第6章「星降る夜の即興曲」第2部

翌朝、駅のホームに美月と星野が向かい合って立っていた。東京行きの電車が到着するまであと五分。周囲は通勤・通学の人々でにぎわっていたが、二人の間には静かな緊張感が流れていた。


「本当にごめんなさい、こんな時に...」


星野は申し訳なさそうに微笑んだ。昨日の電話以来、彼は東京の実家と連絡を取り続け、母親の容態を確認していた。関節リウマチの急性増悪で入院したものの、生命に危険はないという。しかし、息子である星野の顔を見たいという母親の願いを、彼は無視できなかった。


「何を言ってるの。お母さんが心配なのは当然よ」


美月は冷たい朝の空気に頬を赤くしながら答えた。


「でも、音楽療法のセッションも、予定していたのに...」


「それは私たちのためでしょう? 今はあなたのお母さんが最優先よ」


美月の言葉に、星野は少し安堵した表情を見せた。彼はカバンから一通の封筒を取り出した。


「これ、昨晩書いたものです。僕がいない間に読んでくれたら...」


「何?」


「母と音楽療法について。彼女の体験が、美月さんの参考になるかもしれないと思って」


電車の接近を告げるアナウンスが流れる中、星野は封筒を美月に手渡した。


「3、4日で戻ってきます。その間に...もし良かったら、これまでの実験データを整理してもらえませんか? 特に即興演奏の時の右手の動きの変化が...」


星野の言葉は、ホームに滑り込んでくる電車の音にかき消された。扉が開き、乗客が出入りする流れの中、星野は一歩、電車の方へ踏み出した。


「行ってらっしゃい。お母さんによろしく」


美月の声に、星野はふり返って軽く会釈した。その目には、何か言い残したことがあるような複雑な表情があった。しかし時間はなく、彼は電車に乗り込み、扉が閉まった。


窓越しに手を振る星野に、美月も手を振り返した。電車が動き始め、やがて視界から消えていくまで、美月は足を止めたままだった。


---


自宅に戻った美月は、封筒をそっとテーブルの上に置いた。すぐに読みたい気持ちはあったが、何か特別なものを取っておくような感覚で、しばらくそのままにしておくことにした。


代わりに彼女は、星野との実験データを見直すことにした。昨日の即興演奏で感じた右手の違和感の変化は、偶然なのか、それとも何か意味のあるものなのか。


ノートにプロットされたデータの波形を眺めながら、美月の頭に月光老人の言葉が蘇ってきた。


「月は光を与えるだけでなく、内なる光を映し出す鏡」


その謎めいた言葉の意味が、今までよりも少し近づいてきたような気がした。もし右手の動きが月の光によるものではなく、自分自身の内側から来るものだとしたら?


美月はふと、オルゴールのことを思い出した。引き出しから取り出したそれは、月光を浴びると不思議な音色を奏でる古いオルゴールだった。彼女はそれを手に取り、しばらく見つめた。


この音色も、月の力? それとも...


窓から見える空は、曇っていて月は見えなかった。美月は思い立ち、オルゴールを持って外に出た。あの丘なら、もっと月の力を感じられるかもしれない。


月見野の丘にたどり着いたとき、空はまだ曇っていたが、わずかに晴れ間が見えてきていた。美月はベンチに腰掛け、オルゴールを手のひらに乗せた。


「月の力、か...」


彼女は自問した。本当に月が自分の右手に影響しているのだろうか? それとも単なる気のせい? いや、気のせいではない。満月の夜の演奏と、新月の時の演奏には確かに違いがあった。


だが、もし月の影響が「内なる光を映し出す鏡」のようなものだとしたら? 外から何かを与えるのではなく、内側の力を引き出すものだとしたら?


