第16話 肉に挑む
いまやキッチンの食材保管庫には、肉や魚なども詰められている。
だが、イズナはまだ食べていなかった。
チーズとワインに比べて肉のハードルは高い。
植物しか食べてこなかったエルフの体が受け付けるのか、なかなか勇気が出なかったのだ。
来客というのはいい機会だ。
イズナはそのうちステーキにして食べようと思っていた赤身の肉を取り出して、金属のトレイに置いた。
調理台の近くに置いてある小さいダイニングテーブルに、サルヴァディは座ってもらっている。
嫌いなものなども特にないとのことだったので、ワインをグラスに注いでナッツとハーブのサラダを出した。
だが、それらにはまだ手をつけられていない。
「サルヴァディ様、こんなところで召し上がっていただくのも恐縮なのですが、家に私しかいないのでお許しください」
「気にしないでください。とても楽しいですよ。というより、おひとりで住んでいるとは思わず……」
「大丈夫です、料理はできますので。ご安心ください」
「……そういうことではないのだが……まぁ、いいのか。噂話をするような者もいないことだしな」
「あ、ごめんなさい。よく聞こえなくて。何か言いました?」
「ご令嬢が料理をするとは思いませんでしたよ、と。イズナはずっとこちらに?」
「来たばかりなのです。先日まで、管理者がこちらにいたのですが」
「……こちらは、世界樹の管理者の邸宅なのですね」
はっとサルヴァディを見ると、珍しいものでも見るように部屋の中を見回している。
世界樹の管理者。
その存在をイズナは知らなかった。だから一般の者は知らない存在なのだろうと思っていたのだが。
「あの、
「いえ。あまり知られていませんね。私も詳しくはありませんし」
「そうですか——あ、ワイン、お飲みになっていてください」
「ひとりで飲むのは味気ないものですよ」
サルヴァディはテーブルの上で指を鳴らした。
「時間を止めておきます。貴女がテーブルに着いたらグラスを重ねましょう。料理を作っているところを見ていても?」
「えっ? あ、はい。大丈夫です」
邪魔にならないあたりに立ったすらりとした姿は、
客は高貴な方だ。
たいしたものは作れないが、コースっぽい献立を。
前菜は出したサラダでいいとして、次はスープ。
時間がない時は、ベーコンかソーセージで出汁をとるのが簡単だ。
貯蔵庫にはちゃんとベーコンもソーセージもあったので、食品庫に移しておいたのである。
食べ物に関しては、ほぼ前世と同じだった。時々、見たことがないものもある。
同じものも名前や成分が本当は違うかもしれないが、イズナには同じと認識しているので、同じものということで。
ベーコンと玉ネギを刻んで、バターを溶かした小鍋に入れた。ジューッという音とともに、バターと燻製のいい香りが上がる。
薄切りにした玉ねぎが透明になってきたら水を入れて、最後に葉物野菜とハーブ。
煮込む間にステーキの付け合わせのニンジンとインゲンを茹でる。パンがないから、少し多めにしておく。
小麦はあるが酵母が見当たらないのだ。卵はあるのでなんちゃってお好み焼きを作れないこともないが、貴族っぽい魔人に出す勇気はなかった。
それにしても時を止める魔法。
イズナが使ったことのない魔法だ。
貯蔵庫などに使われているのを見て、すごいと思っていた。
魔法で使えるものだとは知らなかった。
使えたら、すごく便利だ。
「サルヴァディ様、もしかして出来上がったスープもそのテーブルに出したら、熱々のまま置いておけますか?」
「ええ、もちろん熱々のままになりますよ。私が置きましょう」
なんて便利な魔法。
イズナの目が輝いたのを見て、サルヴァディは笑った。
ペッパーミルで砕いたコショウと塩で味を整えたら、スープ皿に入れてサルヴァディに手渡す。
黒の魔人は妙にうれしそうに受け取って、いそいそとテーブルへ運んだ。
最後に室温に戻しておいた肉に塩コショウをする。コショウが簡単に手に入る世界でよかったとイズナは世界樹に感謝を捧げる。
熱して油をひいたフライパンに、おそらく牛肉であろう赤身の肉を二枚のせた。
すぐにジューワーっと焼けるいい音と、ちょっと乳のような匂い。やっぱりきっと牛。
ひっくり返せばよい焼き色がついており、香ばしい香りがキッチンに漂う。
