第十話 蒼の影 ⑤
「おはよ、理人くん」
目が覚めると右隣から声が聞こえる。普段聞く声よりもずっとその距離が近くて、朧気だった僕の意識は急速にはっきりとした。
身体を起こすと僕は布団で寝ていたようで、隣には愛理さんがうつ伏せになりこっちに顔を向けている。
「おはようございます。愛理さん」
理由はわからないけど名前を呼びたくなって返事をすると、愛理さんもそれにこたえるように微笑んだ。
陽光が部屋を暖めて、コバトやシジュウカラの声が朝を告げる。昨日の出来事など幻だったかのようま穏やかな空気に包まれていた。
「そろそろ朝食の時間だから、布団から出ないとね」
「ああ、ええ。はい」
本当に昨日のことは幻だったのだろうか。起き上がって机を見ると、地震などなかったかのようにきれいに片付いている。愛理さんは浴衣姿だし、例のコンドームも見当たらない。食卓の席についても彼女は普段通りの様子で、僕はただその平穏に困惑していた。
「「いただきます」」
食事中もこれといった会話もなく黙々と食べ、何事もなく部屋への帰路につく。部屋に戻るとき食事の味について少し意見を交わしたが、昨晩の事や地震のことについては一切触れなかった。勘違いや夢だった場合を考えると僕から言い出せるわけもなく、そのまま2人で部屋に戻った。
「じゃあ昨日話したとおり、部屋に戻ったらみどりさんについての情報交換をしようか」
「ええ……わかりました」
……愛理さんは少なくとも何事もないかのように見える。部屋に戻ってからも変わらず、僕らは黙々と資料を共有する準備を始める。
状況が変わったのは僕が書類の束をテーブルから滑り落としてしまった直後だった。
慌てて拾い集めようとすると愛理さんがそれを手伝って、ふと僕と目が合う。目が離せないまま手探りで書類をかき集めたせいだろうか、2人の手が不意に重なりあった。
少し沈黙が流れたが、愛理さんが僕と同じことを考えていることに気づくのに時間は要らなかった。
目を合わせたまま2人の距離が近づいて、ゆっくりと唇を重ねる。
理性のタガがはずれ、昨日のように肩を合わせ唾液を貪るように交換する。舌の形を確かめあって、僕の肩甲骨や脊椎を彼女の手が這う。
一度口が離れても彼女が求めるように顎を上げ、僕は欲望のままに唇を奪い愛理さんは喜悦の声を漏らした。熱を持った息が交じり合って、息が続かなくなるまでそれぞれの舌が絡まる感触を楽しんだ。
呼吸するために顔を離すと、愛理さんの浴衣が着崩れていることに気づいた。視線はその隙間に吸い寄せられる。視線に気づいた彼女が反射的に身を引いて手で隠す。
が、ゆっくりとその手を退けた。
「理人くんの……好きにしていいよ」
本能のまま彼女を押し倒し、彼女の逃げ道をなくす。彼女も形だけの抵抗しかしない。
しかし不意に目に入った一枚の書類が僕の身体をせき止めた。みどりさんのイジメの記録。望まない男との強制的な性行為……加害者の男は卒業アルバムに済と書かれていたことも思い出す。
理性が僕を急速に現実へと引き戻した。思考がクリアになり、蒼さんのことが頭をよぎる。解離性同一性障害の症状に辛いことから逃げるため人格を入れ替えることもあったはずだ。ーーーもしみどりさんが強姦されると気づいた時に、蒼さんに交代したとしたら?
