第4章:正しさの刃
殺したはずの猫は、翌朝にはもういなかった。
裏路地に残された血の跡は、雨で流れかけていた。
猫の体も消えていた。まるで最初から何もなかったかのように。
でも、透の手には、はっきりと“感触”が残っていた。
包丁を握ったときの重さ。
肉を割ったときの手応え。
血が飛び散ったときの、生ぬるい温度。
「これは正しい行為だった」
そう思っていた。
世界が自分に与えた痛みに対して、自分なりの“返答”をしただけ。
透の中では、それは論理的で、合理的な“正義”だった。
•
学校では、何も変わっていなかった。
朝のHR、教室に満ちる沈黙、教師の無機質な声。
誰も透の目を見ない。自分が、何かを壊したことに誰も気づかない。
いや、誰も“気づこうとしない”。
•
昼休み。
後ろの席の男子が、わざとらしく足を机にぶつけてきた。
透の机が揺れる。
「うわ、悪ぃ。柊くん怒らないでね〜」
バカにした笑い。周囲が小さく笑う。
その笑いが、透の耳の奥で“うにょうにょ”と動いた。
昨日の猫と同じだった。
無関心で、野蛮で、何の罪悪感もない。
透は立ち上がった。
「……やめろよ」
一瞬、教室が静まった。
それは“空気を読まない者”への視線。
異物を見る目。
「……なに、キレてんの?」
「まじ怖っ」
周囲がざわつく。
“やめろ”と、たった一言言っただけで、透は異端になった。
笑っていたのは、誰だ。
紙を入れたのは、誰だ。
モップを投げたのは、誰だ。
傷つけたのは、誰だ。
でも、彼らは皆、普通の顔をしている。
“冗談だった” “ノリだった” “そんなつもりじゃなかった”――
そう言えば、全部許される側の人間たち。
•
放課後。
透は校舎裏にいた。
ポケットに、コンビニで買った小型のカッターが入っている。
先ほどの男子が、自転車置き場でスマホをいじっていた。
透は、ただ見ていた。
冷たい風。夕暮れ。人気のない裏口。
世界が音を失ったようだった。
歩き出す。
自分でも、足音が聞こえない。
自転車に背を向けた男子に近づく。
手が、カッターを握る。
指に汗がにじむ。
その瞬間――
「おい、おまえまだいたの? キモッ!」
男子が気づき、笑った。
笑った、という行為が引き金になった。
透の中で、“正義”のスイッチが入った。
•
カッターは、小さな刃だった。
でも、首筋に当てるには充分だった。
男子が振り向いたときには、透はもう振り下ろしていた。
「――あ?」
刃が皮膚を裂いた。
一瞬の沈黙。次の瞬間、悲鳴。血が、地面に滴る。
「な、なにっ、やめ、やめっ――!」
叫ぶ声。走り出す男子。
透は追わなかった。
追う必要はなかった。
やり返した。ただ、それだけだった。
•
そのまま、透は帰宅した。
手を洗い、制服を脱ぎ、夕飯も食べずにベッドに横になった。
頭の中は、不思議なくらい静かだった。
“正しいことをした”という実感が、全ての感情を平らにならしていく。
彼は、ようやく理解した。
――自分は、もう「普通」には戻れない。
そして、戻るつもりも、ない。
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