第八話 蒼の影 ③
翌日、念のため早起きをしてみどりさんの確認に向かう。ミニバンは愛理さんが持って行ったので電車を使い、いつも使っている駐車場に陣取った。
看板の裏に身を隠して鞄から双眼鏡を取りだ……せない。そういえば僕の探偵用具もミニバンに置きっぱなしだったような気がする。悔しいが今は肉眼で頑張るしかない。
覚悟を決めて立ち上がると、フェンス越しに彼女と目が合った。
「やっぱり、理人くんだ」
みどりさんがそこに立っていた。しかし普段と異なりその姿勢はスラっとしている、つまり彼女なのだろう。全身に嫌な汗が出るのを感じる。
「えっと、みどりさん……じゃないよね?」
「うん。でも理人くんはここで何してたの?」
蒼さんは笑顔だがその目は笑っていない。蒼さんから見たら今の自分は完全に不審者だし、まったく妥当な判断だ。首の裏がチリチリと痛みだす。
「あっ、えっと。その……たまたま近くを通りかかったというか……」
「ふーん。もし双眼鏡とか持ってたらストーカーとして通報してたとこだよ」
探偵用具を愛理さんに持っていかれたのは不幸中の幸いだったようで、僕は心の中でため息をついた。
「寝起きでまだぼーっとしてるんだけど、前回の僕から何日経ってるのかな」
「えっと、あったのが先週の水曜日だから…5日かな」
「ありがとう、そっかー……」
そういって彼女はサコッシュから手帳を取り出して確認する。寝起きという割には化粧もしっかりできているし、すらっと立っているためか普段よりずっとしっかりしてるように見える。
「んー、必須単位じゃなさそうだし1日ぐらい大丈夫、かな」
そうポツリと呟くと、僕の手を握った。胃がきゅーっと締め付けられ、首から背中にかけて汗を伝う。
「今日もデート、しない?」
首の後ろのチリチリが表側に回り、僕の首を柔らかく締め付ける。必死に唾を飲み込んで喉の通りを確保し、次の言葉を考える。
この誘いを受ける前に僕は筋を通さねばならない。彼女の勘違いを都合よく利用した僕の打算を、正直に打ち明けるしかない。
このまま胃の中身を彼女の顔に吐き出すか、それとも正直に罪を吐き出すか……追い詰められた僕に選択の余地はなかった。
「ごめん、それよりまず蒼さんに話したいことがある」
「どんな話?」
怪訝そうに見つめる蒼さんから目を逸らし、僕は頭を下げた。
「僕は……みどりさんに信用されて蒼さんのことを聞いたわけじゃないんだ。その、仕事の関係でみどりさんから聞いただけなんだ。少なくとも、蒼さんの想像してるような関係性……ではない」
蒼さんの様子はわからない。まるで首を落とされるギロチン台の上にいるような気分だ。
「それは……僕を…あ、、その、」
「騙していたことになる」
彼女の戸惑う声が矢のように僕の身体を貫く。でもこれは打算的な行いへの当然の報いだ、胸の痛みなんて彼女が今受けているショックと比べることすら失礼だろう。
すぅーー、と彼女が深く深呼吸をする。
「もうちょっと、ちゃんと説明してほしい。仕事の関係ってのは理人くんの仕事なの、それはどんなの、どうして仕事で僕の話が出てくるの」
蒼さんのは先ほどより落ち着いていたが、変わらずは震えていた。いっそ激昂してくれた方が気持ち的には楽だった。
説明しようと顔を上げると蒼さんと目が合う。今にも泣き出しそうな彼女の目が、咎めるような視線を僕に送る。正直に答えることが今の僕にできる精一杯の誠意だった。
「僕の職業は……探偵の助手。依頼者はみどりさんでその時に蒼さんの事を知らされた」
「依頼の内容もちゃんと教えて」
その一言はまるで死刑宣告かのように僕の心臓をぎゅっと握りつぶした。
彼女に依頼内容を伝えたらどんな表情をするだろうか。今ですら限界の瀬戸際にいるように見えるのに。
「大丈夫。裏切られるのは、慣れてるから」
彼女の充血した目が、その態度はただの強がりだということを示している。平野さんとの会話が頭の中で反響する。
―――マスコミかどうか。高校の事は話せない。本人にも絶対聞くな。
彼女は大人びてこそいるが、物心ついてからそこまで時間はたっていないはずだ。みどりさんの方が主人格である以上、多く見積もっても普通の人の人生経験の半分程度しか積んでいない計算になる。
