第九話 蒼の影 ④
ミニバンと舗装道路が奏でる心地よい振動が止まったことで僕は目を覚ました。時計を見るともう15時を過ぎている。2時間は眠っていたらしい。
「ついたよ、お寝坊さん」
運転席から聞き慣れた声がして意識がはっきりしてくる。車の窓の外から自然に囲まれた一軒の木造建築の平屋が見えた。
「おはようございます、すみません運転中なのに眠ってしまって」
「疲れてそうだったし問題ないよ。私の運転も悪くないってわかったし」
にひひと笑う彼女の奥には竹山亭とかかれた看板が見える。旅館やホテルといった規模ではなく少し大きな民宿といった感じだが、周囲を囲う竹林やそばを流れる河川のおかげで見窄らしさは全く感じない。
ミニバンが止まったのに気づいたのか中から妙齢の女性が顔を覗かせると慌てて外にかけてくる。和服姿のいかにも女将といった風貌だが、ちゃかちゃかかけてくる様子は子供の頃やらた仲良くしてくれた近所のおばちゃんを思い出させた。
「あらぁ〜〜、もしかして愛理ちゃん!?おっきくなったわねぇ」
「美琴さんお久しぶりです。今日は突然すみません」
「いいのよーー愛理ちゃんなら何泊だってしてって良いんだからぁ、さ、中にお入りなさいな」
美琴さんと呼ばれた女性は、愛理さんを昔から知ってるらしい。なるほど知り合いのツテとは明美さんの事で、子供の頃から可愛がってもらってた感じなのだろう。
「じゃあ駐車場に車止めてきます」
「あぁ良いよ、私の方が勝手は知ってるし」
「いやいや、ここまで運転してもらいましたし、少しはこっちにも仕事させて下さい。それに色々と積もる話もあるんじゃないです?」
「んむー………じゃあ、今回はお言葉に甘えようかな」
そう話す愛理さんは露骨に気分が上がっている。まるで実家に帰ってきたときのような、いい意味で落ち着きがない感じがする。
僕の存在に気づいた女将さんはさっそく、明美さんは来てないのか・あれは誰だと愛理さんに事情聴取を始めているようだ。返答に困っている愛理さんをよそに、僕は駐車場までの景色を楽しんだ。
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「どう、いい部屋でしょ~」
愛理さんは自慢げに両手を広げて自分の部屋かのように紹介をはじめ、そのまま慣れた手つきでポットでお茶の用意を始める。なるほど明美さんのツテなだけあって何度も来ているようだ。
「でも急に旅行行くなんて言い出すから本当びっくりしましたよ」
「たまには休息も必要だろ?ここ最近働きつめだったしさ」
急須から緑茶を注いで机に置いて愛理さんが僕の隣に座る。上着を脱いでワイシャツ一枚になった彼女が近くにいると目のやり場に困る。
「なんだよ~、私の茶が飲めないってか?」
「いやいや、そういうつもりじゃなくって……」
「こっち向く!」
「はいっ」
クリーム色の前髪のカーテンから除く彼女の目に僕の意識が吸い込まれる。チョコレートにジャムをスクリーンしたような赤茶色の瞳だ。自分でも心拍数が上がっているのが分かる。
今この空間には僕と愛理さんしかいない。思いを告げるなら今じゃないのか。でももし断られたら?いや、今の雰囲気で言ってもダメだ。僕だったら今こんなやつに告白されても全然ピンとこない。
「……そんなにみられると恥ずかしいんだけど」
「あ、いえ―――」
「愛理ちゃんお部屋はどう?困ってることなぁい?」
僕の返答を待たずして襖が開く。先ほど話していた女将さんがドアの向こうから現れた。
「ってあら……間が悪かったかしら?」
「ち、違う、理人くんとはそういうのじゃなくてっ!」
「い~の。おばちゃんわかってるんだから。明美ちゃんには秘密にしとくわよっ」
「そうじゃないんですって……」
「そいじゃ邪魔者は退散しとくから、用が有ったら内線してねっ」
したっと戸が閉まり沈黙が流れる。愛理さんは顔を真っ赤にすると突っ伏してうにゃうにゃ唸りだした。勢いに任せて緑茶を啜り、ちょっと外の空気を吸ってきますと告げて外に出ることにした。
『竹山亭』はその名の通り部屋や廊下のいたる装飾に竹のモチーフがあしらわれており、竹の香りもそこらかしこから漂っている。他にも観光客がいるようで外国人のカップル?子供のようにはしゃいでいた。