「どうしたの?」
愛理さんの声で視線を引き戻される。彼女のスポーツブラは汗が染み込んでところどころ色を変えている。息に合わせて横隔膜が上下して、控えめな丘の上で乳首がその存在を主張している。
触りたい欲求が僕の手首を掴んで離さない。しかし同時に僕は書類からも目を離せずにいた。理性と本能がぶつかり合って、僕はキスで妥協するという結論を出した。舌同士がねちっこく絡み合い、キスの終わりには名残惜しそうに彼女が舌を伸ばした。
「これ以上は……今はできません」
「怖いのは私も一緒だよ」
「そうじゃなくて、蒼さんのことで」
「…………それは今の私より、大事なこと?」
彼女の手が僕の頬に触れる。頬は椿の花のように朱に染まり、とろんとした目が求めるように僕を見る。しかし彼女の欲求とは裏腹に、僕の頭の中で冷たい現実が警鐘を鳴らしていた。僕らはここに何をしに来たんだ?少なくとも性欲を満たすためでは無いはずだ。
「蒼さんの件は…命に関わる問題です」
「その言い方はずるい」
「それに彼女の受けたイジメの中には、望まれない形での……そういう行為もあったんです。だからなんて言えばいいのか、続きは依頼が終わってからじゃ無いとダメなんです」
愛理さんの手が離れて、僕の視界の外に出る。
「じゃあせめてこのままでいて。私がいいって言うまで、私のことを見てて」
彼女の左肩が細かく動き始めて、僕はすぐに愛理さんがやっていることを理解した。右手が僕の身体をペタペタと触り、左肩の動きが激しくなっていく。次第に嬌声が押し殺せなくなって、湿った息が僕の鼻腔をくすぐる。ぐちぐちと何回か音が鳴った後、くぅ、と噛み殺した声を上げて彼女が痙攣した。
惚けた彼女を見て僕が視線を外して退こうとすると、彼女の右手が僕の背中に回り、それを静止した。来てと言わんばかりに背中側から力を入れてくる。彼女を押し潰さないように慎重に身体を下げようとするが、力の限界がきて僕は彼女にのしかかる形になる。愛理さんの身体が、形が、僕の全身にハッキリと伝わってくる。
「愛理さん、その、そろそろ限界で」
「……私には我慢しなくてもいいんだよ」
僕のそれが彼女のお腹に触れたのが理由か、彼女の言葉のせいか、何がトリガーかはわからない。気づくと僕は布越しに彼女に向かって精液をぶちまけていた。
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それから愛理さんの提案で一度温泉でさっぱりして気持ちを切り替えようという話になり、僕はあの時踏みとどまった事を激しく後悔した。倫理的に正しい選択だと頭の中で必死に言い聞かせるも、せめて彼女の気持ちだけでも聞いておけばよかったという悔恨が頭の片隅にこびりついて離れなかった。
身を清めて部屋に戻る途中の廊下で愛理さんと鉢合わせになった。すみませんでしたと彼女に謝ると、愛理さんもごめんねと小さな声で呟いた。部屋に戻るまで風呂上がりの彼女の姿を意識しないよう精一杯耐えることしかできなくて、ロクな会話を交わす事はできなかった。
部屋にもどると2人がした事の痕跡がハッキリと残っていて、苦笑いしながら部屋を片付けることにした。部屋を綺麗にした頃にはもうお昼の3時を過ぎてしまって、上手くいかないねと2人で笑い合った。
愛理さんがこほん、と咳払いをする。
「それじゃ、みどりくん・蒼さん対策会議を始めます」
僕も思わず背筋が伸びる。彼女の一挙手一投足はハキハキとしていて、カバンから効率よく資料を並べはじめる。部屋は先ほどまでの甘ったるい空気はどこへやらというように、仕事モードの彼女が話し始める。
「とりあえず理人くんと蒼さんの……その、いきさつを教えてくれないかな」
「わかりました」
僕はこれまでの経緯について今度は隠し事せずに話した。大学の図書館で二重人格について詳しく調べようとしたら、みどりさんに扮した蒼さんとばったり会ったこと。つい蒼さんの名前を出してしまって自分が蒼さんのことを知っていることがバレたこと。そこから仲良くなって遊びに出かけたこと。打算的だった自分のことまで、正直に話した。
「なるほど……。普段押し殺していた感情が爆発してそういった欲求が理人くんに向かったんじゃないか、と」
「もちろんそうですけど……ニュアンス的にはどっちかっというとこれまでの彼女の取り巻く環境がそうさせたんじゃないか、と」
「普段しゃべり相手がいなくて、男性経験もなくて、そんな時にイケメンの僕が現れたら惚れるのも無理はないなーって、理人くんはそう言いたいわけだね?」
「そうじゃなくて彼女の精神年齢の方です。記憶の共有がないってことは彼女の過ごしてきた時間ってのは普通の時間経過よりずっと遅い可能性が高いってことです。2週間に1度だとしたら1年に彼女が過ごす時間は26日ぐらいです。仮に16の時に生まれたしても、彼女は100日ぐらいしか過ごしていないことになる」