「今は、言えない。でも必ず蒼さんに話す」
「いつ目が覚めるかわからないまま、理人くんを信じて待てって事?」
「そうじゃない。今日話す。でもそのためには準備がいるから、今は話せないって事」
「……じゃあ、準備ができるまで僕はどうすればいいの」
「蒼さんがよければなんだけど、一緒にいよう。前話してた蒼さんのお願いを聞かせてほしい」
ぐしゃぐしゃになった彼女が頷き、崩れ落ちるようにしゃがみ込む。僕はどうしようもないクズだ。結局彼女の優しさに甘えて打算的な提案をしている。
「分かった。けど僕も準備があるから、後で連絡するからその時に来て」
そう言って逃げるように家に戻る彼女を、僕はただ茫然と見つめていた。
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12時を過ぎたころ、蒼さんから『会いたい』と連絡があった。どうやら彼女は、まだ僕のことを信じてくれているらしい。
極力彼女を刺激しないよう、はやる気持ちを抑えゆっくりと呼び鈴を鳴らす。すぐに音もたてずドアが開き蒼さんが姿を現した。その視線は下を向いていてうまく表情は読み取れない
「ごめん、化粧直すのに時間がかかって」
彼女は普段より厚化粧だった。きっと涙の痕を隠すためだったのだろう。目尻に引かれた濃いアイシャドウが、裏切られた彼女の悲しみの大きさを僕に示していた。
僕の視線に気づいたのか彼女はぷいっとそっぽを向いて一歩前へと進んだ。
つられて僕も一歩進もうとすると彼女が再び振り返り、僕の胸を手で押さえて制止させた。不安そうな彼女と目が合う。前髪の間から不安げに見つめる彼女の瞳は、まるで肉食獣を目の前にした小動物のようだった。
「玄関先で話した方が安心するかな」
「違うの。ただちょっと、思ったより心の準備ができてなかっただけ。大丈夫。ちゃんと受け止めるって決めたから」
そういって促されるまま廊下をわたってダイニングキッチンへと向かう。家族向けのテーブルに椅子もしっかり4人分あり、一人暮らしには不釣り合いだと少し違和感を覚える。彼女がそのテーブルの一番奥の席に座る。
「座って」
促されるまま、僕はその真正面の席に座った。テーブルの上にはお茶といくつかの見慣れない書類が広げられている。
「それで、どっちから話そうか」
そう僕が言い終わるよりも先に蒼さんが口を開く。
「僕のお願いから話した方が早いと思う」
そういって彼女はすぅと少し息をのむ。僕は思わず姿勢を正した。
「みどりの暴走を止めてほしい。理人くんにはみどりを説得してほしい。僕の依頼はそれだけ」
そういって渡してきた資料を見て僕は自分の目を疑った。学生時代のイジメの証拠写真や会話の録音記録、イジメでできた傷などの治療記録。
「これ……どういうこと?」
治療の記録から目が離せなくなる。切り傷・根性焼きの痕、それらを治療するための整形治療。そのグレーのカーディガンの下にどれだけの痛みが隠されているのだろうか。
しかし次に彼女が口にしたのは、僕のまったく予想外の言葉だった。
「むしろ聞きたいのはこっちさ。それが彼女の依頼で、受けるのが理人くんの仕事だとして、それでもなんというか……これはやりすぎだと思う」
「違う、違うんだよ蒼さん。僕らがみどりさんから受けた依頼はこんなのじゃない」
少しの間、沈黙が流れる。
「じゃあこれは何なの。なんでこれがみどりの机に入ってたの」
書類を改めて手に取り、もう一度しっかりと目を通す。最後のページには学生の写真とその下に学校や企業の名前が羅列されている。彼女の他に平野さんの写真もあり、×印やチェックマークが書かれている写真もある。
「これ、卒業アルバムですか?」
蒼さんが苦虫を噛み潰したような表情でうなずく。
「うん。しかもみどりのクラスのやつ。それで写真の下の学校とか企業名は、多分その子たちの進路先だと思う」
ひどく残酷な考えが僕の頭をよぎった。イジメや治療の記録を手に取る。
「もしこれを、進路先にに送ったりしていたら……」
「学校や職場は迷惑するだろうね」
つぶやくように言った彼女のからはみどりさんへのかすかな失望を感じさせた。
