第6章「星降る夜の即興曲」第3部
星野が東京から月見野に戻ってきたのは、出発から4日後の水曜日だった。少し疲れた様子の彼を美月は花屋の前で見かけ、自然と足を止めた。東京での数日間は、母の看病と病院との交渉で忙しく過ぎたという。
「お母さんの調子はどう?」
美月の質問に、星野は淡い微笑みを浮かべた。彼らは星野の祖父の家の縁側に座り、庭に咲き始めた初夏の花々を眺めていた。午後の柔らかな陽光が、彼らの会話を優しく包んでいた。
「一番辛い時期は過ぎたみたいです。医師の話では安静にすれば数週間で退院できるとのことで。でも、リウマチは完治しない病気ですから...」
星野は手元の封筒を美月に差し出した。開けると、中には数枚の手書きの便箋が入っていた。
「書いたものです。母と音楽療法の話」
美月は静かに頷き、読み始めた。
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私が初めて母の痛みを真に理解したのは、高校2年生の冬でした。
「まこと、ごめんなさい。今日のコンサート、行けそうにないの...」
リビングのソファに座る母は、両手の指を少しずつ動かそうとして苦痛に顔を歪めていました。関節リウマチの診断が出てから半年、症状は徐々に悪化していました。
「大丈夫だよ、母さん。休んでて」
私は言いましたが、本当は失望していました。その日は私のバイオリン発表会で、特に母に聴いてほしい曲を準備していたのです。
それから数週間、母は様々な治療を試しましたが、副作用に苦しむことも多く、何より彼女を苦しめたのは「もうピアノが弾けない」という現実でした。幼い頃から私のピアノの先生だった母の指は、次第に硬くなり、曲がってしまいました。
転機は、主治医が紹介してくれた音楽療法との出会いでした。
「美和子さん、演奏できなくても、音楽とともに生きる方法はあります」
音楽療法士の山田先生はそう言って、母に新しい可能性を示してくれました。演奏する側から聴く側へ。そして創作や編曲といった、指の動きに頼らない音楽の楽しみ方。
最初、母は抵抗していました。「ピアニストが演奏せずに何になる」と。
でも、山田先生の忍耐強い導きで、母は少しずつ変わっていきました。
特に印象的だったのは、母が片手でも弾けるピアノ編曲を始めたことです。左手だけで弾ける曲、右手だけで弾ける曲。そして私とのためのデュオ編曲。
母が私に言った言葉を今でも覚えています。
「音楽は指先だけではないのよ、まこと。心で聴いて、心で奏でるもの。それさえ忘れなければ、どんな形でも音楽と共に生きていける」
その言葉が、今の私の音楽療法への道を開いてくれました。
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星野の文章を読み終えた美月の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「あなたのお母さん、素敵な方ね」
「はい。今回の入院でも、看護師さんたちが病棟で音楽療法のアドバイスを受けていました。母は患者でありながら、先生でもあるんです」
美月は星野の手紙と自分の体験を重ね合わせていた。月光老人の言葉、そして星野の母の言葉―どちらも「内側から生まれる音楽」の大切さを教えていた。
「あのね、星野くん、私も色々と発見があったの」
美月は星野不在の間に起きた出来事を話した。月光老人との会話、千尋の家での発見、そして母親たちの録音テープのこと。
「それは素晴らしい発見ですね! 僕も聴いてみたいです」
星野の目が輝いた。
「実は千尋さんとの即興演奏会の企画も進んでるの。月見野の『癒しの音楽会』で」
「癒しの音楽会?」
「あなたがいない間に町の文化協会から声がかかったの。『若手演奏家による癒しの音楽』がテーマなんだって」
星野は感慨深げに微笑んだ。「理想的なタイミングです。僕も協力します」
二人の会話は、星野の祖父からのお茶の誘いで一旦中断された。
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翌日の夕方、美月は母・瑞穂と庭のベンチに座っていた。瑞穂は花の手入れを終え、土の香りを纏った手袋を脇に置いたところだった。
「お母さん、水島真理さんとのテープを聴いたわ」
その言葉に、瑞穂の手が一瞬止まった。
「千尋ちゃんの家で見つけたの?」
「うん。素晴らしい演奏だったわ。特に、あなたの左手と真理さんの右手の調和が...」
瑞穂はため息をついた。
「あの録音は、コンクールの後に取ったものよ」
美月は母の表情の変化に気づいた。前回の会話で触れなかった何かがあると感じていた。
「コンクールで何があったの?」
瑞穂は少し時間を置いてから、静かに話し始めた。
「予選で真理が体調を崩した翌日、私たちは二人とも本選に進んだわ。でも...」
彼女の声は少し震えていた。
