第25話: 夜に、抗う



昼下がりのミレイダの町は、穏やかだった。

石畳の道には、行き交う商人たちの笑い声や、遠く屋台の呼び込みの声が溶け合っている。

陽光はやや傾き、建物の影が道に長く伸びていた。


スイとセナは、人波に紛れるようにして歩いていた。

手には、ささやかな依頼の受注証。

表向きには、ただの「通常依頼」をこなすために動いている――そんな建前を装いながら。


セナは、依頼内容が書かれた羊皮紙を覗き込み、

「あそこの市場、って書いてあるね」

と、小さく呟いた。


スイはうなずき、口元に薄く笑みを浮かべる。

一見すれば、何の変哲もない、若い冒険者たちの姿。

だが――


(……違う)


空気の中に、微かな棘が混じっていた。


耳を澄ませば、行き交う声の隙間に、かすかな気配が紛れている。

肩越しに、視線を感じる。

誰かが、こちらを窺っている。

そんな、皮膚に刺さるような違和感。


それは、すぐに消える。

けれど、また別の場所から、そっと這い寄ってくる。

あたかも、蜘蛛の巣にかかった獲物を、見えない糸で探られているかのように。


セナは、まだ気づいていないようだった。

軽い足取りで、隣を歩いている。

いつもより、ほんのわずかだけ警戒心を緩めて。


スイは、心の中で息を整えた。

焦るな。動じるな。

あくまで、何も知らないふりをして――普通に、振る舞え。


「……こっちだよ」


自然な声で、セナを促す。

市場へ向かう小路を指し、さりげなく進路を変える。


(……見せかけだけでも、“普通”でなければならない)


もしここで、何か不自然な動きを見せれば、

見えない手が一斉に襲いかかってくる。

そんな予感があった。


スイは、心の奥底に小さな刃を仕込むように、

静かに、気配を研ぎ澄ませながら歩き続けた。


――まだだ。

まだ、動く時じゃない。


昼の光は、少しずつ朱を帯び始めていた。





大通りを外れ、細い裏路地へと入った。

昼間でも薄暗いこの通りは、建物と建物の隙間に押し込められたような空間だった。


壁には古い蔦が這い、道端には割れた樽や、荷運びに使われたまま放置された木箱が雑然と積まれている。

人通りは、ほとんどない。


その瞬間だった。


スイの背中に、はっきりと――重たい視線が絡みついた。


(……来たか)


わずかに、足音。

革靴が石畳を踏む、乾いた音。

押し殺した息づかい。

軋む革の音。


それは一つではなかった。

物陰に潜んでいる影が、いくつもある。

どこか、こちらを探るように、様子を窺っている。


ちらりと、視界の端で捉える。

黒ずんだマントに身を包んだ男たち――冒険者風の出で立ち。

だが、剣の柄には手をかけず、歩幅も控えめだ。

すぐに襲いかかってくる気配はない。


(監視……か)


スイは、心の内で結論を下す。


追跡しているが、あからさまな敵意は向けてこない。

こちらが何をするのか、どこへ向かうのか――それを見極めようとしている。


セナは、まだ気づいていない。

だが、異様な空気を肌で感じ取ったのか、スイを見上げた。


その瞳に、かすかな不安の色。

子供のように、寄り添いたがる心が、そこにはあった。


スイは、笑った。


ほんの小さく、なだめるように。

それだけで、「何も異常はない」と、そう見せかける。


「……大丈夫だよ」


静かな声で、囁く。

嘘ではない。

けれど、本当でもなかった。


彼は知っていた。

今、ここで騒げば、全てが終わる。


スイは足を止めない。

普段通り、裏路地を歩き続ける。

角を曲がるたびに、影がついてくる。

足音が、重なり、間合いを測ってくる。


(……泳がせるしかない)


敵を確かめるには、あえて引きつけるしかない。

ここで排除すれば、また別の追跡者が現れるだけだ。

本当に嗅ぎつけているのは誰なのか――それを突き止めるために。


セナの手が、そっとスイの袖を握った。

震えるような、小さな力で。


スイは、それを受け止めながら、また笑った。

かすかに、けれど、確かに。


足元には、影が伸びていた。

二人の影に重なるように、見えない誰かの影も、静かに迫っていた。


町は、何も変わらない顔をしている。

けれど、水面下では、確実に異変が始まっていた。


それを知っているのは、まだスイだけだった。


――


(夜まで、持たせる)


スイは、そう心に決めた。


 


陽は、ゆっくりと西へ傾いていく。





夕暮れを越えて、夜が町を支配していた。


僕たちは、宿に戻ってきた。

ぼろぼろの木製の階段を上がり、二階の角部屋。

鍵をかけ、扉を閉めると、そこはまるで外界と切り離された小さな箱のようだった。


古びたベッドが一つ、きしむ机が一つ、かろうじて灯る油ランプが一つ。

それだけしかない、簡素な部屋。


狭い空間に閉じ込められると、昼間からずっと張りつめていた緊張が、皮膚の裏で疼くようにうずいた。


……視線は、まだ、僕たちから離れてはいなかった。

たぶん、すぐ外にまではいない。

けれど、この町のどこかで、確実に僕たちを追っている者がいる。

そんな気配が、夜の空気に溶けていた。


セナは、何も言わず、ベッドに腰掛けた。

小さな手でスカートの端をぎゅっと握りしめて、俯いている。


油ランプの灯りが、彼女の金色の髪を、くすんだ色に染めていた。


僕は、何も言えなかった。

言葉なんて、きっと、もうセナには届かない。


しばらくの沈黙のあと。

セナが、ぽつりとつぶやいた。


「……ここにはもう、居場所なんてないんだね」


静かだった。

まるで、自分に言い聞かせるような、かすかな声。


胸の奥を、鋭い棘が刺した。


(そんなこと、言わせたくなかった)


それでも、僕には否定する言葉が見つからなかった。

事実だからだ。


この世界に、僕たちの居場所なんて、最初からなかった。


孤児院を出たときも。

町をさまよったときも。

ギルドに登録しようとしたときも。


誰も、僕たちを迎えてはくれなかった。


名前を呼ばれることも。

役割を与えられることも。

あたたかい手を差し伸べられることも――


ただの一度も、なかった。


静かな夜。

壁の向こうでは、遠く犬の吠える声がかすかに響いている。

その音さえ、どこか他人事のようだった。


セナは、僕のほうを見なかった。

俯いたまま、小さく震えていた。


僕は、ゆっくりと目を閉じた。


そして、心の奥底で、言葉を紡ぐ。


 


 ――それでも。


 ――僕は、まだ、終わらせない。


 


この世界が、

名前を奪い、

存在を否定し、

命を、魂を、道具のように扱う世界であっても。


僕は、抗う。


奪われた名前たちを、

消された存在たちを、

踏みつけられた祈りたちを――


この手で、取り戻すために。


油ランプの火が、ふと、揺れた。

小さな、けれど確かな意志が、暗闇の中でかすかに燃えていた。


 


(――まだだ。

 まだ、ここで終わってたまるものか)


 


僕は、静かに、誓った。


誰にも届かない夜の底で。

たった一人で、

それでも確かに、生きることを。


――


 


外では、夜風が、低く唸っていた。


 

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