第17話 妄想と朗読

 屋敷に戻ると、シャルロッテがもう書斎で作業を始めていた。ローテーブルの上には、新聞や封の切られた手紙が広げられている。


「お帰りなさい」

 リチャードの姿を認めると、彼女が座っていたカウチからぱっと腰を浮かせる。ぱたぱたとこちらに駆けてくる様が、何とも言えないほどに可憐だった。


 侯爵と話をしたことが尾を引いていたこともある。だから、つい想像してしまった。


 妻としてシャルロッテが家に居てくれたとしたら、こんな感じだろうか、と。


 こんな風に、帰ってきたら彼女が迎えてくれる。それから一緒に食事をして他愛のない話をして、ともに寝台で眠る、そんな日々。


 幸せすぎてどうにかなりそうだ。


「あの」

 シャルロッテがゆっくりとこちらに歩を進めてくる。


 そうだ。妻だったら抱きしめるぐらい、してもいいだろうか。華奢な肩に手を伸ばして引き寄せて、ありったけの想いを込めて「ただいま」と囁くのだ。


「どうかされましたか」

 何の返事もしないリチャードに、シャルロッテは小首をかしげた。僅かに紫ががった黒い瞳に、怪訝な色が宿る。


「カールトンさん……?」


 鈴の鳴るような声で紡がれたそれに、リチャードははっと我に返った。伸ばしかけた手は、シャルロッテの肩に触れる寸手のところで止まる。


 例えば、夫のことを家名で呼ぶ妻はいないだろう。だって、その時は彼女も同じ「カールトン」になるはずだから。


 いけない。うっかりこのまま妄想から戻ってこられなくなるところだった。


「あ、いえ。なんでもありません」


 シャルロッテは、きちんとした娘だ。だから、リチャードのことを名前で呼ぶことはない。


 この線引きを彼女が超えてくることはないだろう。


「ただいま戻りました、ミス・ウェルナー」

 それは自分も同じだ。


 大丈夫。僕はまだ、ちゃんと弁えている。


「今日はお手紙が沢山届いていますね」

「ええ、そうですね」


 シャルロッテは振り返って手紙の束を見遣る。もうすぐ本格的な冬が来る。大方は季節の変わり目の定番の挨拶だろう。


「頑張ってお返事を書きますね」


 小さな手をぎゅっと握りしめて、シャルロッテは言った。


 こんなことも一人でできない自分に嫌気が差す時は確かにある。

 けれど、リチャードが満足に読み書きができれば、こんな風にシャルロッテがそばにいてくれることはなかっただろう。


 自分の欠落が、彼女を繋ぎ止めている。その歪さは自覚している。

 けれどもう少しだけ、知らないふりをしていたかった。


「はい、よろしくお願いします」

 リチャードはそう言って、シャルロッテに微笑んだ。






「休憩、されますか?」

 新聞の同じ行を読み直しをさせたところで、シャルロッテがそう言った。


 リチャードは額に手を置いて二度首を振った。それでも、どうにも頭が回らない。


 リチャードは記憶力には自信がある。他の人ならメモを取ってその都度それを確認すればいいのだろうが、自分にはそれが難しい。全てを頭に叩き込んで、必要な時に思い出す方が容易かった。


 だから、一度聞いたことの大半は忘れない。それなのに今日はなんだか頭に入ってこなかった。


「お疲れですか?」


 つり目がちな目が、不安そうに少し下がる。いつもなら根を詰めるのは真面目なシャルロッテで、休憩しようと声を掛けるのはリチャードの方だったのに。


 けれど、これ以上続けても効率はよくないだろう。何度もシャルロッテに同じところを読ませるのにも気が引ける。


「すみません、そうしましょうか」


 誰かに茶でも持って来させようかと思ったところで、シャルロッテは書棚の前にすっくと立っていた。


「ああ、気に入ったものがあれば読んでいただいて構いませんよ」


 本は読まれるためのものだ。そして、シャルロッテは本を読むのが好きなのだ。

 彼女に読んでもらえるのなら、自分が集めてしまった本も喜ぶだろう。


「はい」


 シャルロッテは、意を決したように一冊の本を取り出した。心なしかその肩に力が入っている気がする。


「……ミス・ウェルナー?」


 リチャードには、ただ本を読むためにはいささか大仰と思えるほどの意気込みを、シャルロッテが背負いこんでいるように見えた。


 背筋を伸ばしてカウチに腰掛けたシャルロッテは、膝の上でぱらりと本を広げた。

 一度すうっと息を吸う。


「『これは本当にあったことかもしれないし、そうでないかもしれません。けれど、心の底から信じることがかなえば、それは一つの真実と呼べるのではないでしょうか』」


 まるで、一滴の雫が水面に落ちるようだった。


 軽やかなシャルロッテの声が、物語の最初の一節を朗々と読み上げた。


 なるほど、これは確かに上手い。あの侯爵が手放すのは惜しいといったのも頷ける。このまま物語の最後まで聞いていたいとリチャードは思った。


 けれど、それは過ぎた願いだろう。

 自分の好む物語を金に物を言わせて意のままに読ませるというのなら、それはまさしく侯爵がシャルロッテに強いたことと同じだ。彼女はきっと、いやな思いを沢山しただろうから。


 そういうことを、自分はしたくなかった。


「ミス・ウェルナー、僕は」

 リチャードが声を掛けると、黒い瞳に強い光が宿る。「勘違いなさらないでください」


「わたしは、自分が読みたいから読み上げるだけです。べ、別にカールトンさんのために読むのではありません」


 さっとこちらから顔を背けてそっぽを向く。栗色の髪が流れれば、耳から首筋にかけてが僅かに赤い。羞恥なのか緊張なのかは、分からないけれど。


「ただ、お聞きになると言うのなら、止めはしませんわ」


 言い訳といえば、苦しいと言わざるを得ない。

 けれど、これが彼女の気遣いだと分からないほど、自分の察しも悪くない。


「それでは、僕もたまたま聞いていたということで」


 向かいのソファに腰掛ける。彼女の目はもう、リチャードを見ていない。

 シャルロッテはまた、本を広げて朗読を始める。すっと物語の中に降りていく。


「『あるところに王子様がいました』」


 リチャードはそっと目を閉じて、次の一節を待った。

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