「本選の日、私は極度の緊張に襲われたの。それまで経験したことのないような恐怖が襲ってきて...」
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コンクール当日、瑞穂の順番が近づくにつれ、彼女の手は冷たく震え始めた。
「瑞穂ちゃん、大丈夫?」
楽屋で真理が心配そうに尋ねた。昨夜は体調を崩した真理を瑞穂が励ましたが、今日は立場が逆転していた。
「ちょっと緊張してて...」
「深呼吸して。あなたならきっとできるわ」
真理は優しく瑞穂の肩に手を置いた。しかし、その親切な言葉が逆に瑞穂のプレッシャーを高めた。真理の期待に応えなければという思いが、彼女を縛っていた。
舞台に上がった瑞穂は、ピアノの前に座った瞬間、頭が真っ白になった。指は自動的に動いたが、心はどこか別の場所にあった。
技術的には間違いのない演奏。しかし、彼女自身がよく分かっていた—この演奏には魂が欠けていることを。
演奏を終えた瑞穂が楽屋に戻ると、真理は彼女を抱きしめた。
「素晴らしかったわ!」
しかし瑞穂は、それが社交辞令だとわかっていた。
数時間後、真理の演奏は会場を魅了した。彼女の音色は聴く者の心に直接語りかけるようで、技術的な小さなミスさえも個性として輝いていた。
そして結果発表。真理は3位入賞。瑞穂の名前は入賞者のリストにはなかった。
真理は喜びに満ちた表情で瑞穂のもとに駆け寄った。
「瑞穂ちゃん! 信じられない! 私、入賞したの!」
瑞穂は笑顔で祝福した。しかし心の中では、複雑な感情が渦巻いていた。喜びと誇りと、そして否定したくても消せない嫉妬の感情。
「おめでとう、真理。本当にすごいわ」
彼女の言葉は心からのものだった。しかし同時に、彼女は自分の中に生まれた暗い感情に恐れを抱いていた。親友の成功を純粋に喜べない自分が、許せなかった。
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「それからしばらく、私は真理との距離を置くようになったわ。意図的にじゃないけど...彼女の成功を心から祝福できない自分が恥ずかしくて」
瑞穂の告白に、美月は静かに耳を傾けた。
「でも真理はそんな私を責めるどころか、ずっと傍にいてくれたの。『私たちは違う音楽家だから、違う道があっていい』って」
瑞穂の目に涙が浮かんだ。
「卒業後、真理はコンクール入賞者としてリサイタルの機会を得て、私は地元に戻って教室を手伝い始めた。でも私たちの友情は続いていて...」
瑞穂は深く息を吐いた。
「真理が亡くなる数週間前、彼女に会いに行ったの。すでに体調は優れなかったけど、彼女は笑顔で言ったわ。『もし私に何かあったら、千尋の音楽を見守ってほしい』って」
美月は母の手を取った。
「私、ずっと思ってたの。技術は私の方が上だったかもしれないけど、心に届く音楽は真理の方が上手だった。だから千尋ちゃんには、技術だけじゃない何かを伝えたくて...」
「お母さん...」
「あの頃の私に足りなかったのは、技術よりも表現する勇気だったの。完璧を求めすぎて、本当の自分を出せなかった」
美月は母の言葉に、自分自身の姿を重ね合わせていた。完璧な演奏を追い求めるあまり、音楽の本質を見失っていた自分。
「だからあなたには、技術と心のバランスを大切にしてほしいの。それは真理からの大切な教えだから」
美月は静かに頷いた。そして母に、明後日の「癒しの音楽会」で千尋と演奏することを伝えた。
「左手だけの私と、右手に強い千尋で、即興演奏を」
瑞穂の目が広がり、そして優しく微笑んだ。
「真理も喜ぶわ。きっと」
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「癒しの音楽会」当日、月見野町の小ホールは温かい雰囲気に包まれていた。会場には地元の人々だけでなく、近隣の町からも音楽愛好家が集まっていた。
楽屋で、美月と千尋は最後の打ち合わせをしていた。
「緊張する...」
千尋の声は小さく震えていた。彼女は今まで数々のコンクールで演奏してきたが、即興演奏は初めての挑戦だった。
「大丈夫よ。お互いの音をよく聴いて、感じるままに弾けばいいの」
美月は自分でも驚くほど落ち着いていた。月の力を借りるのではなく、自分の内側から音楽を引き出すという考えが、彼女に新たな自信を与えていた。
楽屋のドアがノックされ、星野が顔を出した。
「もうすぐ出番ですよ」
星野は今日、司会進行と演奏者の紹介役を務めていた。彼の後ろには、千尋の父・水島正の姿もあった。普段の厳しい表情はなく、少し緊張したような、あるいは期待しているような複雑な表情を浮かべていた。美月には、彼が娘の新しい挑戦を前に何かを決意したように見えた。ここ数日、水島は千尋と美月の練習を離れた場所から静かに見守っていたという。星野によれば、彼は妻の古いアルバムを何度も聴き直していたそうだ。
「千尋...」
