第二部

第16話 白と黒と恋煩い

「シャルロッテ嬢は息災かな」


 キンドリー侯爵はそう言って、白の石を置いた。そうして挟まれた箇所が裏返って黒から白に変わる。


 他人が彼女の名前を口にするたびに、どうしてだが胸の奥がざわりとするのはなぜだろう。


 自分には何も、関係のないことなのに。

 しかしながら、今は盤面に集中しなければならない。


「ええ。ミス・ウェルナーは元気にしていますよ」


 リチャードは、黒の石を置く。そうすると、また挟まれた箇所が白から黒に塗り替わる。


 東の国で作られたリバーシという、ボードゲームの一つだ。


 八×八のマスの正方形の盤の上に、互いに表裏で色が違う石を置いていく。挟まれた箇所の石は裏返すことで、自分の石に変えることができる。最終的に盤上に自分の石が多かった方が勝ちだ。


「ふむ」

 石を指先で弄びながら、侯爵は次の手に悩んでいた。


 リバーシはルールは単純だが、戦略は多岐にわたる。最近の侯爵閣下の気に入りのゲームである。


 祖父もボードゲームが好きな人だった。もっとマイナーなゲームもいくつも知っていて、そのどれもがとてつもなく強かった。神懸かったような手の鋭さがあって、リチャードはほとんどまともに勝てたことがない。


 ただそうやって小さい頃から仕込まれたおかげなのか、それなりには強いつもりだ。この様子だと多分勝てるな、とリチャードは読みを巡らせた。


 リバーシはいい。表と裏、白と黒は見て判断がつく。チェスもだ。駒の形と動き方だけ頭に叩き込めばいい。こういうゲームに興じていると、自分がろくに読み書きができないことをしばし忘れられる。


 事実、侯爵閣下はリチャードの特性・・について気付いていないだろう。


「これでどうだ」

 侯爵は白い石を角の一つ隣に置いた。かかった。


「では、僕はここに」


 これでリチャードは角が取れる。鮮やかに盤面が黒く塗り替えられていく。


「ぐぬぬ」

 侯爵はまだ盤面を見つめて唸っている。こうなってくるともう、ほとんど彼に勝ち目はないのだが。


 リチャードは顔を上げて、広い侯爵家の庭を見つめた。


 世の中がこんな風に白と黒ならいいのになと思う。そうすればもっと分かりやすくて、生きやすいのかもしれないのに。


 けれど、世界はもっと複雑にできている。


 頭の片隅で、栗色の髪が踊る。


 シャルロッテが微笑んでいることは少ない。けれど、美味しいお菓子を食べている時はつり目がちな目がふわりと緩む。その顔を見ている時が一等好きだ。リチャードは菓子を好むが、これを見ていられるのならば、自分はもう食べなくてもいいかと思うほどである。


 この気持ちをなんて呼べばいいのか、リチャードには分からない。 


 結局のところ、リチャードは自分の心ひとつ、白とも黒とも塗り分けることができないのだ。






 最初にこの屋敷を訪れた時、侯爵は目を細めて老獪な笑みを浮かべた。

 見定めるように、眇めた目が滑っていく。


「なるほど。嬢は、どうせ金をもらうなら若くて見目麗しい男の方がいいということじゃな」


 暗にシャルロッテが自分からリチャードに乗り換えたのだと示してみせる。ある程度は覚悟していたことだが、何も思わないわけではない。


 ただ、侯爵の言うことにも理はある。金に物を言わせたという点では、リチャードもこの男も大きな違いはない。


「まあ掛けたまえ、カールトンの小倅こせがれ


 小倅、か。

 リチャードは今年二十五になった。露骨にガキ扱いされるほど若くはないつもりだが、侯爵閣下と比べたら自分などまだその程度だということなのだろう。


「失礼します」

 促されるがままに、上等な革張りのソファに腰掛ける。


 リチャードは気取られない程度に視線をそっと巡らせた。

 調度品や部屋の設えから好みを探るのは、体に染みついた癖のようなものだ。壁に飾られている絵の画家には心当たりがある。後ろのサイドボードの壺の値段も大体見当がついた。


「にしても惜しいのう。少々過激なものを読ませても物怖じしない娘で、随分と楽しめたのだが」


 眉間に皺が寄っていくのが分かる。事の子細はシャルロッテから聞き及んでいだが、悪趣味にもほどがある。


「あれはなかなかに気の強い女だろうに。どうやって手懐けた」


 少しばかり己の思っていることをきちんと口に出すだけでひどい言われ様だ。例えばシャルロッテが男なら、こうはならないだろうに。


「ええ。自分をしっかりと持っている方ですね、ミス・ウェルナーは」


 釘を刺すつもりでリチャードはそう返した。侯爵はただ、不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。


