第30話 僕の金糸雀

「いやあ、チャーリー先生。本当に素晴らしいです。売れ行きも上々ですよ!」


 三白眼の編集が明るい声で言う。もみ手でにこやかに微笑んでみせる。よくもまあ、人はここまで変わるものである。


「ありがとう、ございます」


 なお、今日はきちんと応接間で相手してもらっている。まともに原稿も見てもらえなかった頃からすれば、自分もえらい違いだ。


 あれからシャルロッテは書き変えた『金糸雀と王様』を出版社に持ち込んだ。


 どうせこれもだめだろうと思っていた。その場でいつも通りに編集はぺらりと興味なさそうにシャルロッテの原稿をめくって……少しずつ目の色が変わっていった。


『チャーリー先生。いい文章を書かれるようになりましたね。以前とはまるで、別人のようだ』


 彼は全てを読み終えてから居住まいを正し、そう言った。


『これを出しましょう。きっと、いい本になりますよ』


 そうして、シャルロッテははじめて自分の本を出すことができた。ほどほどにまとまったお金も手に入った。リチャードが最後に紹介してくれた家庭教師の職もある。もう少しすれば小さな家であれば借りられそうだというところまできた。


「次はどんな話を書かれますか? 何か構想がありますか。お聞かせてください!」

「そうですね……」


 ただ急なことに実感が湧かない。ここに前に持ち込んでから、それほどの月日が経ったわけではない。


 シャルロッテはあくまでシャルロッテだ。わたしはわたし以外の、何者でもない。

 もし、少しでも変われたのだとしたら、リチャードがいたからだ。


 ずっと自分の文章は自分だけのものだと思っていた。己の書いたものだけが、妹にも誰にも奪われることのないものだった。


 けれど、違う。

 彼が、シャルロッテにこれを書かせてくれた。


 わたしが自分の言葉だと思っていたものは全て、わたしを取り巻く人々がくれたものなのだとシャルロッテはやっと気が付いたのだった。


「あ、そうだ。これをお渡ししないといけなかったんだ。つい、先走ってしまって」


 編集は、きれいにまとめられた封筒の束を取り出した。先に編集が内容を検めたのだろう。封が切られている。


 どれにも『チャーリー先生へ』と自分の名前が書いてある。


「先生宛のファンレターです。どれも熱意のこもった感想ですよ」


 それはひとつ、自分の書いた物語が誰かに届いたことの証左のようだった。シャルロッテは感慨深くそれを見つめる。


「話のテイストからしても、女性の読者が多いですね」


 その時、見つけた。


「あ、それはですね。お子さんが書かれたものですかね? 幅広い層の読者に読まれてるって感じですよね!」


 子供が引いたような歪んだ線。ひどく力を込めて書かれたことが分かる。

 シャルロッテはこの文字に見覚えがあった。


 感想はただ一言、こう書かれていた。


『君の声が聞こえた』


 差出人の名前のところの名前を見て、シャルロッテは思わず息を呑んだ。


 なかなか上達しないと言っていたのは本当だった。最後のdがまたbになっている。


『Richarb』


 誰かに書かせることもできただろう。けれど、彼は間違いなく自分でこの手紙を綴ったのだ。


「すみません。急用ができたので、本日はこれで失礼いたします」


 その手紙を持ってシャルロッテは、立ち上がった。

 行かなければならない。


 どうしても、リチャードに会って話をしなければならない。


「え、ちょっと、チャーリー先生!?」


 気が付いた時にはもう、出版社の階段を駆け下りてシャルロッテは走り出していた。打ち合わせの前に外したストールをくるりと巻き付けて、金のピンを着ける。


 どこへ向かおうか。やはりカールトンの屋敷を訪ねてと考えたところで、ふと思いついた。


 それはきちんと説明できる根拠があるようなものではない。ただ、そんな気がしたというか呼ばれたような気がしたのだ。その気持ちに突き動かされるがままに足を動かした。


 行きつけの本屋。この街で一番好きな場所。


 さあ、入ろうかと思ったところで春先の風がストールを攫おうとする。けれどきちんと留めてあるから大丈夫。そう思った時だった。


 一際強い風が吹いてシャルロッテはきゅっと目を瞑る。よろめいた肩に、そっと触れる手があった。


 その腕は確かにシャルロッテを抱き止めてくれる。


「素敵なストールですね。よくお似合いですよ」


 穏やかに響いた声に、ゆっくりと目を開ける。

 背が高くて、シャルロッテには彼の首元と金色の髪しか見えなかった。


「ええ。選んだくれた人が、素敵な方なので」


 ずっと、もう一度会えたら何を言おうか悩んでいたのに、するりと言葉が突いて出てきた。


「……もう持っていないかと思っていたんですけどね」

 見上げれば、男は僅かに気まずそうに微笑んだ。


「妹が勝手に借りていったのを返してくれたんです。だから、ちゃんと大事にしています」