水島は娘に近づき、少し言葉に詰まりながらも、「あなたの演奏を楽しみにしています」と言った。そして小さな声で付け加えた。「お母さんの言っていた『心で聴く音楽』を、今日は聴かせてくれるかな」
これは美月が見た中で、最も柔らかい水島の表情だった。長年抱えていた妻への思いと、娘への期待が交差しているようだった。
「...ありがとう、お父さん」
千尋の声も少し震えていた。父からのこの言葉は、彼女にとって予想外の励ましだったに違いない。
美月の母・瑞穂も来て、二人を励ました。
「自由に、心のままに」
その言葉は、かつて真理が瑞穂に言ったものと同じだった。
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ステージの中央には一台のグランドピアノが置かれ、照明が優しく包み込んでいた。客席には百名ほどの聴衆が集まり、期待に満ちた静けさが広がっていた。
星野の温かな紹介の後、美月と千尋がステージに上がると、会場から温かい拍手が湧いた。ホールの照明がわずかに落とされ、ピアノを照らすスポットライトが二人の姿を浮かび上がらせる。
二人はピアノの前に並んで座った。美月が左側、千尋が右側に位置取る。美月は一瞬、かつて自分がコンクールで演奏したときの緊張感を思い出した。しかし今は違う。何かを証明するための演奏ではなく、純粋に音楽を共有するための時間だ。
美月は深呼吸して、マイクに向かって静かに話し始めた。
「今日は特別な演奏をお届けします」彼女の声は落ち着いていた。「私の左手と、千尋さんの右手による即興デュオ演奏です」
会場には小さなざわめきが広がった。
「基本のテーマは、私たちの母が大学時代に共演した曲。そこから即興で発展させていきます。この演奏は、計画されたものではなく、この瞬間に生まれる音楽です」
最後の言葉を述べると、客席の中で水島正がわずかに身動ぎした。かつて彼が妻・真理に抱いていた疑問—なぜ彼女はしばしば楽譜から離れた演奏をするのか—その答えを今、娘から聞くかもしれないという期待が胸に広がっていた。
千尋が小さく頷き、二人は演奏姿勢を整えた。
まず、美月の左手から静かに始まった。ドビュッシーの「月の光」の冒頭を思わせるシンプルで美しい旋律。透明感のある音色が、ホール全体に広がる。それに千尋の右手が応え、冷たさと温かさを併せ持つような繊細なフレーズを紡ぎ出す。二つの手が対話を始めた。
最初は慎重だった二人の演奏だが、徐々に自由さを増していった。美月の左手が基礎となる和音を紡ぎ出し、千尋の右手がその上に物語を描くように旋律を重ねていく。時に激しく、時に静かに、二人の世界が広がっていく。
聴衆たちは息を呑むように聴き入っていた。誰一人として咳払いひとつしない静寂の中、音楽だけが流れる空間が生まれていた。前列で聴いていた水島正の目には、かすかな涙の光が見えた。亡き妻の面影を、娘の演奏に見出していたのかもしれない。
そして演奏の中盤、曲調がより感情豊かに変化していくとき、思いがけないことが起こった。美月の右手が、ゆっくりと鍵盤に伸びたのだ。月の力を借りなくても、彼女の指は少しずつ動き始めていた。複雑な動きはできなくとも、千尋の旋律に寄り添うように、簡単な和音を奏で始める。
千尋は一瞬驚いたが、すぐに美月の意図を理解し、自分の演奏を調整した。彼女の右手は、より繊細な表現にシフトし、美月の右手が奏でる和音に対して、まるが踊るかのように反応していく。
二人の音楽は三つの手による新しいハーモニーへと発展し、それまでにない豊かな響きが会場を満たしていった。聴いている人々の表情にも変化が見えた。感情が揺さぶられ、各々の心の中で何かが共鳴しているかのようだった。
演奏が終わると、一瞬の静寂の後、会場から大きな拍手が沸き起こった。
美月と千尋は互いに微笑みを交わし、立ち上がって観客に向かって深々と一礼した。
ステージを降りると、星野が二人を待っていた。
「素晴らしかった! 特に美月さん、右手が...」
「うん、自分でも驚いたわ」美月は右手を見つめながら言った。「月の力じゃなくて、自分の内側から音楽が湧いてきたの」
水島と瑞穂も近づいてきた。
「千尋」水島は娘の肩に手を置いた。「あなたのお母さんが聴いていたら、きっと誇りに思うでしょう」
千尋の目に涙が浮かんだ。「ありがとう、お父さん」
瑞穂は美月を抱きしめ、「真理も見ていたわ、きっと」と優しく言った。
その瞬間、会場の窓から差し込んだ月の光が、彼らを柔らかく包み込んだ。
美月は、内側から湧き上がる新しい音楽の可能性と、これからの未来への希望を感じていた。星野との実験も、月光老人との会話も、千尋との出会いも、すべてが彼女を新しい道へと導いていた。
彼女の音楽の旅は、まだ始まったばかりだった。
(第3部 終)
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