 豪奢な椅子に頬杖をついて、彼は続ける。


「老い先短い年寄りから数少ない楽しみを取り上げて楽しいか。どうだ、年長者に譲る気はないか」


「閣下は随分とお元気そうですから、まだまだ長生きされるかと僕は思いますが」


「ふん、口の減らない小僧だ」


 これでも元は商人の端くれである。そう簡単に物言いで負ける気はしない。


「しかしこうなると、うぬにわしの暇つぶしに付き合ってもらうほかないな」


 侯爵はひとつ顎をしゃくって、控えていた使用人に何か取ってくるように命じた。従者がさっと部屋を後にした。


 リチャードは内心焦った。無論、顔には出していないつもりだけれど。


「……つまり、僕にミス・ウェルナーの代わりに朗読をしろと?」


 そうなると分が悪い。全く読めないということはないが、恐ろしく時間がかかるし途切れ途切れにつっかえてしまう。侯爵にはそのことを知られたくはなかった。


 リチャードの申し出を、侯爵は一蹴する。


「あほう。むさくるしい男に読ませても何の興も乗らんじゃろう。うぬはそういう趣味なのか?」


 従者が侯爵とリチャードの間に置いたのは、チェス盤だった。駒は真鍮で、盤は楡の木とマカボニーを組み合わせた鮮やかなモザイク。きっと侯爵の収集品の一つだろう。


「できるか?」

「それなりには」


 リチャードはほっと息を吐いた。自分にとっては、文章を読むよりもこちらも方がよほど簡単なことだった。


 案の定、三度勝負をしてリチャードは三回とも難なく勝利を収めた。


「小倅の割には、やりよる」


 三連敗を喫した侯爵は今にもチェス盤にかじりつきそうな勢いでそう言った。おそらく他に何も言えなかったのだろう。


 そうしてシャルロッテの事には収まりがついたのだけれど、「勝ち逃げとは愚か者のすることだ」との侯爵の言を受けて、リチャードは定期的にこの屋敷に顔を出している。侯爵は時折骨董品も買い上げてくれるので上客と言ってもいいくらいだ。


 もう一度リバーシをしながら、侯爵は訊ねてくる。


「して、うぬは嬢をどうするつもりじゃ」


 侯爵は角に白い石を置いた。


 リバーシには打ってはいけない箇所が何箇所かあって、それさえ頭に入れてしまえば勝つことはさほど難しくはない。


 元からそこは捨てるつもりだった場所だ。勝敗に問題はない。この勝負もリチャードが勝てるだろう。それなのに、どうしてだかひどく落ち着かない心地がする。


「どうする、と申しますと?」

 リチャードは黒い石を一つ置いた。盤面から白い石が少しずつ消えていく。


「どうするはどうするじゃ。妻にするなりめかけにするなり、色々とあるじゃろうに」


「僕らはそういう関係ではありませんよ」

「では、どういう関係じゃ」


 リチャードは押し黙るほかなかった。今頼んでいる仕事以上に、シャルロッテに何かを望みたいとは思わない。 出来ればもう少し笑っていてくれればいいとは思うけれど、それさえ口に出そうとは思わない。


 けれど、傍から見ればそう見えるのだろう。


「僕一人で決められることでもないですしね」

「かようにうかうかしていたら、どこぞの輩に盗られてしまうぞ」

「そもそも僕のものではありませんよ」


 侯爵はしばし無言で、まじまじとこちらを見つめていた。やがて肩を竦め、ひとつ大きな溜息を吐いた。


「うぬよ、それを人は間抜けと言う」

「間抜けで結構です」


 リチャードは最後の石を置いて笑った。これで勝ちだ。


 侯爵は、腕組みをしたままほぼ黒一色に塗られた盤を見つめ、まだ唸っている。


「この手のゲームでうぬに敵わぬことはよう分かった」


 侯爵の目がリチャードの元へと戻ってくる。


「どうして、うぬはカールトン家の跡継ぎではないのだろうな」

 ぽつりと呟くようにして侯爵は言った。


 それは賛辞のひとつでこそあれ、決して侮辱ではないのだろう。ただ自分にはひどく居心地が悪く響いた。


「ええ。うちは兄が継ぎますから」

 そもそも跡取りは長男と相場が決まっているだろうに。


「兄も輪をかけて出来がよいのか、それともカールトン男爵の目が節穴なのか、一体どちらであろうかな」

 きっ、と細められた目も本当のことを知れば、色を変えるだろう。


 兄のことを話す時、リチャードの心は僅かに毛羽だったようになる。それをいつも少し飲み込むことになる。


「僕は兄さんを尊敬していますよ」


 これは嘘偽りなく本心である。兄には風格と呼べるようなものがある。あの堂々とした立ち居振る舞いは自分にはないものだ。


「うちのエヴァンと取り替えたいぐらいだ」


 リチャードはゆるりと微笑んでみせる。

 結婚も跡継ぎも、自分には遠いことだ。夢にだって、見たこともない。


「お言葉ですが、エヴァン殿とならどなたと取り換えても問題はないかと」

「それもそうか」


 息子ながら、悪評には心当たりがるのだろう。侯爵は自嘲したようにかかか、と笑った。


「それでは、本日はこれにて」

 リチャードは恭しく礼をして、侯爵家を後にした。

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