…急ぐ用、か。

「どうなさいますか?」

「…あまり、目覚めたくないのが、本音です」

 意識が戻ったら、またあの地獄のような日々を過ごしていかないといけなくなる。戻らなくていいのなら、このままが良いというのが本音だ…でも、教室に残されたあの2人のことが気がかりなのも本音。今頃、他の生徒に嫌なことをされていないといいのだけれど…いや、私がいなくなったことで教室の雰囲気が良くなっているかもしれない。両親も離れた場所に住んでいるしパートナーもいない、早く目覚めて欲しいと思ってくれる人はそばにはいなかったはず。悲しい話だけど。

「…よっぽどの体調の変化がない限り、20日後に朝倉さんは必ずお目覚めになります」

「そう、ですよね…急ぐ用も何もなかったはずなので、働かせていただきます」

「分かりました、幽便局は常に人手不足なのでとても助かります」

 そう言うと田所さんは、一つの鍵を取り出した。

「ではお仕事の説明の前に、朝倉さんのお部屋をご案内しますね」


 そこからはまた驚きの連続だった。イメージするだけで目の前に扉が現れたり、欲しいものを考えるだけで手に入れることができたり…まるでアニメの世界に迷い込んだみたいで目が回りそうだった…

「本当、夢みたいな世界ですね…」

「えぇ。中々悪くないでしょう?」

「そうですね…」

 受け取った鍵は、どこにでも連れて行ってくれるらしい。イメージをするだけで自分の部屋や幽便局に来ることが出来るし食べたいものを目の前に出すこともできるんだとか。こんなに良い思いをしていいのかと不安に思っていたら、

「この世界にいる時くらい気楽に、楽しく生活しましょう。生涯ここに来ることが出来ない人もたくさんいる事ですし、せっかくなんですから」

 と、田所さんは非常に楽観的で呑気。でも今はその軽い、身の無い感じが非常に心地よく感じた。現実世界の自分では感じることのできなかった、”まぁいいか”というあきらめに近い感覚。今までは、すべての事を自分で何とかしないといけないという無意味な責任感に押しつぶされそうな毎日だった。職場の人に相談する時も、何故か深刻なことだけを省いて話したり、話を聞く気のない子供たちに笑顔で話しかけたり。誰の、何のためにもならない事ばかりしていた。冷静でいるつもりだったけど、何にも俯瞰に見られてなくて何かに追われていた。この世界に来ただけなのに、今の私はなぜか強い。

 私に足りなかったのは、相談相手でもアドバイスでも癒しでもない。本当に簡単な、頭を冷やすだけの事だったのかもしれない。

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