雲の合間から、わずかに月光が漏れ始めた。今夜は半月に向かう途中の、まだ小さな月だった。


美月はオルゴールを開いてみた。その瞬間、かすかな月の光を浴びて、オルゴールは静かに音楽を奏で始めた。


その不思議な現象に見入る美月の横で、ふいに「美しい音色ですね」と声がした。


驚いて振り向くと、月光老人の姿があった。月明かりに照らされた銀色の髪と髭、青く澄んだ目。美月がこれまで何度か出会ってきた、謎めいた老人だ。


「あ、あなた...」


「久しぶりですね、美月さん」老人は穏やかに微笑んだ。「音楽祭での演奏、素晴らしかった」


「ありがとう...あの、以前言っていた言葉の意味が知りたいの。『月は光を与えるだけでなく、内なる光を映し出す鏡』って」


老人は月を見上げ、静かに頷いた。


「あなたは考えています。月があなたの右手に力を与えていると。でも、もし逆だったら?」


「逆?」


「あなたの内側に眠る力を、月が引き出しているだけなら?」


美月は自分の右手を見つめた。


「でも、なぜ即興演奏のときに、動きがよくなるの?」


「計画された曲を弾くとき、あなたは『こう弾かなければ』と思い込んでいる。その思い込みが、あなたの指を縛っているのかもしれません」


老人は美月の隣に腰掛けた。


「即興では、あなたは音楽に身を委ねる。未知の流れに従う。そこに自由があり、あなた自身の本当の力があるのでしょう」


美月は深く考え込んだ。もし老人の言う通りなら、月の力は単なるきっかけに過ぎない。本当の力は自分の中にある。


「試してみなさい。月の力を借りるのではなく、月に導かれるつもりで、自分自身の内なる光を感じてみるのです」


老人はそう言うと、立ち上がった。そして美月が何か言う前に、「次回の演奏を楽しみにしていますよ」と言って、木立の方へ歩き始めた。


美月が声をかけようとしたとき、ふいに雲が月を隠し、辺りが暗くなった。わずか数秒後、再び月が姿を現したときには、老人の姿はどこにも見えなかった。


「まるで夢みたい...」


美月はつぶやいた。しかし手の中のオルゴールは確かに存在し、まだかすかに音を奏でていた。老人との対話は確かに現実のものだった。


心の中で何かが開いていくような感覚。美月は満たされた気持ちで家路についた。


---


翌日、美月は千尋からの電話を受け、練習のために彼女の家を訪れることになった。


住宅街の中にある洋風の邸宅。千尋の家は、美月の想像以上に立派だった。玄関のドアを千尋自身が開け、美月を迎え入れた。


「お邪魔します」


美月が言うと、千尋は少し緊張した様子で「中へどうぞ」と答えた。玄関を入るとすぐに、リビングからピアノの音色が聞こえてきた。


「お父さんが練習しているの」


千尋の声は小さく、どこか気を遣っているようだった。リビングに招かれると、グランドピアノの前に座る中年の男性の姿があった。


「お父さん、友達が来たわ」


演奏を中断した男性は振り向き、鋭い目で美月を見た。


「田中千尋の父、水島正です」


美月は一瞬、姓が違うことに疑問を感じたが、すぐに思い出した。千尋の母・真理は「水島」姓だった。千尋は母の姓を名乗っているのだ。


「佐藤美月です。音楽祭でご一緒させていただきました」


「ああ、娘から聞いています。佐倉瑞穂さんの娘さんですね」


言葉は丁寧だったが、その目には審査するような厳しさがあった。美月は少し身構えた。


「千尋、練習を続けなさい。せっかく友達が来てくれたのだから、あなたの演奏を聴いてもらいなさい」


「はい、お父さん」


千尋は素直に応じ、父親が立ち上がったピアノの前に座った。彼女が弾き始めたのは、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」第一楽章だった。


技術的には完璧な演奏だった。一音一音が正確で、テンポも安定している。しかし、美月には何かが足りないように感じられた。それは音楽祭で感じた印象と同じだった。


演奏が終わると、水島が「もっとテヌートの部分を意識して」と指摘した。千尋は黙って頷き、再び同じ箇所を弾き始めた。


しかし何度繰り返しても、水島は満足せず、さらに細かい指示を続けた。その様子に、美月は居心地の悪さを感じ始めていた。


「すみません、千尋さん。私たち、別の場所で練習してもいいかしら?」


美月の提案に、千尋は少し驚いた様子だったが、「お父さん、美月さんと二人で練習したいんだけど...」と言った。


水島は少し考える素振りを見せた後、「わかった。二階の母さんの部屋を使いなさい」と許可した。


「ありがとう、お父さん」


千尋は美月を二階へ案内した。廊下の突き当たりのドアを開けると、そこには小さなアップライトピアノと書棚が並ぶ部屋があった。


「ここが、お母さんの部屋だったの」


千尋の声は静かだった。部屋は埃一つなく整えられており、今も大切に保存されている様子がうかがえた。


「お父さんが、そのままにしているの。誰も使っちゃいけないって言われてたけど、特別にここで練習することだけは許してくれてる」


美月は真理の残した空間に足を踏み入れた。壁には彼女のリサイタルのポスターや、音楽雑誌の表紙を飾った写真が掲げられていた。才能あふれるピアニストだったことがうかがえる。