「×印はイジメに加担していない人だと考えると、僕の記憶とも辻褄が合うんだ」
平野さんの顔にも×印がついている。人の顔写真に×を書くのもあまりいい印象はないが、それでも僕は心の中で少し安堵した。平野さんの隣の男子にはチェックマークがついている。
「じゃあこのチェックマークは」
「考えたくないけど……もう送った人だと思う。嫌な思い出がある人が優先して送られてるように思う」
つまりこれはみどりさんの復讐のリストだ。彼女は連絡先に記載されているリストに先ほどの資料ないしはその一部を送っている。
「でも、僕はみどりがこういうことをする人だと思えない。だからきっと何か原因があると思うんだ。……理人くんがよければ、原因を調査してそれを止めてほしい」
そうやって蒼さんが頭を下げる。でも僕の頭の中はみどりさんと話してこなかった事への後悔でいっぱいだった。大人しそうに見えた彼女の裏にそんな暴力性があったなんて。それに気づかず僕はいったい何を調査していたんだ。
「理人くん…?」
彼女の不安そうなで我に返る。
「ごめん。ちょっと予想外過ぎて脳の整理ができてなかった。僕もみどりさんが本心からこんなことするなんて考えられないし、ちょっと気を付けておくよ」
「ありがとう…。理人くんならそう言ってくれると信じてたよ」
「買いかぶりすぎだよ」
蒼さんの笑顔を久しぶりに見れて、僕は心の中で息をついた。
「それで、理人くんの依頼って……どんなのかな」
「あ……」
その言葉で僕は彼女の暴力性について忘れていたことを激しく後悔した。―――イマジナリーフレンドを消してほしい。そう彼女が言った情景が走馬灯のように僕の頭を駆けめぐる。
「その、えと……」
「大丈夫。どんな内容でも理人くんを信じるって決めたから」
蒼さんがショックを受けないよう、僕は慎重に言葉を選んだ。
「まず、最初に言っておきたいことが二つあって、一つ目はみどりさんの暴力性について話を聞いて思い当たる節があったんだ。それを話今まで失念してた、ごめん」
真剣な顔つきで彼女がうなずく。
「そしてもう一つ、こっちが本題。僕は蒼さん味方になるって決めたから、これから話すことにショックを受けないでほしいんだ。いいかな」
テーブルに映った彼女の影が再び上下に動いた。
「みどりさんの僕らへの依頼は、その……イマジナリーフレンド、つまり蒼さんを消す方法を探すことなんだ」
それを聞いた蒼さんはすすり泣くことも、大声を上げることもなかった。ただ一度だけ息を吐いた後、グラスのお茶をゆっくりと飲んだ。
「……実は、なんとなくそんな気はしていたんだ」
「えっ」
意外な返答に僕は言葉を見失った。
「みどりは自分の過去を清算したがってるように見える。いい思い出も悪い思い出も全部捨てて、奇麗な環境を作ろうとしているんじゃないか、と」
「綺麗な環境?」
「うん。大学生活で新しい自分として生きていこう、そのために過去に踏ん切りをつけようと。この書類だって復讐が目的じゃなくてこれでお互い様っていう手打ちの意味と考えれば……無理やりだけど解釈できる」
「蒼さんちょっと待って。要するにみどりさんは君が邪魔だって言ってるんだよ?殺したいって言っているようなもんだ、なんでそんな冷静でいられるんだよ」
再び彼女はグラスに口を付けて、ぐっと中の液体を飲み干した。
「それは僕の望みでもあるからさ」
「え……は?」
「言葉の通りさ。もともと僕はみどりが辛くなった時の一時的な交代要員でしかないんだ。もしあの子が僕を必要としなくなったなら、それは僕の役目が終わったってこと。潔く彼女の人生の邪魔にならないように見守る立場に戻るのが筋だと思ってるよ」
「でもそれで蒼さんはいいのかよ。蒼さんだって将来の夢とか……やりたいこととか、」
「うん。あるよ」
僕の言葉を遮って彼女がぽつりと呟いた。
「この前初めてお酒を飲んでとても気分がよかった、また飲みたい。自分の気持ちを素直に話せたこともうれしかった。僕自身のままで遊ぶのがこんなに楽しいんだって、初めて知った」
「じゃあなんで」
「だってこの身体は、僕のものじゃないんだよ」
残酷な正論を前にして、僕は返す言葉が見つからなかった。
