第2話:不安という優しさ

 春の風はやわらかくて、でもどこかまだ冬の名残を引きずっている。

 桜の蕾がほころび始めた校舎の中、蓮と葵は放課後の教室で並んで椅子に座っていた。

 窓の外には茜色の空。沈む夕陽が静かに世界を染めていく。


 けれどその時間のなかで、ふたりの間だけは、まだ色を持てずにいた。


「……静かだね」


 葵がぽつりと呟いた声に、蓮は少しだけ肩を動かした。

 でも顔は向けない。ただ、視線を膝の上に落としたまま、そっと言葉を返す。


「うん。春って、こんなに静かだったっけ」


 葵はそれ以上何も言わなかった。ただ、細く息を吐いて、机に頬を乗せる。

 その仕草が、どこか子どものようで、でもどこまでも遠い。


 蓮は、あの日からずっと迷っていた。


 ——君が戻ってきてくれて、うれしいはずなのに。

 どうして、こんなに言葉が出てこないんだろう。


 蓮は葵の横顔をそっと盗み見た。

 少しだけ髪が伸びて、柔らかく頬にかかっている。

 その下にある目元は、たぶん笑っていない。


「……なに?」


 葵が不意にこっちを向く。

 蓮はびくりとしながらも、すぐに顔を逸らした。


「べ、別に。見てないし」


「ふーん。そっか」


 そう言って、また窓の方へ顔を戻す葵。

 でも、その口元はほんの少しだけ、意地悪そうに緩んでいた。


 そんな何気ないやりとりが、少しだけ懐かしい。


 それでも、蓮の胸の奥には、ずっと重たい塊のようなものが居座っていた。


 ——このままでいいんだろうか。

 ただ、また一緒にいられる。それだけで十分なんだろうか。


 けれど本当は知っている。


「今の関係を壊すくらいなら、このままでいい」

 そんなふうに考えてしまうのは、

“本当の気持ち”を伝えるのが、怖いからだ。


 蓮は拳を握った。自分の胸の中にある、まだ言えていない言葉をそっと見つめる。


 ——『好きだよ』


 ただ、それだけのことが、なぜこんなにも難しいのだろう。


「蓮って、変わったよね」


 唐突に、葵が言った。

 その声は穏やかで、でもどこか探るような響きがあった。


「え、どこが?」


「前より、ちゃんと怒るようになったし。ちゃんと笑うようにもなった。前はさ……なんか、空気でできてたっていうか」


「ひどくない?」


 苦笑しながらも、蓮は否定しない。

 それが、ほんとうの自分だったと認めているから。


「葵が……変えてくれたんだと思うよ」


「え?」


「君が、いや……葵が。僕にちゃんと“考える理由”をくれたから」


“誰かのために”じゃなくて、“自分のために”考える理由を。


 葵はその言葉に、少しだけ目を伏せた。

 指先で机の端をいじりながら、ぽつりと呟く。


「ねぇ、蓮。もしさ、わたしがまたどこかに行っちゃったら、どうする?」


 唐突な言葉だった。

 でも、蓮の胸の奥には、それに似た不安が、ずっと巣食っていた気がする。


「……それ、前にも聞いたよね」


「うん。でも、そのとき、蓮は“笑って送り出すよ”って言った」


「……ごめん。あのとき、嘘ついた」


「知ってた」


 ふたりの声が重なる。その瞬間、教室の空気が少しだけ緩んだ気がした。


 蓮はそっと目を閉じた。言葉を、選ぶ。

 何を言えば、ちゃんと“この関係”に向き合えるのか。


「……僕、怖いんだ」


「なにが?」


「今の関係をこわすこと。君がいなくなること。何も言えなくなること……全部」


 葵は、ゆっくりと蓮の方に顔を向けた。

 その視線が、やさしくて、でも真っ直ぐで、目が逸らせなかった。


「でも、本当に大事なら、“言葉にすること”から逃げちゃいけないよね」


 蓮は自分自身に言い聞かせるように、静かに言った。

 その言葉が震えていたのは、きっと今の気持ちを隠せないから。


「幸福ってさ、今を守ることだと思ってた。でも……もしかしたら、未来に手を伸ばすことかもしれない」


「……うん。そうかもね」


 葵が小さく微笑んだ。

 その笑顔に、蓮はほんの少し救われた気がした。


 沈黙が落ちる。けれど、それは気まずさではなく、

 互いの心がようやく静かに重なり始めたことの証だった。


 もうすぐ春がくる。

 けれどその前に、ふたりには越えなきゃいけない“まだ言えてない言葉”がある。


 蓮は、少しずつ、それを形にしていこうと思った。

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