第3話:涙を知る名前

 ざわざわとした空気が、昼休みの教室に沈殿していた。


「また一人でいるの、あいつ」


 誰かの小さな声が、他の誰かの笑いとともに広がっていく。


「空気読めない子って、戻ってきても変わらないんだね」


 葵はそれを聞いていないふりをして、窓の外を見ていた。だけど、ほんの少し、肩が揺れた。


 蓮は立ち上がった。


「それ、やめろよ」


 教室の空気が一瞬止まる。言ったのは蓮だった。普段、空気を読んで、和を選ぶ彼が。


「なに、正義感?」


 男のひとりが笑った。「もしかして、付き合ってんの?」


「そうそう、あの距離感、ねーよな。ちょっと引くわ」


 蓮の喉が鳴る。


「僕は……別に、誰かの許可なんて求めてない」


 淡々とした声。それでも芯があった。


「葵がここにいるのが嫌なら、お前らがどっか行けばいい」


 茶化しは一瞬止まり、代わりに空気がきしむ。


「は?お前、何様だよ」


「そういうの、かっこいいとでも思ってんのかよ」


 立ち上がったのは、隼人だった。


「いい加減にしろよ」


 その声は、教室中を割った。蓮のそれより低く、鋭い。


「本気で言ってんのか? 人の関係を勝手に茶化して、楽しんで、何が面白ぇんだよ」


 男たちが反論する間もなく、机がひとつ倒れた。誰かが止めようとしたけれど、もう遅かった。乱闘になるのに、ほんの数秒しかかからなかった。


 叫び声。焦ったような足音。そして、教師が駆けつけて、騒動はやっと収まった。




 放課後、教室には蓮と隼人と、葵の三人だけが残っていた。


 誰も言葉を発さず、時間だけが、鈍く流れていく。


「……ごめん」


 ぽつりと葵がつぶやいた。


「私のせいで……」


「違う」


 蓮がそれを遮った。


「違うよ、葵」


 葵は、机の端に指をかけて、小さく震えていた。


「私、また……嫌われるのが怖くて。でも、蓮に言い返してほしかったわけじゃない」


「でも、言わなきゃって思った」


 蓮は、少し息を吐いて続けた。


「葵がいてくれるだけで、僕は変われたんだ。だから、守りたかったんだよ。自分の気持ちで」


 葵が顔を上げた。目が赤い。


「……蓮が変わったんじゃないよ。最初から、そうだったんだよ。ちゃんと見てなかっただけ……私が」


 その目から、ぽろ、と涙が落ちた。


 蓮はその手を伸ばしかけた。


 でも、触れられなかった。


 触れたい。でも壊したくない。

 そんな気持ちで、指先は空気を掴むことしかできなかった


 静かな夕暮れが、教室を赤く染めていた。

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