人目を避けるように歩いて、小さな竹林に面した縁側を見つける。深呼吸すると二酸化炭素や排気ガスで汚れた肺が洗われるようだった。
同時に愛理さんに気を遣わせてしまった事が今更になって気になってきた。蒼さんとの一件を気にしているのだろう。彼女のことだから突然僕を置いて1人にしていったのにも負い目を感じているのかもしれない。
しかし正直なところ蒼さんのキスに僕はそこまで動揺はしていなかった。好意を向けられていたことをなんとなく察していたからというのもあるが、蒼さんと話すにつれて彼女の精神的に幼い部分を感じていたからだ。途中から歳の離れた妹のような存在になっていたのだと、今振り返ってみて思う。
「あ、いたいた」
愛理さんが現れて隣に腰掛ける。部屋を出てからものの数分も経っていないのに浴衣姿に着替えていて、普段と違う手際の良さに驚かされる。もちろん女将さんが彼女のサイズを把握していたのもあるのかもしれないが。
「さっきはごめんね。普段はおばあちゃんと来るところだから、美琴さんを驚かせちゃったみたい。あまり責めないであげてね」
「責めるも何も、まぁそう見えても仕方ないといいますか…」
「……理人くんから見てもそう見えるの?」
彼女が覗き込むように前屈みになる。普段と違う格好に僕は目のやり場にさらに困っていた。なんと返せばいいか上手く言葉が見つからない。蒼さんの時はこうはいかなかったハズなのにどうして愛理さんが相手だとうまくいかないんだろう。
「そいやここに来る前までは蒼さんに話を聞きにいくって言ってたのに、どうして急に方針を変えたんですか?」
僕の質問に彼女は驚いて目を丸くした。返答までには少し時間を要した。
「さっき言ったように一度物理的に距離を置くのが得策だと思ったのと、なんていうか……シンプルに気まずいだろう?そのー……キス、した人とまた会うのって』
「それは…おっしゃる通りです」
「うむ!じゃあそれで良いじゃないか。ここでは何を話しても状況は変わらない。つまり落ち着いて情報共有するのにはうってつけの場だろう?」
「さっきまで休もうって言ってたのに、流石根っからの探偵ですね」
「そういうつもりじゃなくて言葉のあやというか……。じゃあ今日は仕事の話はしない!明日するでどう?」
「りょーかいです」
縁側でせわしなく動く彼女を見るだけで、僕の心はすっかり晴れていた。この旅行の中で蒼さんとみどりさんの折り合いをつけられる方法を考えよう、と心の中で誓った。
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「ウチは料理が評判なんだから、たぁんとお食べなさいな。明美ちゃんの知り合いならサービスもしとくから」
ひれ酒に鮑やはまぐりの盛り合わせ、それに皿から溢れんばかりのうなぎ。ほうれん草もここぞとばかりに山盛りにされている。用意された酒もやたら多いし、つまみや塩気の多いものも沢山ある。
「お酒や料理が足りなかったらまた呼んでね。食器は後で片付けるから頃合いを見て部屋を開けて下さいな。それじゃ若い2人でごゆっくりっ」
早口で説明をしたかと思えば音を立てず襖が閉まる。愛理さんの方の料理もレバーやオクラ、それに豚の生姜焼きにいかにも辛そうなキムチもついていた。
どれにしても栄養価が豊富というか、いわゆる精のつく料理というやつだ。
「ちょっとこれは、気の遣いすぎというか……」
「まぁまぁ、もともとここは魚介が有名でさ。このうなぎも蒲焼きじゃなくて帆引き煮っていうれっきとした郷土料理なんだよ。私もちょっと食べるから、ね?」
「そういうことならまぁ……いただきます」
残すのも相手に悪いし、と自分に言い訳してうなぎに箸をつける。なるほど煮物料理だけあって身にタレがしっかり染み込んでいて、確かにこれはうまい。
米にも合うがなにより酒が進む。夏にひれ酒はちょっと重いなと思っていたが、飲んでみると魚介の苦味やアルコール特有のエグみを感じない。少し効き過ぎているぐらいの冷房も熱燗をより際立たせた。
「どう、美味しいでしょ」
口いっぱいに米を頬張る僕を見て、愛理さんの顔がほころぶ。そういえば愛理さんの笑顔も久しぶりに見た気がする。今日はずっと心ここに在らずというか、何か別のことが頭に引っかかって離れないような様子だった。
「愛理さんも飲みましょ。このひれ酒美味しいですよ」
