第18話 春の雨

 シャルロッテの声は、まるで春の雨のようだ。

 晴れた日に気まぐれに降る天気雨のように、きらきらと粒が輝いている。


 水面にその雫が落ちる度、緩やかな波紋が広がっていく。そうして、するりと心に染み入ってくる。


 リチャードはそれにうっとりと耳を澄ませる。


「『王子様は若く整った容姿を持っていましたが、とても傲慢でした。だから、魔女の呪いで姿を醜い獣の姿に変えられてしまったのです』」


 シャルロッテはとても不器用で、きっと言葉を大切にしているのだと思う。だからこそ、適当なことが言えなくて、拗れてしまう。


 気づかれないように、リチャードはうっすらと目を開けた。


 シャルロッテは可愛らしい人だ。けれど、いつも眉間に皺が寄っていて、子猫のような目は辺りを警戒するように見渡す。


 物語を読んでいる今は、彼女はそのくびきから解き放たれたように見える。

 重力から解き放たれたかのように、翼を広げて飛んでいく。

 いきいきとしていて、本当はその姿こそこの目に焼き付けておきたいと思う。


 けれど、それに気づいたら彼女はまたきっと肩を強ばらせてしまうから。リチャードはまた目を閉じて、ゆっくりと物語の中に身を沈める。


 あの時、リチャードはどうしても招待を断れずに夜会に出ていた。かの伯爵家はカールトン家の上客のひとつで、時折自分が顔を出すだけで随分と気前よく買い物をしてくれる。


 夜会で悪い男に不埒な目的で声を掛けられる。


 それ自体は、笑ってしまうぐらいありふれたことだ。リチャードだって何度も目にしたことがあるし、そんな悪意はそこら中に転がっていて、その全てを自分が取り除けるとは思わない。


