第3話 名前のないものたちへ

放課後の教室には、誰の声も残っていなかった。

椅子はきちんと机に収まっていて、カーテンだけが風に揺れていた。

私は忘れ物を取りに戻ってきただけで、別に誰かと話す予定なんてなかった。


でも、いた。

蒼介が、窓際の席で本を開いていた。

あの整った背筋は、誰も見ていなくても変わらないんだなと思った。

「……何読んでんの?」

気づけば声をかけていた。

蒼介は顔を上げず、ぺらりと本のページをめくった。

「ヴィトゲンシュタイン。言語と存在の話です」

「へー……って、ぜんっぜんわかんないけど。それ、面白いの?」

「わかりません。でも、わかるかどうかで判断していたら、この世界はたぶん成り立たない」

「……なにそれ、名言っぽい言い回し」

「事実を述べただけです」

またこれ。

でも、私は今日はちょっとだけ余裕があったから、一旦席に座った。

蒼介の斜め前。

少し距離をとって、でもちゃんと話が届く距離。

「さっきさ、グラウンドでさ。なんか花が咲いてて、でも名前わかんなくて。でもきれいだったの。……それって、ある?ない?」

彼は本から目を離した。

少しだけこちらに視線を向けた気がした。

「名前がついていないものは、世界の外側にあるものです。人間は、名付けることで存在を『固定』します。言葉を持たないものは、記録もされず共有もされず、あったのに、なかったことになる」

「じゃあ、言葉にできない気持ちとかも、なかったことになるの?」

「厳密には、あったかどうかも判定できない状態になる。観測されていない以上、それは未確定です」

「でもさ、私あの花を見て綺麗だなぁって思ったんだよ。名前わかんなくても、ちゃんと感じた。それって、あるってことじゃないの?」

――沈黙。

蒼介は、パタン、という小さな音とともに本を閉じた。

「……そういう返し、観測理論的には嫌いじゃないです」

「うわっ、なにその言い方。ほめてんの?バカにしてんの?」

「ほめてます。……たぶん」

彼がふっと笑った気がした。

ほんの一瞬。

いつもどこか遠くを見ているような顔が、少しだけ柔らかくなった。

私はそれを見て、なぜかまた言葉にできない気持ちになった。

「……誰も見なければ、それはないってことになる。そういうのって、ちょっと怖くない?」

私がそう言ったあと、蒼介は少しの間黙っていた。

「それを怖いと感じるのは、たぶん『自分が消えること』に対して本能的に拒絶があるからです」

「そりゃそうでしょ、誰だって怖いよ。消えるのって」

「でも、誰にも思い出されない死って、もうそれなら、最初から『存在していなかった』のと同じなんじゃないかって、たまに思います」

その言葉は、なんの前触れもなく、静かに落ちていった。

私は反射的に返事ができなかった。

外からは、何かの運動部の掛け声が聞こえていた。

窓の外は、もう橙色が滲んでいた。

「……もしかして、誰か、死んだとか?」

聞いたあとで、ちょっと後悔した。

でも、蒼介は驚かなかった。ただ、ごく小さく首を振った。

「いえ。……でも、思い出そうとしても思い出せない顔とか、ありますよね。名前も声も曖昧で、でも確かにそこにいたはずなのに、それがただの気のせいだったみたいに霞んでいくことがある」

「うん……あるかも」

「それが、一番怖いかもしれないですね」

蒼介は、それ以上何も言わなかった。

ただ、静かに目を伏せて、指先で本の角を触っていた。

その仕草が、いつもよりなんとなく子どもっぽく見えた。

私は、「うん」とだけ答えた。

なんて言えばいいのか、わからなかった。


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