第27話: 滅びの境界を越えて
夜明け前。
宿の部屋に、沈黙だけが満ちていた。
油ランプの芯が焼け落ち、
かすかな煙のにおいが漂う。
窓の外は、まだ闇に包まれていた。
けれど、空気の匂いが変わりつつある。
もうすぐ、朝が来る。
僕は、窓辺に立ったまま外をうかがった。
通りは静かだった。
石畳の上に霧が立ちこめ、
かすれた馬車の音だけが、遠くで鳴っている。
人影はない。
今なら、動ける。
後ろで、セナが小さく荷物を背負う音がした。
何も言わない。
けれど、呼吸のリズムだけでわかる。
彼女もまた、覚悟を決めている。
僕は、短く頷いた。
ドアを静かに開ける。
廊下の床板が、わずかに軋んだ。
一歩、また一歩。
靴音を殺しながら、階段を下りる。
受付には、誰もいなかった。
鍵束だけが、カウンターに無造作に置かれている。
この町も、この宿も、
誰もが見て見ぬふりをしている。
扉を押し開けた瞬間、冷たい空気が頬を打った。
朝靄が、世界を白く曇らせていた。
僕たちは、何も言わずに歩き出した。
通りには、まだほとんど人がいなかった。
市場へ向かう商人たちが、
荷馬車を引いて、ゆっくりと動き始めている。
屋台の骨組みを組み立てる音が、かすかに響いた。
普段なら賑わいに満ちるはずの場所が、
今はただ、かすかな物音だけを抱えていた。
背後から、視線を感じた。
だが、振り返らない。
ここで動揺すれば、すべてが台無しになる。
セナも、無言で歩いていた。
マントのフードを深く被り、顔を隠している。
彼女の小さな背中に、
ただ、ひとつの意志だけが宿っていた。
町の南端、外門へ続く道へ出る。
石畳の隙間から、朝露が滲み出していた。
湿った靴音が、わずかに響く。
門の前には、数人の門番が立っていた。
彼らは、こちらに興味なさげな視線を向ける。
けれど、その無関心さこそが、
この町の本当の姿だった。
形式的な手続きだけが交わされる。
荷物の中身を、上辺だけで確認され、
頷き一つで、通行が許された。
門が、鈍い音を立てて開く。
冷たい空気が、外から流れ込んできた。
僕たちは、ただ歩いた。
一言も発することなく。
振り返ることもなく。
石畳が終わり、泥道が始まる。
振り返れば、
遠くにミレイダの町並みが、
ぼんやりと朝霧に沈んでいた。
けれど、僕は振り返らなかった。
しばらく歩いたところで、
セナが小さく呟いた。
「……こんなに、簡単に、出られるんだね」
声はかすれて、霧の中に消えた。
僕は、答えなかった。
けれど、心の中で呟いた。
(簡単だったんじゃない。
最初から――僕たちは、見捨てられていたんだ)
道の先には、灰色の平原が広がっていた。
まだ見ぬ土地。
まだ見ぬ痛み。
それでも、進むしかなかった。
牙を隠したまま、
僕たちは、世界の裏側へと足を踏み出した。
朝靄の向こうに、
ゾディーラの放棄域が、静かに待っていた。
*
石畳が終わる。
足元の感触が、わずかに変わった。
靴裏が、ぐしゃりと湿った音を立てる。
見下ろすと、そこには泥が広がっていた。
まだ夜明け前の薄明かりでは、
道と沼地の区別すらあいまいだった。
泥の表面には、いくつもの浅い轍の跡が刻まれていた。
荷馬車が通った跡だ。
けれど、その輪郭はぼやけ、
草に浸食され始めている。
轍の中に溜まった水たまりには、
曇った空と、僕たちの影だけが映っていた。
誰かがここを通ったのは、
もうずっと昔のことだったのだろう。
今では、誰も通らない。
誰にも、必要とされない。
世界が、静かに忘れていった道。
一歩、足を踏み出すたびに、
泥がずるりと靴を引っ張った。
靴底には、重たく汚れた泥がこびりつく。
それでも、進むしかない。
泥に沈みかけた轍の跡をなぞるように、
僕たちは歩き続けた。
ほんの少し前まで、
この足は石畳を踏みしめていた。
けれど今は、
崩れかけた世界の上を、