 だから、普段はあんなことはしない。リチャードは聖人ではないし、他人に配り回るほど善意が有り余っている訳ではないから。


 それでもシャルロッテに手を差し伸べたのは、見ていられなかったからだ。


 小さな手が二回太ももを叩いた時、あの、ままならない体を持て余しているような仕草が自分と重なった。どんなに望んでも、思うように文字を読むことが叶わぬこの身と。


 それでも戦おうとするシャルロッテの姿が、どうしても目から剥がせなかった。


 シャルロッテの朗読は続く。

「『あなたを真に心から愛する者が現れれば、この呪いは解けるでしょう』」


 この物語が終わらなければいい。永遠に続けばいい。


 このままどこまでも自由いてほしい。遥か遠くまで飛び立って欲しいというのと、自分のそばに抱きしめていたいという思いが、同じところから湧き上がってくる。


 人はきっと、誰もが少しずつ愚かで、傲慢だ。


 誰かを救いたいと思う時、本当は救われたいと願っている。それぐらいは理解しているつもりだ。


 シャルロッテが、リチャードが字が読めないと知った時に流した涙を思い出す。あれは澄んだ美しい涙だった。


 いっそ、彼女が流した涙の海で溺れて死ぬことができればよかったのに。


「『けれど、どこにこんなにも醜い獣を愛する者がいるでしょうか。王子様は深い絶望の淵にいました』」


 だから、どうかシャルロッテには。

 気高く美しい彼女には、この僕の愚かさに気付かれませんように。



 *



 朗読をはじめた時、何か深い意味があったわけではない。

 それこそ憐みだと言われるかと思ったのに、リチャードは何も言わなかった。


 彼は、シャルロッテが読んでいる間は何も口を挟まない。ゆったりと腰掛けて天井を仰いだりどこか遠くを見つめながら、静かに聞いてくれる。


 読み終わった後は、お茶を飲みながら感想を話すのが習慣になった。


「けれど、予定調和すぎませんか?」


 シャルロッテは、そう言ってマドレーヌを頬張った。なんでもリチャードには気に入りの洋菓子店が幾つかあるらしい。


「僕は好きですけどね、ああいうのも」


 リチャードは大体どの話についてもそう返す。彼がつまらないとか面白くなかったと口にするところを、シャルロッテは聞いたことがなかった。


「ハッピーエンドは、いいものですよ」


 リチャードの目はカップの紅茶に注がれている。紅茶を一口飲んでから彼は続けた。


「現実がつらいのなら尚更です」

 揺れる水面に彼が何を見つめていたのか、シャルロッテには分からなかった。


 そこで、三回扉がノックされた。しばしの間の後、エドガーが入ってくる。


 最初こそまるで見張るようにしていた家令は、近頃はあまり姿を見せなくなった。シャルロッテを信用してくれているのか、今は茶を供するメイドがいるだけだ。


「リチャード様、お客様がお越しです」


 エドガーが何事かを耳打ちすると、リチャードはほんの少しだけ顔を曇らせた。壁に掛けられた時計を見つめて、


「もうこんな時間か。早く来るなんて珍しいな」


 気づけば、“仕事”と呼べる部分を終えてから一時間程度が経っていた。


「すみません、わたしがつまらない話を」

 シャルロッテがそう言うと、リチャードは眉を下げて声を落とした。


「そんな風に言わないでください。僕のたっての楽しみなんですから」


 エドガーは扉の方をきょろきょろと窺い見て、落ち着かない。来客とシャルロッテが鉢合わせないか気になっているようだった。


「こんなことなら別の日にしておけばよかったな」

 リチャードには珍しく、拗ねるように言う。


「今日しか、お二人の都合の合う日がなかったではないですか」

「それはそうだけれどね」

 長い指は僅かに苛立ったようにとんとん、と机を叩いた。


 シャルロッテにはなんとなく、誰がこの屋敷を訪ねてきたのか分かる気がした。

 リチャードが砕けた言葉を向けるほど親しくて、エドガーがシャルロッテとは合わせたくない人物。


「もしかしてお兄さん、ですか」

 シャルロッテが訊ねると、リチャードは驚いたように目を瞠った。


「ええ、そうです」

 それから、一つ大きく頷く。


「試作品のストールのピンをいくつか頼んでいたんです。もう少し遅く来るはずだったんですけど」


 聞けば、パトリックは普段は遅れてくることの方が多いのだが、今日はたまたま早く来たのだという。それは、シャルロッテが手紙から思い描いた、豪快で自由な彼の人物像とも矛盾しない。


「あの」

 考えるよりも先に、シャルロッテはリチャードに訊ねていた。


「わたしにも見せていただくことはできませんか?」


 シャルロッテはただ思い付きを口にしただけで、商売に詳しいわけではない。けれど、自分の考えたことがどの風に形になったのか、どうしても見てみたかった。


「もちろん、そのつもりではいたのですが」


 リチャードはそこで一度黙った。緑の目が、気遣わしげにシャルロッテを見つめる。


「きちんと完成したものを、またお見せしますから」


 シャルロッテはあれからパトリックとは一度も顔を合わせていない。そうならないようにリチャードが取り計らってくれているのだとも思う。


 大切にされているのだと、ちゃんと分かっている。


 浮かんできたのは好奇心によく似た、少し違う何かだった。自分に望まれた仕事の領分を超えているとは思う。出しゃばりもいいところだ。


 跡継ぎというのなら、パトリックは当然商売のことに詳しいだろう。この二人がどんな話をするのか、一度聞いてみたかったのだ。


「お邪魔にならないようにしますので」

「あなたのことを邪魔だと思ったことなんて一度もありませんよ、ミス・ウェルナー」


 リチャードは少しの間考え込んでいた。シャルロッテがじっと彼を見つめていると、やがて諦めたように息を吐いた。


「……まあ、兄さんが何か変なことを言ったら僕が殴って追い出すことにしましょうか」


「殴るん、ですか?」

 リチャードの物言いにしては驚くほど不穏である。シャルロッテにはこの穏やかさの具現のような男が殴るところはとても想像できなかった。


 シャルロッテがきょとんとしていると、彼は軽く笑った。


「兄なんてそんなものですよ。二人でその辺で転がって育ったものですし」


 リチャードがそう言うと、エドガーがそっと目を細めてうんうんと頷いた。


「坊ちゃん方がすぐお召し物を汚すものですから、奥様のご苦労たるや……」

 この家令の目にはきっと、その二人の姿が確かに見えているのだろう。


 そうだ、何もリチャードも最初からこうだったわけではない。彼にも当然子供の頃があったのだ。


 くすり、とシャルロッテも笑ってしまったら、リチャードが苦々し気に顔を顰めた。


「エドガー、あまり僕の恥ずかしいところばかりミス・ウェルナーに暴露するのはやめてくれ」


「大変失礼いたしました。では、パトリック様をお呼びしてまいります」


 恭しく礼をして、エドガーは書斎を後にした。

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