第6話『夢破れて』
夢破れ、未だグロッキー状態の俺だったが、悲嘆に暮れている場合ではないことはわかっていた。
手早く
「ひとまず、ここを離れよう。別のモンスターが来るかもしれない。歩ける?」
「は、はい。……あっ!」
首を縦に振ったシエラだったが、一歩踏み出した瞬間、カクンと膝をついてしまった。
「すみません、安心してしまって、力が……」
「気にしないで。でも、悪いけど……」
「ひゃっ!」
俺はシエラの膝裏と背中に腕を回し、お姫様抱っこの体勢で持ち上げた。
うーん、軽い軽い。まるで羽根のようだ。
シエラの体温が俺の手のひらに伝わってくる。
戦いの興奮でほんのりと温かい彼女の肌が、俺の甲殻を通して感じられた。
いい匂いもする。石鹸なんてないはずなのに、なぜだか清楚な香りがふんわりと漂っていた。
きっと彼女自身の体臭なのだろう。これが王族の血筋というものなのか、それとも彼女だけの特別なものなのか。
ふと気がつくと、シエラは俺の首元をじっと見つめていた。
そうか、こんなに近くで俺の顔を見るのは初めてかもしれない。昆虫の特徴を持つ俺の顔は、人間から見れば異形そのもの。
嫌悪感を抱かれても仕方がない。
だが、シエラの瞳には恐怖も嫌悪もなく、むしろ安堵のような色が浮かんでいる。
「飛ばすから、掴まって!」
シエラが首もとにしがみついたのを確認してから、走り出す。
彼女の細い腕が俺の首に回され、その瞬間、胸の奥に何かが込み上げてきた。
こんなに誰かに頼られるなんて、前世でも今世でも初めてかもしれない。
守らなければという想いが、これまで感じたことのないほど強く湧き上がる。
ビュンビュンと背後へ過ぎ去っていく風景。
少し強く地面を蹴るだけで、自分でもびっくりするくらい加速できる。
この階層なら、もう俺の敵はいなさそうだな。
斥候を出し、あらかじめ見つけておいた休憩地点――隠し通路から入れる、泉のある小部屋――に素早く滑り込むと、俺はシエラを下ろした。
「ひっ……! あ、アリが……」
「安心して。この子たちは、俺の眷属だから」
そこでは、すでにハキリアリたちが農業を開始していた。
洞窟内で見つけた植物の葉を苗床に、キノコ類を栽培し、せっせと水やゼリー状の養分を与えている。
さすがに、まだ時間が経っていないので、食べられるほど成長はしていないが。
俺の言葉に、いちおう安心はしたものの、やはり虫への忌避感があるのだろう。
ハキリアリたちとは少し距離を置いて、地面に座るシエラ。
まあ、スニーカーくらいあるアリがうぞうぞ這い回っていたら、誰だってこんな反応になる。
俺は親だから可愛く見えているだけだ。
仕方ない。
「そこの泉は飲めるから、喉乾いたら飲んで。お腹空いてるでしょ? なにか食べもの探してくるよ」
気を取り直して、部屋の外へ続く扉へ向かおうとした俺の指を、シエラがそっと掴んだ。
「ま、待って」
「?」
「少しだけ……そばに、いてくれませんか」
そうささやく彼女の声は、今にも泣き出しそうだった。
あんな目に遭ったあとだ。
一人になるのが怖いのだろう。
俺はシエラの隣に腰を下ろした。
なにか言ったほうがいいような、言わないほうがいいような、なんともいえない沈黙が流れる。
……こういうときって、なにを話したらいいんだろう。
俺はない知恵を絞り、無難な慰めから入ることにした。
「……辛かったね」
「……はい」
消え入るように、シエラがつぶやく。
「ごめん。俺が、もっと早く来れてたら、あの人たちも、助けられたかもしれないのに」
「……いえ。あなたに落ち度などありません。悪いのは、私です。私がもっと強ければ、皆を……ベンヤミンを……っ」
そのあとは、言葉にならなかった。
感極まったのか、シエラは声を出して泣き始めてしまった。
俺は、泣きじゃくるシエラの背中を、そっとさすってやることしかできなかった。
しばらくして、シエラは顔を隠したまま立ち上がると、泉でじゃぶじゃぶと洗顔を始めた。
「……すみません。恥ずかしいところをお見せしてしまって」
「いいよ。気にしないで」
上品な仕草で目元をぬぐいながら、再び俺の隣に座るシエラ。
目鼻から出たものは水で洗い流せたようだが、まだ泣き腫らした目が赤くなっていた。
「名前、聞いていいかな」
そう尋ねると、シエラは悩むように視線をさまよわせていたが、やがてまっすぐに俺の目を見た。
「私はシエラ。アルカディア王家の血を引く者です」
やっぱりか。
しかし、育ちがよさげだとは思っていたが、まさか王族だったとは。
……えええ! 王族だったの!?