事実としてみどりさんは別人に身体が支配されることを悩んだ末に僕らに仕事の依頼をしてきている。安易に蒼さんに君は生きていいと言ったとて、慰めにもならないだろう。
「……だから理人くんには、僕を消すっていう依頼を引き続き続けてほしい。そしてこのの脅迫まがいの復讐を止めてほしい。理人くんがそれだけ約束してくれたら、これまでのことは全部許す」
「そんな言い方……」
彼女の声は震えていて、強がりをしているように見えた。それと同時に強がりを貫き通す覚悟も感じていた。一つの身体に二つの心、歩める人生は一つだけ。ならば自分が退いて道を譲ろうというのが彼女の意志なのだろう。
「だめ、かな?」
返答を急かすように彼女が僕を見つめる。彼女の望みとは裏腹に、僕の心は消化不良のようなむかむかとした気分に包まれていた。辛いときに身代わりにするために生み出しておいて安定したら邪魔だというのはあまりにも理不尽じゃないか。
僕だったら嫌だ。いくら元は主人格の身体だからとて、人格がある以上生きる権利だって主張してもいいはずだ。週3週2なり分担するとか……せめてたまに出てくるのぐらいは許してくれとは思う。
「ごめん、僕は君に消えてほしくない。あくまで2人が共存できる道を探そうと思う」
「…………理人くんは優しいんだね」
そんなことない。これはただのエゴだ。でも誰か1人ぐらいこの子の味方だったってバチは当たらないだろう。たとえ本人に生きる意思がなかったとしても、生まれてきた以上は生きる権利があると思ったのだ。
「あ、そうだ!これからお昼にしようと思ってたんだけど、一緒にどうかな?」
少し上ずった声色で彼女が沈黙を破る。
「ごめん。この後事務所でちょっと用があるから、今日は退散するよ」
「あっ…ごめん、そうだよね。探偵業も忙しいもんね」
反射的に断ってしまった。溜まっている事務処理の期限が迫っているのも気になる。でも本音を言えばこのままこの家にいては何か……不可逆的な事態に陥るのではないかという危機感があった。
それから彼女から書類を受け取り、僕は頭の中でこれからどう調査すればいいかを改めて整理していた。
1人の人生を生きたいという依頼と、イジメの復讐を止めて欲しいというもう一つの依頼。……それを最終的に2人に折り合いをつけて和解する未来をどう作るか。
自分が作戦を考える立場になると、すぐに〇〇しようとアイデアが出てくる愛理さんはなんだかんだ凄いなと実感する。
「じゃあ一旦帰るよ。何か用事があったら連絡してね」
「うん。あ、玄関まで送るよ」
キッチンから蒼さんがぱたぱたと駆けてくる。今はとにかく手を動かすしかない。愛理さんに相談するには蒼さんの事を話さなきゃならないし、状況の整理もしないと。いっそみどりさんに直接聞くのもアリかもしれない。
そうやって考えがまとまらないまま、気づくと玄関についてしまった。
「それじゃ、また」
「……うん」
背中から聞こえてくるは平坦で、感情を押し殺しているようだった。今日の残りを彼女はみどりさんとして過ごすのだろうか。彼女の顔を直視する勇気が僕にはなかった。
玄関のドアを開ける。空は僕の悩みなんて知るもんかと言うような雲ひとつない青空だ。外に出ようと足を一本出した時、彼女が僕の名前を呼んだ。
「理人」
名前を呼ばれて振り返った途端、唇に柔らかい感触を感じた。彼女の湿った唇の隙間から熱っぽい吐息が零れ出て、お互いの息が交差する。
冷静になって顔を離すも再び顔を引き寄せられて唇が重なり合う。唇は勢いをクッションしきれずに歯と歯がぶつかり、今度は蒼さんの方から顔を離した。
「蒼さん……?」
彼女の方も自分のしたことを理解出来てないような表情で、真っ赤な顔で息を切らしていた。
「違うの、これは、その、ぼく、だって」
僕が口をひらく前に彼女は肩を押して距離を離した。思考が再起動したころにはドアはすでに閉じられていた。
我に返って事務所に戻ろうとして振り返った時、僕は見慣れたミニバンが駐車場に止まっているのに気づく。
助手席に座っている見慣れた探偵が、大口を開けて固まっていた。
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「理人くんのばか、スケコマシ、カサノバ、朴念仁、唐変木、助平、アホンダラ、うらぎりもの!!」