確かに進んでいる。
世界は、僕たちを歓迎しない。
それでも。
牙を隠したまま、
僕たちは、泥の中を歩いた。
朝靄が、遠くの地平をぼんやりと包み込んでいる。
その向こうに、
滅びた土地の影が、かすかに滲んでいた。
*
泥道を進むうちに、道の脇に崩れかけた建物群が見えた。
苔むした石造りの壁は、半ば崩落し、骨組みだけが辛うじて立っていた。
割れて倒れた看板が、土に半ば埋もれている。
そこに刻まれていたであろう文字は、もう読めなかった。
乾いた風が吹き抜けるたびに、破れた扉が、かすかにきしんだ音を立てた。
かつて、ここには人がいた。
子どもたちが笑いながら駆け回り、
井戸の水を汲み、家々の間を行き来していたかもしれない。
けれど今は、すべてが枯れ果て、ただの瓦礫と化している。
井戸は干上がり、底にはひび割れた石しか残っていなかった。
セナが、ふと立ち止まった。
廃屋の一つを見上げるようにして、じっと目を凝らしていた。
小さな指が、マントの裾を無意識にぎゅっと掴む。
何かを言うかと思った。
けれど、セナは何も言わなかった。
ただ、一瞬だけその場に立ち尽くし、それから、静かに歩き出した。
僕も、何も言わずについていった。
泥にまみれた道端で、
ふと、視界の端に何かが引っかかった。
しゃがみ込み、手を伸ばす。
そこには、汚れた布切れが落ちていた。
埃にまみれ、端は擦り切れ、色もかすれている。
それでも、指先に触れた瞬間、わかった。
これは、ただの布じゃない。
誰かが、大切に持っていたものだ。
たとえば、旅のお守り。
あるいは、子どもが抱いていた小さな人形の一部。
持ち主は、もういない。
けれど、この布には、確かに誰かの温度が、かすかに残っていた。
僕は、そっとそれを拾い上げた。
埃を払うこともせず、静かにポケットにしまう。
誰も気に留めない、誰も覚えていない、小さな証。
それでも、僕は知っている。
この世界には、
名前を呼ばれることのなかった存在が、
確かに生きていたということを。
歩き出した靴裏が、
濡れた地面をぬるりと押し込む感触だけが、静かに響いていた
*
太陽は、まだ昇りきらなかった。
灰色の空が、低く垂れ込めたまま、世界を押し潰している。
朝靄は濃く、すべての輪郭をぼやかしていた。
ただ、冷たい湿気だけが、皮膚にまとわりつく。
足元はぬかるみ、靴は泥に沈み込んでいた。
歩くたびに、ぐしゃり、と重たい音がする。
ズボンの裾も、もう原形をとどめていない。
泥と水が染み込み、冷たさだけが、じわじわと肌に這い上がってきた。
それでも、僕たちは、何も言わなかった。
セナも、同じだった。
小さな肩を震わせることなく、ただ、黙って隣を歩いていた。
(世界は、きっと、変わらない。)
心の中で、静かに言葉を置く。
どれだけ歩いても。
どれだけ叫んでも。
この灰色の空の向こうに、答えはないかもしれない。
それでも――
(それでも、僕たちは、名前を守るために歩く。)
それが、この旅の、唯一の意味だった。
そのとき、セナが、ちらりと僕の袖をつまんだ。
言葉はなかった。
けれど、その小さな仕草に、すべてが込められていた。
僕は、何も言わずに頷き返した。
互いに、何も確認する必要はなかった。
朝靄の向こうに、ぼんやりと黒い影が見えた。
崩れかけた城壁。
打ち捨てられた村の廃墟。
草も枯れ、土さえ死んだ土地。
あれが、ゾディーラ放棄域。
誰も望まず、誰も戻らず、
ただ滅びを受け入れた地。
僕たちは、迷いなく歩を進めた。
一歩、また一歩。
生きた証を、背負ったまま。
滅びを知りながら、それでも進むしかなかった。
泥まみれの靴が、境界線を越えた。
世界の裏側へと、
静かに、音もなく、僕たちは沈んでいった。
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