愛理さんはペンの頭をカツカツとちゃぶ台にぶつけている。
「精神的に幼いから大人の理人くんに惚れちゃいました、って?」
「そうじゃなくて、異性に対する興味や関心と恋愛みたいな感情を混ぜこぜにしちゃってるんじゃないかって感じです。……というかなんか普段より言い方キツくないです?」
「そんなことないですー。仕事モードだからそういう言い方になってるだけですよーだ」
「ですよーだじゃなくて、真面目にやってください。そのためにここに連れてきたんですよね」
「だってそれは理人くんが!」
両手で机を強く叩き彼女が吠えた。僕が彼女に何かしたのだろうか、蒼さんに嫉妬……と反射的に思いついたがすぐに棄却した。流石に自分に都合よく考えすぎだ。そうやって僕が思考を張り巡らされていると、愛理さんも落ち着いたのか姿勢を直した。
「………ごめん。ちょっと感情的になりすぎた。蒼さんの話に戻ろう」
「了解です。原因はさておき、僕は蒼さんの感情は勘違いや過剰な反応の類だと考えています。それからこれも見てください」
蒼さんからもらった書類をテーブルに置く。イジメについての生々しくも禍々しい記録だ。愛理さんも目を通しながら苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている。正直に言えば僕も直視したくない。
「何この記録」
「みどりさんが高校生の時代に受けたイジメの記録です。実態としては中学生の頃から始まっていたようですが、本格化し出したのは高校生のころです」
彼女が手に持っているのは動物虐待の記録だ。みどりさんがこっそり育てていた犬に同級生が集団で暴行を加えたという事件だ。すぐ後に子犬をみどりさんが発見、動物病院を探すもたどりついた頃には既に息絶えてしまっていた。同級生たちは子犬が噛みつこうとしてきて正当防衛だとお咎めも無かったらしい。わざわざ生前と死亡直後の画像を添付されていたり容疑者やその理由まで書かれているのは、絶対に許さないというみどりさんからのメッセージなのだろうか。
「高校生の残酷さって、ここまでのものなの?」
「社会性が暴走し出す時期ですから、善悪の判断より共同体のルールを優先した……と解釈するしかありません」
僕もそう切り出してはみたものの、やりきれない。殺人ではないにしても確かに命が奪われているんだ。それに1人の人の心も。
愛理さんは口を覆いながらイジメの記録をぺらぺらと駆け足で捲る。もう見てられないといったような様子だ。でもこれは実際にみどりさんと蒼さんに降りかかった出来事なのだ、これらの残虐な事件は現実に起こった事なのだ。
ふとページを捲る彼女の手が止まる。最後の2ページ、卒業アルバムの写真のページだ。
「え、なに、これ」
「みどりさんはイジメの主犯格の生徒の進路先を独自に調べ、これらの書類を送信しているのだと……思われます」
「立派な恐喝じゃないか……というか思われますってどういうこと?理人くんはこれをみどりさんから受け取ってない?」
「ええ。書類自体は蒼さんから」
愛理さんは何かを察したように顔を上げた後、そのまま頭を抱えてテーブルに突っ伏す。
「あーーー、蒼さんじゃなくてみどりくんの方かぁー……」
「はい。蒼さんからこの書類と一緒にみどりさんを止めてほしいと頼まれたんです」
「もうみどりくんがどんな人かわかんなくなっちゃったよ……」
今度は小動物みたいに身体を丸めてうなり声をあげる。僕だって泣きだしたい気分だ。
「そういえば、愛理さんもみどりさんの事でショックを受けたっていってましたよね」
「……うん」
「じゃあその話をして下さい。2人で考えれば何かわかるかもしれません。ほら、三人寄ればってやつです」
「うん……話す……」
机を片付けようとすると書類は少ないから、と彼女に制止された。愛理さんはいつも使っている調査用の手帳を取り出すとそれを読み上げだした。
「まず私は学生時代のみどりさんの調査をするために、母校の高校を訪ねることにしたの。まだギリギリ当時の担任の先生が残ってる可能性があるかなって思って、それで案の定担任の先生がまだ在籍してたんだ」
「みどりさんの話が聞けたんですね」
「うん。丹羽先生っていう人なんだけど、イジメを止めようとしてくれてたってのをみどりさんから聞いてるから信頼できる話だと思う」
「それでどんな生活をしてたんですか」
「それが……」
彼女が少しためらうように頭を掻きむしる。
「もったいぶらずに話してください」
