知っていた。


「本当の理由を、誰も知らないんじゃない。

知っていて、目をそらしてるだけなんだ。」


それが“普通”の正体だった。

都合の悪い現実には目をつぶり、なかったことにしてしまう。

加害も、犠牲も、どちらも“黙っていれば消える”ものにされていく。


放課後。透は駅前のバスロータリーにいた。

制服姿の中学生たちが、騒がしく駄弁っている。


その中に――いた。

あの日、自転車で肩をぶつけた少年。


透の胸が、ひくつく。

手のひらがじっとりと汗ばんだ。


「おまえ、どこにでもいるな」


そう呟くと、彼はゆっくりと歩き出した。

駅の裏手。人気の少ない駐輪場の隅。

風が強く吹いていた。紙袋が転がり、缶がカラカラと鳴った。


「なに?」


少年が気づいたのは、声をかけられてから数秒後だった。

透は無言で立っていた。


「なに? ついてくんなよ。変態?」


その一言が、スイッチを入れた。


透はコンビニ袋から、折りたたんだ金属バットを取り出した。

最近、通販で購入したばかりだった。

“防犯用”と書いてあった。


風が吹く音。

少年が「あ?」と顔をしかめる間もなく、バットが振り下ろされた。


鈍い音が、地面に響いた。


「っ、う、うああああっ!?」


悲鳴。血。飛び散る唾液。

顔面を狙った一撃だった。鼻が潰れ、歯が飛んだ。

地面に倒れた少年の上から、透は無表情でバットを振り下ろし続けた。


ぐちゃっ、べきっ、ぐしゃっ――


人間の顔が崩れる音は、想像よりも生々しく、そして快感だった。


透の中で、何かが脈打った。

興奮。征服感。正義の執行者としての感覚。


「邪魔だった。ずっと。

おまえみたいな奴らが、

好き勝手に人を押しのけて、笑って、

“それが普通だ”って顔して……」


最後の一撃は、静かだった。


少年は動かなくなった。血の海。震える手足。

誰もいない夜の駐輪場で、透はただ立ち尽くしていた。


帰宅すると、母親はテレビを見ていた。

ワイドショーでは、有名人の不倫スキャンダルが話題になっていた。


「おかえり」


それだけ。こちらを一度も見なかった。


透は、風呂に入り、爪の隙間の血を洗い落とした。

制服はすでに洗濯機の中。

自分の犯罪は、この家の中では何の意味も持たなかった。


夜、透は日記アプリに文字を打った。


「人間の顔は柔らかい」

「バットを振ったときの音が、脳に焼き付いている」

「怖いのは、“これでいい”と思ってる自分じゃない」

「“これが当然だ”と思わせた世界のほうだ」


そしてこう書いた。


「正しさに殺されるくらいなら、俺は狂って生きる」



部屋の電気を消し、真っ暗な天井を見上げる。


透は笑った。

それは、もう“普通”ではない笑みだった。


それでも――彼は、生きていた。


ようやく、自分の意志で、生きていた。

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