第26話: 牙を隠して、夜を越える
ミレイダの町に、変わらない朝が訪れる。
市場には商人たちの呼び声が飛び交い、
路地裏では子どもたちが駆け回る。
石畳をたたく馬車の音と、鍛冶場の鉄を打つ音。
町は、何もなかったかのように息づいている。
僕たちは、その中に紛れ込んでいた。
ただの、若い冒険者たちのふりをして。
ギルドへ通い、依頼を受け、また報告する。
簡単な護衛、荷運び、物資の配達。
どれも危険の少ない、ありふれた依頼だった。
その合間に、僕たちは物資を整えた。
保存食、水袋、簡易の治療薬。
必要なものを、目立たないように、少しずつ。
あからさまに動けば、潰される。
それを、僕もセナも知っていた。
依頼をこなすたびに、ギルド内での信用は積み重なっていった。
ある日、カウンターで渡された証書には、
「プラチナランク昇格」と刻まれていた。
名誉でも、誇りでもなかった。
ただ、逃げるための、小さな道具にすぎなかった。
それでも、周囲の目は確実に変わった。
冒険者たちは僕たちに一目置くようになり、
ギルド職員たちも、無関心を装いながら様子を伺ってくる。
宿へ戻る道すがら、ふと感じる。
背後から這い寄るような気配。
家々の隙間から伸びる、見えない視線。
振り返ることはしなかった。
けれど、肌でわかる。
僕たちは、今も見られている。
だからこそ、焦りは禁物だった。
いつも通りを装う。
怒りも、恐怖も、表には出さない。
牙を隠し、牙を磨く。
それが、今の僕たちにできる唯一の生存手段だった。
セナも、それを理解していた。
市場で小さな果物を選びながら、
馬車宿の前で小さく首を振りながら、
僕の隣で静かに呼吸を合わせていた。
何も言わない。
けれど、心は確かに重なっている。
夜、宿に戻った部屋で、
セナはベッドに背を預け、窓の外を見上げていた。
遠くの空に、うっすらと月が滲んでいる。
それは、まるで泣き腫らした誰かの瞳のようだった。
僕は、荷物を整理しながら、声をかけた。
「……明日、出るよ」
セナは、少しだけ顔を伏せ、そして、ゆっくりと頷いた。
言葉はいらなかった。
もう、互いに知っていたからだ。
ここに居続ければ、やがて潰される。
この町ごと、飲み込まれてしまう。
そうなる前に、動かなければならない。
牙を隠し、牙を磨いてきた。
その牙を、ほんの少しだけ突き刺す時が、来たのだ。
夜の風が、窓の隙間から忍び込んできた。
乾いた冷たさが、肌に貼りつく。
それでも、僕たちは動かなかった。
ただ、静かに呼吸を整えた。
この夜が明けたら、もう後戻りはできない。
けれど、怖くはなかった。
――僕たちは、進む。
それだけだった。
*
数日前から、僕たちは動き始めていた。
表向きには、依頼をこなすただの冒険者。
裏では、脱出のための準備を、着実に進めていた。
市場の喧騒の中を歩きながら、
僕は、目立たぬように乾燥食料を買い集めた。
一度に大量に買うわけにはいかなかった。
それは、あまりにも目立ちすぎるから。
だから、日を分けて、店も変えて、ほんの少しずつ。
パン、干し肉、干した果物。
水袋、保存のきく乾燥スープ。
小さな袋を手に、市場を抜けるたび、
背後に感じる微かな視線に、僕は無言で耐えた。
馬車商人たちの間も、慎重に渡り歩いた。
脱出口となり得る商隊はどこか。
荷台に紛れ込める隙はないか。
金銭で口を封じられそうな者は誰か。
僕は、誰とも目を合わせないように、
世間話を装いながら、必要な情報だけを引き出していった。
セナは、別行動で道具屋に立ち寄った。
小さな包帯を指で撫でながら、
彼女は、遠くの空を眺めるような眼をしていた。
その姿は、
まるで、自分でも気づかぬうちにどこかへ行ってしまいそうで、
僕は、無性に声をかけたくなった。
けれど、呼び止めることはしなかった。
セナは、セナなりに、今を生きようとしているのだ。
それを、邪魔してはいけなかった。
道具屋の奥。
壁にかけられた小さな鏡に、
ふと、何かの影が映った気がした。
誰かがこちらを見ていた――
そんな錯覚を覚えたが、振り返ることはしなかった。
振り返れば、終わる。
僕は、ただ前を向いて、歩いた。
「……ここ、本当に、出られるのかな」
帰り道、セナが小さく呟いた。
声は、風にさらわれそうなほどか細かった。
「……出るしかない」
僕は、短く答えた。
それ以外に、言葉はなかった。
町は、変わらず賑わっていた。
人々は笑い、酒場は歌い、
市場には新しい品物が並び、
子どもたちは駆け回る。
けれど、すべてが、偽物に見えた。
笑いも、歌も、
この町そのものも。
薄皮一枚の下に、
どす黒い闇が蠢いている。
そんな確信が、日に日に強まっていった。
夕方。
僕たちは、ギルドへ向かった。
依頼の報告。
それも、ただの形だけの儀式だった。
討伐対象だったノーネームの一団は、
すでに魂を抜かれた抜け殻でしかなかった。
報告を受けた職員は、
何も感情を見せず、淡々と報酬を渡してきた。
小さな木箱の中には、
銀貨がぎっしりと詰まり、
その下に、数枚の金貨が忍ばせてあった。
相変わらず、異様な額だった。
――口を閉ざせ。
銀貨と金貨は、そう語っていた。
僕は、何も言わずに木箱を受け取り、
セナもまた、何も言わずに隣に立っていた。
ギルドの喧騒に紛れ、
誰にも気づかれないように、
僕たちは、静かに宿へと戻った。
夜は、すぐそこまで来ていた。
*
宿に戻った。
階段を上がり、きしむ床板を踏み、
二階の角部屋に入る。
扉を閉め、鍵をかけると、
世界から切り離されたような静けさが広がった。
部屋は、何も変わっていなかった。
古びたベッドが一つ。
傾いた机が一つ。
油ランプの炎だけが、かすかに揺れていた。
セナは、今日はベッドには座らなかった。
壁際に腰を下ろし、
膝を抱えて、床に寄りかかっている。
小さな肩が、かすかに震えていた。
僕は、何も言わずに荷物を整えた。
食料袋、包帯、水袋。
必要最低限だけを詰め、余計なものは捨てた。
背を向けたまま、
僕は、静かに告げた。
「……明日、ここを出るよ。もう後戻りは出来ない。」
言葉は、短かった。
それでも、部屋の空気は、重たく揺れた。
セナは、返事をしなかった。
けれど、わずかに頷いた気配があった。
それで、十分だった。
油ランプの光が、壁に影を落とす。
その影が、わずかに揺れるたび、
この世界の脆さを思い知らされる。
僕は、目を閉じた。
(牙を隠し、牙を磨いてきた。
今度は、ほんの少しだけ……突き刺す番だ)
窓の外では、
誰も知らない夜が流れていた。
どこか遠くで、犬の鳴き声がかすかに響いた。
けれど、それさえも、もう別世界の音のようだった。
明日、僕たちは動く。
まだ世界は何も気づいていない。
けれど、確かに、旅はもう始まっていた。
静かな夜の底で、
僕たちは、ただ息を潜めていた。
牙を隠したまま、
夜明けを待ちながら。
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