「ごめんごめん、言葉選びが難しくて……。その、最初のころはちゃんとしたイジメとして学校内でも問題になってたんだけど、ある時から問題じゃなくなったというか……問題にするのが難しくなったの」
「イジメを追及できなくなったということですか?」
「……うん。高校二年生のころぐらいからやり返すことが多くなったらしくて、それで先生も擁護するのも難しくなっちゃったらしくて」
「自己責任論だったり、イジメされる方にも原因がある的な」
それを聞いた彼女は諦めたように首を横に振る。
「簡単に言えば、一方的なイジメではなくなったってこと。高2ぐらいからやり返す事がぽつぽつ増えてきて、丹羽先生も最初は正当防衛だとかで見逃してたんだけど……」
「何か見逃せなくなった事情ができた、ということです?」
「そう。やり返しの内容が過激になったというか、イジメというより喧嘩な感じで、片方だけの味方ができなくなったんだ」
「もっと具体的に、やり返した内容を教えて下さい」
「その……喧嘩相手に噛みついたり、夜な夜な学校に侵入してイジメっ子の机を破壊したり、授業中に突然後ろから蹴とばしたり……」
またみどりさんの暴力性だ。彼女について知ろうとすればするほど、彼女の残酷性が色濃く見えてくる。確かにみどりさんとはまだあまり話せてはいない。それでもあの事務所でおどおどしていた彼女が、他人の机を破壊したり人に噛みついたりするのだろうか。
「つまり、もう証拠は揃ってるんだよ」
「証拠、ですか?」
「うん。みどりくんがイジメの復讐を高校2年ごろから始めて、それが今も続いてるということ。問題はどちらのみどりくんなのか。妥当そうなのは3パターン。
①みどりくんに陰ながら暴力性がある。
②蒼さんがみどりくんのフリをして暴力性を発散している。
③2人が共犯でお互いに暴力性を隠しあっている」
「①と②はまだわかるんですが、③のパターンもあるんですか?」
「うん。少なくとも大学に来るために上京して来た時点で、蒼さん視点だと生活がガラリと変わったはずだ。でも彼女は大学に通えてるし生活も問題なくできてる様子だった…んだよね。でも考えて欲しいんだ。大学の授業の構成上、望んだ講義に出席するのは副人格の人にとってはすごくハードルが高くないかな?」
「……たしかに、教室にいけばOKの高校とは違いますもんね」
大学の1〜2年のころは共通学科といっていくつかの授業から自分で講義を選択して履修する必要がある。つまり蒼さんが大学に来るという事は、みどりさんがどの講義を履修しているか・それがいつどの教室で行われるかを把握する必要があるわけだ。確かに、記憶の共有をしていないと考えるとこれはかなりハードルが高い。
「だから少なくとも蒼さんはみどりくんが普段どう過ごしてるかの情報を持ってるはずなんだ。共有元の候補は高校の頃からの友人の平野さんか、みどりくん本人が今のところ濃厚」
「平野さんの場合は②で、みどりさんの場合は③ということですね」
「理解が早くて助かるよ。ほかにも④⑤とあげてけばキリがないんだけど、他の可能性は現状では情報不足でなんとも言えない」
「情報不足ですか……」
そう言いながら愛理さんはくるくるとペンを回しながら手帳のページを雑に捲る。僕は愛理さんだったらズバッと答えを言ってくれるものだと勝手に期待していた自分を心の中で恥じた。
「うん。結局私は名探偵ではないし、泥臭く情報をかき集めていくしかないんだ。次はみどりくん自身にアプローチをかけようと思う。まずは④⑤の可能性を潰したい」
彼女の唇が不満そうに膨れる。僕も他の解決策を考えたが、彼女の言葉を噛み砕くのにやっとで案の一つも出てこなかった。彼女が名探偵でないように、僕も名助手ではないのだ。それでも確実に前進はしているんだ。まずはそのことを喜ぼう。
「ちなみに④⑤の可能性ってなんですか?」
「④暴力性のある第三の人格があり、犯人はみどりくんでも蒼さんでもない。
⑤ここまでの一部もしくは全てがどちらかの一人芝居で、私たちは別の目的のため調査をさせられている」
「はー、なるほど。確かにその線が在ったら嫌ですね」
「うむ。まぁ流石にそんな可能性ないとは思うけど、念のためね」
さすが愛理さんだ。ウンウン唸っていた割にはちゃんと整理できるじゃないか。これまでの事件だって迷ったときにいつも道を示してくれる。僕の方がが正しい選択をできるだなんて言っていたけれど、それはお世辞が過ぎるというものだ。
「じゃあ今日帰ったら、みどりさんに会えるか連絡しますね」
「うむ、善は急げだ。明日の昼過ぎぐらいで頼むよ」
しかしこの時愛理さん任せになっていたことを、僕は後で激しく後悔することになる。
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