 これも素直に言うことができた。ずっと口に出してしまえば負けだと思ってたのに、そんなことはなかった。


「なるほど」

 すると、リチャードは納得したようにひとつ大きく頷いた。


「あの、お手紙ありがとうございました。わたし、それをどうしても言いたくて」

「いえ。本当に素晴らしいお話だったので」


 そして、二人の間に沈黙が落ちた。

 シャルロッテにはどうしても気になっていることがあった。けれど、それを直截に訊ねていいのかは分からなかった。


 互いに探るような目だけが交差する。

 口火を切ったのはリチャードだった。


「僕がどうやって読んだかが気になってるんですよね?」

「は、はい」


「三日間自分で頑張って、最初の方は前に君が読んでくれたからなんとか読めました。でも、後半はほとんど内容が入ってこなくて」


 読めない苦悩を彼はもう隠そうとはしなかった。ただ訥々とリチャードは語る。


「けれどどうしても知りたかった。君があの王様と金糸雀にどんな結末を用意したのか。だから、一回エドガーに頼んで読んでもらいました」


 やはりそうだったのか。あの家令にも読まれていると思うと途端に顔が熱くなる。名前も知らない多くの人があのお話を読んでいるというのに。


「最初はなんの嫌がらせかなって思いました。僕がまともに字が読めないのを知っていて、わざわざ物語にしてくるだなんて」


 皮肉の滲んだ物言いは、完璧に見えていたリチャードのものとは少し異なる。けれど、それが逆に彼らしかったのも事実だ。


「けれど、読んでもらったら違った」


 緑の目がすっと細められる。満開の花が零れるように微笑んで、リチャードは言った。


「なんだろう。びっくりするほどがいたんですよね」


「わたし……」

 当然といえば当然だ。あれは紛れもなくシャルロッテの心の内から出てきたものなのだから。


「そしたら、無性に君に会いたくなりました」


 変ですかね、とリチャードが照れたように笑うからシャルロッテは首を横に振った。


 わたしもずっと、あなたに会いたかった。


「立ち話もなんですから、もし良ければあちらの喫茶でお茶でもいかがですか?」

 リチャードが指さしたのは本屋の向かいのテラス席のある喫茶。


「いいですね。わたし、あそこのチョコレートケーキ大好きなんです」


 話したいことが沢山ある。言えなかったことも沢山ある。紅茶二杯では足りないぐらいに。


「それでは」


 差し出された手を握って歩き出したところで、ふと思い出したようにリチャードが言う。


「ああ、そうだ。僕も一つ聞いておきたいことがあったんです」


 緑の瞳がきらりと煌めく。これは多分何か思いついている顔だ。

 訊ねてしまうのには恐ろしさもあるのに、そうせずにはいられない。


「なんでしょう」


「あの結末だと、僕もキスしてもらえるってことでいいんでしょうか、チャーリー先生」


「なっ……!」

 シャルロッテは慌てて両手で顔を押さえた。それでも赤くなった頬は隠せない。


「冗談です。物語は物語ですからね」


 いや、でもそういうつもりで書いたことは確かだ。こちとら真剣なのだ。そんな風ににこにこと微笑まれたら不本意極まりない。


「リチャードさん」


 立ち止まって、きゅっと大きな手を引いた。神妙な顔をしてシャルロッテはリチャードを見上げた。


 一歩近づいて背伸びをする。すべらかな頬に両手を当てて一つ息を吸った。


「望むところです」


 自分の心は全て、あの物語の中に置いてきた。金糸雀の想いはそのまま、シャルロッテの想いだ。


 ただ全ては想像のことでシャルロッテは実践してみるのはじめてである。


 人間の男に自ら口づけるなんて地平は、今の今までシャルロッテには存在しなかった。


 喧騒も風の匂いも降り注ぐ光も、全ては遠くのことのようになる。ただうるさいばかりに高鳴る己の心臓の鼓動だけが聞こえる。


 もう、どうにでもなれ。


 そっと顔を近づけて、やっとその唇に触れるかと思ったところで目を閉じた。

 けれど、それはいつまでもたっても触れなかった。


「シャルロッテ」


 代わりに吐息が耳に触れて、なぞるようにゆっくりと、リチャードはこの名を呼んだ。


 ぎゅっと抱き寄せられて、シャルロッテは弾かれたようにぱっと目を開ける。


「ああ、やっと見つけた。探したよ」

 男は悠然と微笑んだ。


「僕の金糸雀」


 驚いて零れた吐息ごと全部、奪われる。乞うようなあたたかさが、繰り返し触れる。


 長い睫毛を伏せる彼の肩越しに、揺れるペールピンクのストールと青い空が見えた。


 こんなにも簡単なことだったのかと、シャルロッテはひとりごちた。


 世界は知らないことばかりだ。

 けれど、今はただこの人がいればいい。


 シャルロッテは幸せな口づけに酔いしれるように目を閉じた。

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