こうなってしまうと、食べられるかどうかの心配よりも、美味しそうで早く食べたいと気持ちも胃も期待でいっぱいになる。
気持ち早めに火を止めて、余熱を使って火を入れる間に、カトラリーを出した。
「おまたせしました」
「すばらしい手際ですね」
サルヴァディが再度指を鳴らすと、テーブルの上から香りが立ち上がった。
イズナがステーキの皿を出している間に、黒の魔人はデキャンタからイズナのグラスへワインを注いだ。
小さいテーブルは料理でいっぱいだ。
イズナがグラスを持ち上げると、サルヴァディも慣れた様子で持ち上げ、差し出した。
チンとグラスが鳴った。
「貴女との出会いに、乾杯」
魔人に妖しく微笑まれ、イズナはこんな美形だとキザなのもサマになるものだなと感心した。
エルフたちの美しさとはまた違うベクトルである。
妖艶とか色気とかそんな言葉が頭をよぎる。
「不思議な出会いに、乾杯」
魔人の作法はわからないが、にっこりとそう返すと、サルヴァディはさっと目を逸らしてワインをあおった。
「ああ、素晴らしい味ですね。東部のメルロンでしょうか」
「メルロンと書いてありました。よくおわかりになりますね」
「この甘み、果実の香り、ほどよい魔素。『魅惑の微笑み・ド1633』あたりですか」
「——! 合ってます。一口でわかるなんて、すごいですね」
「好きな銘柄なのです」
それだけで年まで覚えておけるものでもないだろう。
イズナなど、美味しいにちょっと毛が生えた程度の感想しか持っていないのだから。
好きなワインならよかったと安心して、イズナも口にする。
けれども、まずサラダであれば、最初は白ワインにするべきだったのではと今ごろ気づき、頭を抱えた。
貴人のおもてなしは、まだまだ荷が重いようだ。
「あのサルヴァディ様……白ワインをお持ちしましょうか」
イズナがおそるおそるたずねると、黒の魔人はハハハと笑った。
「いえいえ、好きな銘柄をいただけてうれしいですよ。この辛味のある葉とも合いますし、ソースが美味しいですね。食べたことがない味です」
サラダには作り置きのドレッシングがかかっている。
ビネガーとナッツオイルと塩コショウ。あとチーズを少しすりおろして入れた。
「チーズが少しだけ入っているのです」
イズナがそう言うと、サルヴァディはもう一口食べ、うっとりと笑った。
「野菜はビネガーや塩しかかかっていないことが多いのですよ。これは大変美味しい」
必死に混ぜた甲斐があるというもの。しっかり乳化してとろみもあり、ハーブとの絡みも上々だ。
貯蔵庫に基本の調味料は全て揃っていたので、レシピさえわかれば困らない。
前世での一人暮らし経験が役に立っている。
おひとりさま満喫謳歌勢だったので、料理もひととおりやれるし、ちょっと凝ったものに手を出したこともあったのだ。
手作りドレッシングもやりはじめるとあれこれ試してみたくなり、いろいろ混ぜ込んだものだ。
そしてとうとう、イズナはテーブルナイフを手にした。
ごくりと喉が鳴る。
目の前に鎮座するのは、ステーキ。ニンジンとインゲンの彩りに引き立てられている。
焼き色がついたそれは、見るからに美味しそうだしもちろん食べたいのだけど、緊張もすごい。
転生してからは未知の食べ物なのだ。
ナイフを入れると、柔らかく、けれどもしっかりとした感触。一切れ小さく、切りわける。
中はほんの少し赤みを残し、ギリギリ生ではないくらいの色。
前世の牛肉の感覚で焼き上げてしまったが、もう少し焼いた方がよかっただろうか。塩コショウだけで味付けしたのも、今となっては心配になる。
けれども、客に先に毒味をさせるわけにもいかない。
ええいと口に入れた。
焼いた香ばしさと、乳っぽい香りが口に広がった。コショウのすっとした香りも鼻に抜ける。
やはり牛肉に違いない。独特の多幸感が込み上げる。思い出すのは、ごちそうという言葉。
「美味しい……」
噛むと肉汁があふれる。甘い。塩味がひきたてている。
赤ワインを飲むと、口の中が極上のソースの味になった。
塩コショウで正解だった。赤ワインを飲んで、この料理は完成するのだ。
もう一切れ牛ステーキを口に入れる。
ソースの余韻が残る口がファンファーレを鳴らした。
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