土筆のおひたし

島本 葉

土筆のおひたし

 春の風がたんぽぽの綿毛のように真っ白な母の髪を撫でていった。急な坂道をぐいっとハンドルを握りしめて押していく。しっかりした重みを感じながらも、車椅子に座った母は思っていたよりもずっと軽い。

 登りきると小さな川沿いの散歩道が続いていて、柔らかい風が汗ばんだ俺の首筋をくすぐっていった。

「暖かいねぇ」

「そうだね」

「ごめんねぇ。のぼり坂、大変だったでしょう」

「いや、大丈夫だよ」

 母は少し振り返るようにして話しかけてくる。一方の俺は、ぼんやりと母の輪郭を捉えるにとどめて歩みを進めていく。

 中学生くらいから数年、母と目も合わせない時期があった。何か話しかけられるたびに「うるさい」とか「わかってる」などと言い返し、訳の分からない苛立ちをぶつけていた。「うざい」くらいは平気で口にしていた記憶がある。たぶん相手は誰でも良かったのだ。思春期特有のものだと言えばそれまでだが、当時の母の表情がどうしても思い出せない。

 だから今、車椅子を押しながらのこのやりとりが、穏やかなものなのか、取り返しのつかない時間の残響なのか、俺にはまだ判別がつかないでいた。


 妹から電話があったのは、まだ寒い三月の頭だった。母が転倒して骨折したというのだ。歩くことができない年老いた母が一人で生活するのは難しいという話だった。

「だからお兄ちゃん、しばらく帰ってきてもらえないかな」

 それはお願いのようでいて、半ば命令のようだった。結婚して家を出た妹は、実家にほど近い距離に住んでいて、これまでも頻繁に母の様子を見てくれていた。しかし、小さな子どもを二人抱え、さらに動けない母の面倒を見るというのはさすがに難しい。一方の俺は隣県で妻と娘と暮らしているが、娘も高校生になっているし、仕事もネットがあればどうとでもなる。案の定、妻と娘からは何の反対も出なかった。

 今さら母と一緒に暮らせるのだろうか。そんな誰にも漏らせない不安を抱えて、俺は実家に帰ってきたのだった。

 やってみると、母との二人での暮らしは思ったよりも上手くいっていた。料理をする手つきが怪しかったり洗濯物の畳み方が大雑把で、様子を見に来た妹や姪たちに揶揄われたりするのも、回を重ねるごとに慣れてきたように思う。

 母はというと、一日の大半をリビングで過ごしている。俺の手を借りることに恐縮し「ごめんねぇ」と口癖のように繰り返すものの、テレビを観たり、パズル雑誌を開いてはうんうんと唸ったり。俺の知っている母のままの暮らしぶりのように感じていた。

 料理や掃除など、細々としたことはもちろん俺の担当だった。不慣れではあったがなんとか対面を取り繕うくらいはできていた。そうして、これらのことをずっとやり続けている母に、妻に、妹に対し改めて畏敬のようなものを感じ、思わず姿勢を正したのだった。


 昼食のあとに川の端の散歩道を歩くのは、この暮らしが始まったときからの日課だった。借りてきた車椅子に母を座らせて三十分ほど。いつの間にか気候も緩んで、昨日からは上着も必要がなくなった。背中越しに見る母の首筋もすこしこざっぱりとしている。

 しばらく歩いていると、右手の土手に土筆を見つけた。さらに注意して見てみると、川へ下っていく斜面にいくらか群生しているようだった。

 真っ白な母の頭も同じ方を向いている。

 俺も、母も土筆を見つめていた。

 懐かしい。

 遠い昔、朧げだけれど土筆を摘んだ記憶があった。小さな補助輪のついた自転車のカゴにビニール袋いっぱいの土筆。どこでだったか、誰とだったか。

 あれは母との思い出だったのか?

 だとすると、母の胸のうちにもその時のことが想起されていたりするのだろうか。

 そっと車椅子を土手に寄せると、母が身動ぎして真っ白な頭が揺れた。

 俺は足元に生えていた土筆を根元からつまんでみた。ひんやりとした柔らかい茎の触感が指先に伝わってくる。野草を触るのなんて何十年ぶりのことだろうか。しゃがんで地面が近くなったことで、土と草の匂いを感じた。この匂いは記憶にあった。少し力を込めると、ぷつりと根元からちぎれた感触。

 何も言わずに摘んだ土筆を手渡すと、母は穂先を指で弾く。つんと飛んだ胞子が、春の風に混じった。

「頭が開いてきてるね。こうなると、もう美味しくないんだよ」

 かつての土筆取りは、やはり母との思い出だったのだろう。新聞紙を広げて、摘み取った土筆の茎から袴を外していく。うまくいかなくて、柔らかい茎が折れてしまったりして。そうやって、確かに母が作った土筆のおひたしを食べた事があった。

 青い小さな小鉢に盛り付けられた土筆のおひたし。

 話題にしたことすらないが、都会育ちの妻は土筆を食べたことがないかもしれない。もちろん娘も。

 俺は注意深く斜面を降りて身を屈めた。

 目の前には力強く生えた土筆たちがゆらゆらと頭を揺らしている。

「ちょっと取って帰ろうか」

 あのときの土筆のおひたしの味は、幸いにも覚えていない。


 <完>

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土筆のおひたし 島本 葉 @shimapon

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