背筋が寒くなるような思いがし、俺はとっさに平伏した。
「すすす、すみません! タメ口なんか利いてしまって、俺みたいな庶民が……!」
「いえ! お気になさらず! あなたは私の命の恩人です! ……それに」
シエラはそこで言葉を切ると、自嘲気味に唇を歪めた。
「血を引くといっても、妾の子ですから」
「……なるほど」
よくわからないけど、微妙な立場ってことか。
俺はぽつりぽつりと語るシエラの出自に耳を傾けた。
「好色な王が、立場もわきまえず、下女に
母は生まれたばかりの我が子を抱くことさえ許されず、はした金を持たされて厄介払い。その後は野垂れ死んだと聞かされています」
まるで他人事のようにシエラは話す。
「幸運なことに、私にはユニークスキルが宿っていました」
「ユニークスキル?」
「血縁などのつながりがある、固有の一族にしか発現しないスキルのことです。
これがなければ、私も今ごろは処分されていたに違いありません。
私のスキル――【
ゆえに、王宮魔導院のお口添えをいただき、王のご慈悲によって生存を許されました」
生存を
まるで殺されて当然みたいじゃないか。
俺は王国の連中にイライラしてきた。
「ですから、私は、この卑しい身に慈悲をお与えくださった父上――偉大なる王の限りない御恩には、感謝の念に堪えません。
たとえ、この身が尽き果てようとも、王国の繁栄のためならば喜んで捧げましょう。
それこそが、母の罪を背負って生まれた私に与えられた、唯一の贖罪の道なのですから」
「そんなことはないと思う」
「えっ?」
あまりにも自分を卑下するシエラに、つい、本音が出てしまった。
シエラはきょとんとした様子で、俺のほうを見た。
「ぶっちゃけ、この世か……
「そのようなことはありません! 私がこれまで生きてこられたのは、ひとえに偉大なる父王のおかげなのですから!」
激しい口調でそう叫ぶシエラからは、悲壮感さえあった。
うーむ、俺からすると、完全に洗脳されてるんだけど、現代日本の常識基準で、頭ごなしに否定するのもよくないよな……。
俺は考えた末に、口を開いた。
「俺も、シエラみたいな家で育ったから。少しだけ、気持ちはわかるよ」
「……そうなのですか?」
「言っても、庶民の生まれだから、比べ物にならないと思うけど……俺、物心ついたときから、親に万引きの手伝いさせられてたんだ」
「万引き?」
「あー、盗みね。子どもなんだから、親の言うことには従うのが当然って言われて。
毎日奴隷みたいにこき使われて、親は盗んだもんを自由に飲み食いしてるのに、俺は残飯しか食わせてもらえなくて。
それでもそれが当たり前って思ってたんだ。だって、ほかに家族ってもんを知らないんだから」
思い出したくもない、忌まわしい過去。
誰にも打ち明けたことのない、人生の汚点を、俺は自然とシエラに打ち明けていた。
「でも、中学のときに、親が警察……えーと、憲兵? みたいなのに捕まって、俺は叔母さんに引き取ってもらったんだ。
で、初めての晩飯のとき。びっくりしたよ。
子どもなのに、親と同じもん食っていいっていうんだから。
思わず『これ、いくらですか?』って叔母さんに聞いたら、泣かれちゃったっけな。うちのバカ兄貴がごめんってさ」
あのとき。
抱きしめられながら、首筋を伝ってきた叔母さんの涙の熱さは、今でも覚えてる。
あれが、俺が初めて感じた、親の愛だった。
「つまり、なにが言いたいかっていうと、子どもの常識なんて、親次第ってこと。
ごめんね、急に自分語りなんてしちゃって」
ああ、たった一言で済む程度の話を、こんなに長々としてしまった。
こっ恥ずかしい。
顔から火が出るような思いをしたが、シエラは真剣な面持ちでうなずいてくれた。
「……いえ。話していただき、ありがとうございます。
とても、お辛かったでしょうね」
「まあ。でも、シエラほどじゃないよ。別に殺されはしなかったから。殺されかけたことは、ちょいちょいあったけど」
「…………」
深刻そうに黙り込むシエラ。
やべ、言わなくていいことまで言ってしまった。
「その、アリカは、ご両親のことを、どう思っているのですか?」
長いこと考え込んでいたシエラだったが、やがてゆっくりと聞いてきた。
それに対し、俺はあっけらかんと答える。
「そうだね。ぶっ殺してやりたいってのはもちろんあるけど、あんな奴らのために人生台無しにするのもくだらないし。
さっさと忘れて人生楽しもう! みたいな?」
ま、そんな矢先に死んだんだけどね、俺。
すると、シエラはくすりと笑った。
初めて見る、彼女の笑顔に、思わず胸が高まるのを感じる。
「あなたは……とても、自由な人なんですね」
「自由?」
オウム返しに聞き返すと、シエラは「ええ」と言って、どこか遠くを見つめた。
「過酷な幼少期を過ごされたというのに、その過去に縛られていない。
私も、あなたのように、なにものにも囚われず生きてみたい……」
それは、ただのお世辞や社交辞令でなく、彼女の本音であるような気がした。
だから、俺はこう言った。
「生きてみたら? ここで」
「……え?」
シエラが目を丸くしてこちらを向いた。
驚いた顔も可愛いな。
「いったんね? いったん、ここで、王国とかそういうしがらみから離れて暮らしてみてさ。
自分を見つめ直してみるのもいいと思うけどな」
「…………」
戸惑い、答えを出せずにいるシエラのもとへ、一匹のハキリアリが近寄っていく。
一瞬、びくっとして身を引きかけたシエラだったが、ハキリアリは彼女のブーツのつま先を触角でつつくだけだ。
意を決したように、シエラはハキリアリに手を差し伸べる。
「……ふふ」
自らの手のひらに載って、顔を前足で拭いているハキリアリを見て、シエラから笑みがこぼれた。
「では、しばらくの間、ご厄介になってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
アリを地面に下ろし、差し出されたシエラの手を、俺は固く握った。
その時、シエラの手のひらの感触が俺の胸を打った。こんなにも小さく、柔らかな手。
それでも、彼女は自らを責め続け、王への忠誠を誓い続けてきた。
俺は改めて誓った。この人を、絶対に一人にはしない。
笑顔を奪う者があるなら、どんな相手だろうと立ち向かってやる。そう心に決めたのだった。
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