第6章「星降る夜の即興曲」第1部
夕食後のリビングは、柔らかな明かりに包まれていた。美月は母親・瑞穂と向かい合い、音楽祭で共演した田中千尋のことを話していた。
「彼女、本当に天才ね。でも、何かが欠けている気がするの」
ソファに深く腰掛けながら、美月は千尋の演奏について考えを述べた。技術的には完璧と言える少女の演奏が、どこか心に届かない感覚があった。
「技術は完璧だけど、音楽が閉じている感じがする」
瑞穂はティーカップを手に取りながら、目を細めた。
「技術と表現のバランスね。実は、これは昔からある音楽家の永遠の課題なのよ」
美月は母親の表情の変化に気づいた。何か思い出しているような、少し遠くを見つめる目。
「お母さんにも、そういう経験があるの?」
瑞穂は一瞬躊躇したが、やがて静かに話し始めた。
「私と真理—千尋ちゃんのお母さん—は、そんな対照的な存在だったの」
その言葉に、美月は思わず身を乗り出した。母と千尋の母親の関係について、詳しく聞くのは初めてだった。
「大学の寮で初めて会った日のことを、今でもはっきりと覚えているわ」
瑞穂の声色が変わり、20年以上前の記憶が蘇るかのように柔らかくなった。
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1998年春、音楽大学の寮。瑞穂は初めての一人暮らしに少し緊張しながら、割り当てられた部屋のドアを開けた。
部屋の中では、すでに一人の学生が窓際に立ち、外を眺めていた。振り向いた彼女の顔には、明るい笑顔が広がっていた。
「やっと来た! 私の新しいルームメイト! 水島真理よ、よろしくね!」
彼女の第一印象は、「まばゆい」という言葉だった。黒い長い髪、輝くような目、そして何より、存在自体が光を放っているかのような活力に満ちた雰囲気。
「佐藤瑞穂です。よろしくお願いします」
自己紹介する瑞穂の声は、いつもより少し小さくなっていた。
「瑞穂ちゃん、素敵な名前ね! ねえ、あなたの専攻は?」
「ピアノです」
「私もよ! これは運命ね!」
真理は瑞穂の手を取り、「これからよろしくね、ピアノ仲間!」と言った。その瞬間から、二人の音楽の旅が始まった。
練習室でのピアノの音色は、二人の個性をはっきりと示していた。瑞穂の演奏は、技術的に完璧で、楽譜に忠実。対して真理の演奏は、時に楽譜から逸脱しながらも、聴く者の心を掴む表現力があった。
「瑞穂ちゃん、あなたの演奏は本当に美しいわ。でも、もっと自由に表現してみたらどう?」
「でも、楽譜には...」
「楽譜はただの地図よ。本当の旅は、あなた自身の心が決めるの」
真理のそんな言葉に、最初は戸惑いを感じていた瑞穂だったが、次第に彼女から多くを学ぶようになった。一方で、真理も瑞穂から技術的な正確さや基礎練習の大切さを学んでいた。
二人は互いの弱点を補い合いながら、共に成長していった。
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「まるで鏡に映したような、正反対の私たち」
瑞穂の声が現実に戻り、美月は母親の若かりし日の姿を想像して微笑んだ。
「でも、そのおかげで二人とも成長できたのね」
「ええ。私は真理から表現の自由を、真理は私から技術的な基礎を学んだわ。二人で連弾をしたり、お互いの練習を聴き合ったり...」
瑞穂の目に、懐かしさと少しの悲しみが浮かんでいた。
「特に忘れられないのは、全国学生ピアノコンクールの前夜のこと」
美月は黙って母親の言葉に耳を傾けた。
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コンクール前夜、練習室から戻った真理は顔色が悪く、体を震わせていた。
「どうしたの?」瑞穂が駆け寄ると、真理は弱々しく微笑んだ。
「緊張で...胃が痛くて...」
真理は明らかに体調を崩していた。いつもは自信に満ちた彼女が、初めて見せた弱さだった。
「明日のコンクール、棄権した方がいいんじゃない?」
「駄目よ! これは私の夢なの...」
その夜、瑞穂は徹夜で真理の看病をした。熱いタオルを額に置き、時々手を握り、励ましの言葉をかけ続けた。真理が眠れない時には、瑞穂は小さな声で彼女の好きな曲を歌った。
「あなたならできる。あなたの音楽は、誰よりも心に届くから」