「ちょっとだけね。乾杯」
熱燗なのにきゅっと一口で愛理さんは飲み干した。やっぱり今日の愛理さんは様子がおかしい。すぐにつぎ酒を入れると、料理にも手をつけず中のヒレをくゆらせて遊ばせている。
「今日は付き合わせちゃってごめんね」
「全然。むしろ気を使わせて申し訳ないです」
そういいつつ愛理さんは次のひれ酒を口に入れる。今度はゆっくりと味わうように少しだけ口に含んだ。
「実を言うとみどりさんの家庭を調べてたらちょっと色々衝撃を受けてね。ちょっとヤケになっちゃったというか……訳わかんなくなっちゃって。だから気を使ったってよりも私のワガママに付き合ってもらってるだけなの」
「むしろ付き合わせていただいて光栄ですよ」
「言うようになったな?このー」
軽くなったコップ同士で乾杯する。陶磁器同士がカチンと澄んだ音を立てて、僕らは二杯目の酒をあおった。2人とも酔いが回って来たのか、本当に他愛もない話をしたりお互いの料理を交換しあったりした。
「そいでさ、理人くんは蒼さんの告白うけるの。ぶっちゃけ今日ずっとそのことが気になって仕方なかったんだけど」
「……告白されても断る予定です」
「えぇ〜、なんでー。みどりくんってスタイルも良いし、顔もいい感じじゃん」
「そもそもが勘違いから始まってますし、それに蒼さんは僕以外の男性の友人もいなさそうですから。もっと世界を知ってから判断してほしいんです」
こんな時にも正直に言えない自分が情けない。あなたのことが好きなので断ります、この一言が言えたらどれだけ楽だろうか。
「んまぁ一理あるけどぉー……」
そう言いながら彼女は最後のうなぎを取り上げて、大きなため息をついた。
「ため息をつくと幸せが逃げますよ」
「だってさー……。だって」
「明日じゃなくて今から話ますか?」
「いや、それはナシ。今日はもう仕事のことは考えたくないの」
「でもため息をつくぐらいには気になってると」
無言で頷く。
「気休めになるかは分かりませんが、僕だって今日みどりさんのことでちょっとショックなことあったんですよ」
「ショックって言ってもキスでしょ」
「違います。ちゃんと明日報告しますから。もしかしたら同じことで悩んでるだけかもしれません。三人寄れば文殊の知恵っていうじゃないですか」
「二人しかいないけどー」
「愛理さんは二人換算です」
「おだてすぎ」
まんざらでもない様子で日本酒をちびちび飲みながら、彼女は机にうなだれる。次の一杯を注ごうとしたが、最後の徳利も開けてしまったようだ。
「最後の一本も無くなっちゃいましたね」
「もうちょっと頼も~」
「明日に響きますよ、それに酔いつぶれたら女将さん経由で明美さんに伝わりますよ」
「あ”~~それはよくない。お水お水……」
ペットボトルの水を飲み干し、けぷと彼女は横隔膜を鳴らした。
「部屋開けてほしいって言ってましたし、ちょっと夜風にでも当たりましょうか」
「うん。それにここ一応温泉ついてるから、後で入ろうか」
「えっ!?」
「……ちゃんと男湯女湯は分かれてるからね」
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昼間は鳥の声でにぎやかだった竹林も聞こえなくなり、今では静謐な空気があたりを包み込んでいる。夜風が甚平の生地を優しく通り抜けて、愛理さんの髪の毛を優しくなでる。
「なんか理人くんとこうやって座ってると、鈴原村を思い出すね」
鈴原村。かつて僕と愛理さんが村の奇病の原因を探すために尽力した、僕らの初めての依頼だ。しかし良い結果で終わったとは言えず、僕らにとってはあまりいい思い出ではなかったはずだ。
「急にどうしたんです?あまりあの村の話はしたがらなかったのに」
「えっとね、その……今なら正直に言えるかなって」
「何を」
「あの時の選択、今でも私は間違ってると思ってる。もっと最善の選択肢はあったと思う。でもその結果として私は助かった。だからありがとうって、その、ほんとは言わなきゃなのに…これまで言えてなくて」
彼女の声のトーンがどんどん落ちていく。苦しかった思い出を無意識に反芻して、心臓がギシギシと握りつぶされる感じがする。助けられなかった人たちの顔が走馬灯のように走り抜け、僕らの周りに渦を巻いた。
「あれは僕が選択したことです。愛理さんは責任も義務感も感じなくていいんです」