「お母さんは素敵な方だったのね」


「私、あまり覚えてないの...3年前だから、中学1年生の時」


千尋は母の写真を見つめながら言った。


「でも、お父さんが言うには、私はお母さんよりずっと技術があるんだって」


その言葉に、少しの誇りと、どこか虚しさが混じっているように美月には感じられた。


「ねえ、あれを見て」


千尋は突然、書棚の方へ向かった。一番下の棚から取り出したのは、古い譜面が束になったファイルだった。


「これ、お母さんが作った楽譜。『片手でも弾けるピアノ編曲集』って書いてある」


美月は驚きの声を上げた。真理が作った特殊な編曲楽譜。そこには左手だけで弾けるように編曲された様々な曲が収められていた。


「これはすごいわ...」


美月がページをめくっていると、後ろの方から古い録音テープが出てきた。ラベルには「瑞穂との二重奏 1999年12月」と書かれていた。


「これ、私のお母さんと、あなたのお母さんの...」


「聴いてみましょう!」


千尋は興奮した様子で、部屋の隅にあったカセットデッキを指差した。


「使えるかしら?」


「たぶん大丈夫。お父さんが定期的にメンテナンスしてるから」


美月はテープを入れ、再生ボタンを押した。


最初にはかすかなノイズが流れ、それから若い女性の笑い声。


「録音始まってるわよ、瑞穂ちゃん!」


「え、もう? ちょっと待って、真理...」


二人の声に、美月と千尋は顔を見合わせた。これは間違いなく、彼らの母親たちの若かりし日の声だった。


そして間もなく、ピアノの音色が流れ始めた。二人の演奏は見事に調和しながらも、二つの異なる個性が浮かび上がる素晴らしいものだった。真理の情熱的な表現力と、瑞穂の技術的な正確さが絶妙に融合していた。


曲が終わると、再び二人の声が聞こえた。


「すごいわ、瑞穂ちゃん! あなたの左手と私の右手、まるで一人の演奏者みたい!」


「あなたこそ、素晴らしかったわ。こんな風に自由に表現できたらいいのに...」


美月と千尋は、言葉もなく録音に聴き入った。それは彼女たちの知らなかった母親の一面であり、同時に彼女たち自身の可能性をも示唆するものだった。


「ねえ、私たちも、こんな風に弾いてみない?」


千尋の目には、これまで見たことのない輝きがあった。


「あなたの左手と、私の右手で」


美月はゆっくりと頷いた。「そうね。でも、もっと自由に...即興的な要素も取り入れて」


「即興? でも、私、即興なんて...」


「大丈夫。私たちならできるわ」


美月の言葉に、千尋は不安そうな顔をしたが、同時に小さな期待も見せた。


「お母さんたちみたいに...弾いてみたい」


二人はピアノの前に並んで座った。千尋が不安げに鍵盤に手を置くと、美月も左手をピアノに伸ばした。


「準備はいい?」


美月の問いかけに、千尋はゆっくりと頷いた。そして二人の指が同時に鍵盤に触れ、最初はぎこちなく、やがて少しずつ呼応するように、新しいハーモニーが部屋に満ちていった。


千尋の右手は徐々に自信を得ていくように、少しずつ自由な表現を取り入れ始めた。美月の左手はその変化を感じ取り、支えるように和音を奏でる。即興とはいえ、そこには美しい調和があった。


録音テープから聴こえた母親たちの演奏とは違う、けれど確かに彼女たち自身の音楽が生まれつつあった。


母親たちのように—いや、美月と千尋だけの新しい音楽の旅が始まったのだった。


(第2部 終)

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