第3章:傷口から笑い声がこぼれる

その日、透は朝から頭が重かった。


眠れなかったわけじゃない。むしろ、久しぶりに深く眠った気がする。

けれど目覚めたとき、頭の中がじんじんと痺れていた。


学校に向かう道すがら、向こうから自転車に乗った中学生くらいの男の子が走ってきた。狭い歩道。

すれ違いざま、男の子のハンドルが透の肩に当たった。


「……っ」


肩がグラついた。反射的に振り返ったが、男の子はそのまま振り向きもせず走り去っていった。

謝罪の言葉も、目も、何もない。


ただ、風のように通り過ぎていった。


1限目の数学は、まるで意味がわからなかった。


数式がノートに並ぶが、目が滑っていく。

教卓の前で、教師が退屈そうに問題を解いている。


透は、教室の隅にいた。誰とも視線を交わさず、ただ、そこにいるだけの“物体”として。


「なあ、昨日のやつ見た? あいつのTwitter、超ウケるんだけど」


隣の席の男子が笑っていた。透の耳に、その声だけが異常に大きく響く。


笑い声が、傷口を舐めるように広がっていく。


昼休み。透は誰もいない図書室で一人、机に突っ伏していた。

頭の中で、ある言葉が繰り返されていた。


「ぶつかったのに、何も言わなかった」

「紙を入れたやつ、まだ教室にいる」

「笑っていた」

「モップを投げた」

「ネットで“死ね”と書いたのは、誰か」


“誰か”が多すぎる。


世界はノイズだ。

優しさの皮をかぶった敵意が、日常を埋め尽くしている。


放課後。

コンビニの前に、捨て猫がいた。


痩せ細って、骨が浮き出ていた。雨に濡れて、震えている。

透は立ち止まり、しばらくその猫を見ていた。


「……ああ」


ふいに、口から声が漏れた。


その目が、自分と同じだった。

怯え、濡れ、誰にも見向きもされない。

無価値のまま、存在しているだけ。


透は、しゃがみ込み、猫にそっと手を伸ばした。


しかし――


「ニャッ!」


猫は突然、透の手を噛んだ。爪を立て、逃げていった。


掌から血がにじんだ。痛みよりも、驚きよりも、

湧き上がったのは、怒りだった。


「俺が、優しくしてやったのに」


その夜、透は台所から包丁を1本持ち出した。


切っ先を、指先で撫でる。冷たく、鈍く光る。


「……何もしない。まだ、何も」


誰に言い訳しているのかもわからなかった。


でも、胸の中で何かが確かに叫んでいた。


「世界は間違ってる。俺が、正すんだ」


夜中。

透は窓の外を見る。

向かいの家のベランダに、あの捨て猫がいた。毛を逆立てて、こちらを睨んでいるように見えた。


「……なんだよ、その目は」


その瞬間、透の中の何かが、静かに壊れた。


次の瞬間には、玄関のドアを開けていた。

手には包丁。裸足のまま、夜のアスファルトを踏みしめていた。


闇に包まれた裏路地。

逃げる猫。追う透。

呼吸が荒くなる。

意識が白くなる。


「止まれよ……」


突如、猫の姿が止まり、透の視界が揺れた。


包丁が振り下ろされる音は、想像よりもずっと静かだった。


ザク。


柔らかいものを切り裂く感覚。

血が、足元に飛び散る。


透は黙ってそれを見下ろした。


心臓の鼓動が、妙に心地よかった。


――それは、誰にも知られない“最初の殺意”だった。


そして透は、笑った。

まるで、ようやく「人間」として認められたかのように。

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