「でも言わせて。あのとき助けてくれて、ありがとう。だから私は今はここにいる」
「……どういたしまして」
風がひゅんと音を立てて僕らの間を通り抜ける。あの事は終わった話なんだと僕らを諭すような、勢いはあるけど冷たくない、そんな風だった。
「……そろそろ温泉にでも行きましょうか」
「そうだね」
ぎぃぎぃと床を踏みながら進んでいく。空を見上げると、月は雲の間から明るく輝いていた。
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一通り温泉を堪能して身だしなみを整える。出口のところで少し待ってみたが現れなかったので僕は先に部屋に戻っておくことにした。
しかし部屋に戻ると予想だにしていない事態になっていて僕の思考は硬直していた。
先ほどまで料理を楽しんだ賑やかな雰囲気の部屋とは打って変わってオレンジの間接照明が照らす上品な雰囲気に包まれている。ライティングだけでここまで印象が変わるのかと感心したのも束の間、一つの寝具が僕の目を捉えた。
布団が大きいサイズのものが一つしかない。一瞬部屋を間違えたかと思ったが、僕らの荷物があるから部屋は間違えていないようだった。それに枕が2つ置いてあったことで、これらがあの女将の気遣いなのだと理解した。
どうしようかと部屋の中で考えているとパジャマ姿になった愛理さんが僕に追いついて、僕と同じように固まった。
「理人くん、これは……」
「僕が片付けたわけじゃないですよ。流石にちょっとやり過ぎだと思うので、連絡しようとしたところです」
「あーー……ちょっと待って」
愛理さんが頭をかきながら部屋の中に入る。テーブルの引き出しを開けると0.01と書かれた小さな箱が入っていて、僕らは深いため息をついた。
「流石に気遣いを通り越して迷惑じゃないですかね」
「理人くんの気持ちもわかるんだけど、安くしてもらってる身としてはね…。おばあちゃんの友人でもあるし」
「あー、まぁ、それは確かに。ちなみにいくら割引して貰ってるんですか」
愛理さんが目を逸らしながら指で3を示した。
「3000円?そのくらいなら全然話せば」
愛理さんが首を横に振る。
「まさか、3万?」
今度は縦に振る。さらにもう片方の手で、おそるおそる3を示した。
「……一人当たり?」
彼女がうなずく。はぁ〜〜〜〜と大きなため息が出て、僕らは畳の上にうなだれた。
「だからあんまり美琴さんの気を悪くはしたくなくて…」
「というかこれまで明美さん以外の人を連れて来た事は?」
「ないわけじゃないけど、言いたくない」
「もう今更言ってもいいじゃないですか。気になります」
「……音無ちゃん」
「あ、いや、その…ごめんなさい」
「いや、私がシラを切ればよかっただけ。私も言わなきゃよかった…」
布団を挟んだ2人の間の空気はドンドン重くなる。沈黙に押しつぶされそうで、僕は提案をすることにした。
「じゃあ僕がその辺で寝ます。畳なので寝心地も悪くないですし」
「いやいやいやいや、理人くんがゲストでホストは私だからそれはナシ。座布団側は私。身体も小さいし丁度いいはず」
「女性をその辺に寝かせて男が布団で寝てたら、それこそ僕が納得できません」
座布団を愛理さんからひったくって僕の陣地に固める。畳の上に座布団をまっすぐ並べようとすると、愛理さんは諦めたように布団の中にはいった。だが掛け布団を少しめくると、僕の方を見てぱんぱんと布団を叩いた。
「えっ」
「……入って。じゃないと大声で泣きわめくから」
「でも、その」
「2人が入るサイズはあるから、並んで寝れば問題ない……はず」
僕が入るのをためらうともう一度彼女が布団を強く叩くので、あきらめて布団に入ることにした。入るときに足がぶつかって思わず目が合う。愛理さんは少し顔を赤らめていて、僕も自分の状況を振り返って恥ずかしくなってきた。
「じゃ……おやすみなさい」
「…………変なことしないでね」
布団の端っこに限界まで身を寄せて、眠ることだけを考えるようにする。いつものように寝るだけでなんの問題もない、羊でも数えよう。そのはずなのに意識は背中側に集中していく。愛理さんの息は聞こえない。僕の心音が聞こえていないか心配になるくらいに静かだ。一瞬にして寝てしまったのだろうか?
