後日談

第1話 祖父の遺言状

「この黄色のものと水色のもので迷っていて」


 居間で少女のように小柄な女は、ドレスの見本の布地を二つ並べてみせる。どうやら婚約披露の時に着るドレスを選んでいるようだ。


「なるほど」

「リチャードさんはどちらが似合うと思いますか?」


 そこで彼女は眉を下げて、弟を見上げた。

 そんなこと訊ねるまでもなく分かるだろうに。


「どちらも君によく似合うと思います。両方着ませんか?」


 ほうら、そうくると思った。

 リチャードはこういう時絶対に外さない。にこにこと微笑んでその実、絡めとるように相手を虜にしてみせる。


 案の定、言われた婚約者――シャルロッテはぱっとその黒い瞳を見開き、頬を赤く染めた。こういう離れ業はパトリックには出来ないことなので、密かに一目置いているところではある。


 しかしながら。


「おい、人を呼びつけておいてその様はなんだ。俺はお前らがいちゃいちゃしているのを見に来たわけじゃないんだぞ」


 そう言うと、リチャードは一瞬むっとした顔をした。この弟が考えていることを顔に出すのは珍しいことだ。

「約束より早く来たのはそっちじゃないですか」


 それはそうなのだが。だからといって、たかだが五分十分早く来ただけで昼間からこんなにいちゃついているとは思わないじゃないか。


 小さな手がくいくい、とリチャードのジャケットの袖を引っ張る。弟はそれを見て、諦めたように大きく溜息を吐いた。


「まあ呼んだのは僕ですしね。では、書斎で話しましょう」


 愛しの婚約者に「またあとでね」と微笑んで、リチャードはパトリックを書斎へと誘った。てっきり彼女も同席するものだと思っていたのだが。


 リチャードと二人きりで離すのは、少々気まずいところがある。パトリックは、二つしか歳の変わらないこの弟と近しくして育った。けれど、跡継ぎやら家業やらが絡むと弟との関係は途端にややこしくなってくる。


 差し向かいでローテーブルを挟んでソファとカウチに腰掛ける。リチャードがひとつ頷くと、恭しく一礼したエドガーを一通の封筒を持ってきた。


「兄さんにお見せしたいのはこちらです」

「なんだ、これは」


「見れば分かりますよ」


 裏返してみると、カールトン家の封蝋が押されている。

 差出人の欄の大胆だが美しい筆致には見覚えがある。間違いない。これは祖父の字だ。


「おじい様の遺言状です」


 リチャードは静かに膝の上で手を組んで言った。

「兄さんには今から、これを読んでいただきます」






 祖父は早くに父に家督を譲ったが、その後もその権力は隠然と我が家に影響を与え続けた。父もある程度は頭が切れるが、それでも祖父には遠く及ばない。誰もが関心を持っていたのが、その次の当主の座――つまりパトリックとリチャードのどちらが跡を継ぐのかということだった。


 祖父は手持ちの屋敷や財産については詳細に記載された遺言状を残していたが、跡目については何も書いていなかった。ゆえにこの問題は今も宙ぶらりんのままである。


「お前、どこでこれを」

「おじい様がある時、僕にふらっと預けて行かれました。中は見ていません」


 言われるまでもなく、封蝋を見ればそれは明らかだ。


「僕が読みたくなった時に読めばいいと、おじい様は仰っていました」

「だからってなあ」


 祖父が亡くなってからもう八年になる。もっと早くやりようはあっただろうにというのと、どうして今更という思いが交差する。


「僕では読むのに時間がかかるので、兄さんに読んでもらいたいんです。お願いできますか」


 そう言って、リチャードは長い指でそっと封筒を撫でた。すらりとした手だが、その手は自分と変わらぬ大きさの男のものだ。


 わざわざ見なくても内容は大体察しがつく。きっとリチャードを跡継ぎに指名すると書いてあるのだろう。


 我が家での祖父の言葉は、もはや神の言葉に等しい。

 これで全ての決着がつくのだろう。それはずっと、自分が望んできたことだ。


「分かった」


 パトリックが封筒を手に取ると、控えていた家令がそっとペーパーナイフを差し出してきた。しゅっとそれを走らせて、封蝋を剥がす。


 折りたたまれた便箋を広げて、すっと背筋を伸ばす。一度目を閉じて、大きく息を吸った。


 もう一度目を開けて、見えるものをそのまま口にした。


「『ダニエルの次はパトリックを跡継ぎとして指名する。リチャードはそれをよく助けるように』」


 そして、自分が読み上げた内容に、自分が一番驚いた。


「……っておい、なんだこれは!」

「そのままの意味だと思いますが」


 対して、目の前のリチャードは落ち着き払っている。まるでそう書いてあると知っていたかのように。


「そこまで驚くことではないでしょう。兄さんが適任ですよ」


「けどな」

 弟は祖父の大のお気に入りだったはずだ。それなのに、どうして。


 パトリックの疑問を汲み上げたように、リチャードは静かに言った。


「おじい様の早くに亡くなった弟は、僕と同じで、読み書きが苦手だったそうです。だから、弟にしてやれなかったことを僕にしてくれたんだと思います」


「どうしてそれを早く言わなかった」


「嫌だったんですよ。できないことを理由に可愛がられていたと認めるのが」

 それは、弟がはじめて漏らした本音の一端だった。


 パトリックはもう一度、便箋を見つめた。わずかに滲んだ祖父の字を、そっとなぞってみる。


 弟は、真の意味でこれを読むことは適わない。

 その上で、リチャードがこれを自分に読めと言った意味はなんだろう。


「……お前、この内容を俺が改ざんして読み上げるとは思わなかったのか」


「もちろん、思いましたよ」

 取り繕うこともなく、弟はすんなりと言った。


 そうだ。パトリックがリチャードなら、当事者の兄に読ませるなんてことはしない。


「シャルロッテに読ませるとか、もっと他にもあっただろう」

 婚約者の名前を呼んだら、リチャードは顔を顰めた。


「気安く彼女の名前を呼ばないでください。あと、もうこれ以上僕らの問題にあの子を巻き込みたくない」


 なんだって大したことのないように見せる弟が、露骨に独占欲をむき出しにしてみせる。それほど大切だということなのだろうが。


 弟はその後しばらく俯いて、膝の上の自分の手だけを見つめていた。そして、おもむろにその手をぎゅっと握りしめた。


「それにこれは、兄さんに読んでもらわなきゃいけないものなんです」


 垂れ目がちなリチャードの目が、パトリックを捉える。自分と同じ色の瞳は、確信を持って輝いた。


「おそらくおじい様は、僕が兄さんに読んでもらってもいいと思えたら、兄さんが跡を継いでいいと思ったんだと思います」


 リチャードは掲げるように、封筒を手に取ってみせる。


「僕らは二人とも試されたんです、おじい様に」

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