翌朝、真理の熱は下がっていた。彼女は弱々しくも決意を新たにして会場へ向かい、瑞穂もまた自分の順番を待った。
予選の舞台で、真理は驚くべきパフォーマンスを見せた。前夜の体調不良が嘘のように、彼女の演奏は会場全体を魅了した。特に自由曲として選んだショパンのノクターン第20番は、多くの聴衆の目に涙を浮かべさせた。
彼女は見事に予選を突破し、本選への切符を手にした。
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「真理はすごかったわ。あれほど体調が悪かったのに、魂のこもった演奏ができるなんて」
瑞穂の声には、今でも感嘆の色が混じっていた。
「お母さんは?」
美月が尋ねると、瑞穂の表情がわずかに曇った。
「私は...そこまでよくなかった。技術的には問題なく弾けたけど...」
瑞穂は言葉を途切れさせた。そこにはまだ語られていない何かがあるようだった。
会話は、軽く玄関のドアをノックする音で中断された。
「美月さん、いらっしゃいますか?」
星野誠の声だった。瑞穂が応対し、リビングに案内すると、星野はやや興奮した様子で美月に話しかけた。
「音楽祭後の演奏能力の検証実験、始めてみませんか?」
美月は眉を上げた。
「検証実験?」
「ええ、美月さんの演奏能力と月の関係性について、いくつか仮説を立てたんです」
星野は持参したノートを開き、そこに記された複数の実験項目を説明した。時間帯、照明条件、演奏スタイルを変えながら、美月の右手の動きの変化を観察するという計画だった。
「特に興味深いのは、即興演奏の可能性です。計画された演奏と即興演奏で、右手の動きに違いがあるかもしれません」
美月は少し躊躇いながらも、興味を持った。星野の科学的アプローチは、自分の状態を客観的に理解する助けになるかもしれない。そして何より、星野と一緒に音楽について探求する時間は、いつも新しい発見をもたらしてくれた。
「わかったわ。やってみましょう」
翌日、星野の祖父の家の音楽室。星野はいくつかの照明器具と録音機材を設置していた。
「まず基準となるデータを取りましょう。いつも通りショパンのノクターンを弾いてみてください」
美月は星野の指示に従い、慣れ親しんだ曲を演奏し始めた。右手はやはり思うように動かず、主に左手で旋律を奏でながら、部分的に右手を加えていく。星野は細かくメモを取りながら、時折頷いていた。
「次に、照明を変えてみます。これは月光に近い波長の光です」
特殊な照明の下で再び同じ曲を弾くと、美月はわずかではあるが右手の感覚が鋭くなったように感じた。だが、劇的な変化はない。
「続いて、即興演奏を試してみましょう」
星野はバイオリンを取り出し、「私が簡単な旋律を弾きますので、それに合わせて自由に応答してみてください」と提案した。
最初は戸惑った美月だったが、星野が奏でる優しい旋律に導かれるように、少しずつ応答していった。
驚いたことに、即興的な表現の中で、右手の動きがわずかに流動的になっていく。決められた通りに弾かなければという意識から解放されると、指がより自然に動くようになっていた。
「これは...」
美月自身も驚きを隠せない。星野の淡いGの音型に応えて、自分の右手が自然とBとDの和音を奏でていた。計画された演奏では困難だった動きが、即興の中では不思議と可能になっている。
「興味深いですね」星野は目を輝かせた。「これは『計画的努力』と『無意識的流れ』の違いかもしれません。意識的にコントロールしようとすると却って難しくなる現象は、神経科学的にも知られていて...」
星野の説明は、突然の携帯電話の着信音で遮られた。
「すみません」と言って電話に出た星野の表情が、みるみる緊張したものに変わっていく。
「今?...わかった、すぐに確認します」
電話を切った星野の顔色は明らかに変わっていた。
「どうしたの?」
美月が尋ねると、星野は深刻な表情で答えた。
「東京の母から連絡が...彼女の関節リウマチが悪化して、緊急入院したようです」
星野の声には動揺が混じっていた。
「私、明日にでも東京に戻らないといけないかも...」
そう言って彼は窓の外を見つめた。春の陽光が差し込む窓から、遠く東京の方向を見つめる星野の横顔に、美月は初めて見る脆さを感じた。
(第1部 終)
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