2〜30分は経ったころだろうか。突然お尻に柔らかい接触があって思わず下半身に力が入る。眠気で少し気がゆるみ、腰を丸めてしまっていたようだ。諦めて仰向けにして半身を出して寝ることにする。
半身の寒さに慣れかけたぐらいで小指に何かが触れた感触があり、彼女の指が僕の指に触れた感触だと気づくのに時間はかからなかった。愛理さんも同じように考えて仰向けになったのだろう。そう考えるとなんだか少し可笑しい。
しかし突然、彼女の指が僕の手の甲に重なって指と指の間に絡みつく。
全く予想外の出来事に僕の心臓は大きく跳ねた。誘われるように人差し指と中指が擦れ合い、小指と親指が交わり合う。手のひらに薬指を這わせ中指の先を人差し指と親指でつまみ、彼女の人差し指が僕の親指の爪を撫でる。
「あの、愛理さん…?」
返事はない。流石に自分でもわかる。これはそういう合図だ。僕が彼女に返す仕草も、つまりはそういう事だ。僕が彼女の手を握ると、重ねるようにもう片方の手で握り返してくる。
そうして僕は彼女の息遣いを初めて感じた。緊張から鼻息は震えていて、それでいて小刻みのリズムで上下している。彼女の息遣いをもっと感じたくなり、彼女の方に身を向ける。
月明かりすら届かない暗闇の中で、愛理さんの表情は見えない。愛理さんは僕の身を剥がすどころか僕の手を彼女の腹部まで引っ張った。それは僕の返事を受け取った事を示していた。
空いた手で彼女の腰に手を回して、彼女の身をこちらに寄せる。んぁっ、と軽く彼女の口から声が漏れて、僕と愛理さんは両手一個ぶんの距離まで接近した。
そのまま僕らはお互いの鼻息を交換しあった。彼女が僕の足の間に片足を挟み、僕は絡んだ手を慎重にほどいて彼女の頭を僕の胸に寄せた。
完全に密着して初めて、僕は愛理さんの小さな身体がしっかりと女性の身体つきをしている事を知った。彼女の肉体を楽しもうと腰に当てていた手をゆっくりと下にずらす。彼女はそれに応じるように全身を僕の胸の方に寄せ、唇と唇がもう触れ合うぐらいの距離まで近づく。
チャランチャラン!!
直後、部屋中に警報のサイレンが鳴り響いた。
『緊急地震速報、緊急地震速報。茨城県南部にて地震発生、
推定震度は5弱。強い揺れに気をつけて下さい。発生地域はーー』
「茨城県南部ってここじゃん!」
彼女が布団から飛び上がり、ドタドタ動き出す。
「理人くん!!地震!!!」
ようやく事態を理解した僕は電気をつけてエアコンの位置を確認し、襖を少し開ける。まだ揺れが始まっていないことを確認して安全そうな角に陣取り、立てかけてあったちゃぶ台を盾の用にして頭を守る姿勢をとった。
それからのことはあまりちゃんと覚えていない。無茶苦茶に身体が振り回されて、僕は必死に柱をつかみながら上からものが降ってこない事を祈った。
揺れがおさまって間もなく美琴さんが慌てた様子で僕らの安全を確認しにきて、僕らはお互いの無事を確認する。先ほどまでの淫靡な雰囲気は、生命の危機の前に完全に消え失せていた。
「二人とも大丈夫!?」
「ちゃんと隠れたから大丈夫」
「僕も問題ないです」
遠くから外国人の声が聞こえてくる。地震はあまり慣れていないのだろうか、かなり怯えているようだ。
「良かった……。じゃあ私あっちのお客様の様子見てくるから、何かあったら内線してね」
「了解です」
「そいじゃねっ」
ぴゅーと美琴さんは駆けていってまた部屋に二人っきりになった。さっきまで自分がしていたことを思い出して心臓がバクバクしてくる。愛理さんの視線に気づいて僕は慌てて布団で身体を隠した。
「わたし、トイレ行ってくる」
「はい……」
彼女が部屋から出ていって僕も息遣いがだんだん戻ってくる。はぁー、と大きなため息をついて自分の血流が元に戻りつつあることを確認した。滝のように流れる汗をぬぐいながらさっきまでの事を振り返る。
僕は愛理さんに何をしていた?愛理さんは僕に何を求めた?さっきの感触が脳裏にこびりついて離れない。
二人とも様子がおかしかった。愛理さんは普段からボディタッチは多い方だけど、こういうことの線引きはしっかりしてたはずだ。さっきまでのは何かの気の間違い。お酒が入りすぎてお互いちょっとテンションが上がりすぎただけ。ひとまずそう考えよう。
僕が唸っている間にも騒ぎもひとまず収束を迎えたようで、気づくと竹山亭は再び宵闇の静寂に包まれていた。ほっとすると全身からどっと疲れがあふれ出てきて、僕の意識は愛理さんの帰りを待つことなく夜の中に溶けていった。
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