「だーかーらー突然のことで誤解なんですって」
「うーーーそーーーだーーー信じないぞ!!悪い男はみんなそう言うっておばあちゃんが言ってたんだぞ!!!!」
「信じてくださいって……っていうかシートベルト外そうとしないでください!」
「ぶ~~~~!」
助手席で暴れる愛理さんをなだめながらミニバンを走らせて事務所に向かう。お昼ご飯にする予定だったメロンパンも彼女に奪われてしまった。
「でも、いつの間にみどりくんとそんな関係になったんだい。いくらなんでも手が早すぎるだろ」
「だからそういう関係じゃないし、向こうが突然してきたんですって……。それに、あれはみどりさんじゃないっていうか」
「えっ」
メロンパンをむさぼる手が止まり顔でこちらを見る。運転中なので横目でしか確認できないが、頬がメロンパンで膨れ上がっていてハムスターみたいだ。思わず頬がゆるんで肩の力が抜ける。僕の気持ちはどうやら変わっていないらしい。
「ちょちょちょっと、車止めて止めて」
「いいですけど、どしたんですか」
「どうしたもこうしたもないでしょ!いいから止める!」
ミニバンを近くの路肩にいったん止めて、愛理さんの方へ顔を向ける。慌ててメロンパンを飲み込んだせいか口の周りやスーツが食べかすだらけになっている。
ハンカチを取り出して口の周りを拭こうとすると、もうお酒を飲める年齢なんだぞ、と言われてハンカチをひったくられてしまった。
「それで理人くんは蒼さんとそういう関係に……あーいや、一方的に好意を持たれてるわけなんだね」
「そんな感じです。みどりさんがそういう相手にしか蒼さんのことは打ち明けないって言ったらしくて、それで勘違いしてたっぽくて」
「じゃあ女の勘違いを利用してるってこと?私そういうの感心しないな」
「あいや、その誤解は解けたっていうかー……」
彼女が身体を乗り出して僕の目を覗き込む。その顔の近さに僕の心臓は驚きのを上げる。しかし次の一言でさらに僕の心臓は緊張することとなった。
「理人くん、もしかして依頼のこと話したの?」
「…はい」
「どんな反応だった?」
意外にも愛理さんの反応は興味津々なようだった。
「自分もそれが本望だって。依頼は続けて欲しいって」
「嘘だ。そんな人が理人くんにキ…接吻なんかするわけない」
「僕もそう思います。アレはあの子の本心じゃない」
「そこまでわかっててなんで君はこっちに来たんだ!」
車のダッシュボードを叩い声を上げる。唐変木はどっちだよ……と思いかけたが、自分が思いを正直に伝える勇気がないだけという事に気づき、訂正して心の中で愛理さんに謝った。
「質問で返すようで悪いですが、僕らの依頼ってどんなのでしたっけ」
「それは、そうだけど………。理人くんはそれでいいのかよ」
「……」
返す言葉もなかった。結局僕の心は蒼さんよりも愛理さんの方を選んでいるのだ。気があるアピールやキスをしても心は揺れ動かなかったのだ。一人を選ばなければならない恋愛というものの理不尽な側面がそこにあった。
それでも蒼さんには死んでほしくないという思いは一貫している。これは倫理とエゴの問題だ。このまま僕らが蒼さんを消すように動くのは、つまり殺人に加担するということだ。この思考を恋や愛といったあいまいな概念でフィルタしてはならない。
つまりは司法が裁くことのできない殺人だ。仮に愛理さんがこの事を後悔したとして、罰を与えてくれるシステムは今の日本にはない。せいぜい強引な治療行為と解釈されるのが関の山だろう。
そうなると愛理さんは一生その後悔を背負って行く可能性もある。
「愛理さん。この依頼、もう手を引きませんか?」
「今更?」
「だって、問題が起きそうならその場で打ち切るって約束したでしょう」
「理人くーん」
「はい」
「ひざ貸して」
「へいっ?」
予想外の一言に変な声が出てしまった。僕が準備する前に愛理さんはシートベルトを外し僕のひざに頭を乗せてくる。ぽすっと音がなってリンスとウレタン、それとメロンパンの香りをごちゃ混ぜにした匂いが僕を包む。しかし車内は狭くシートの間はごつごつとしていて、楽な姿勢とはとうてい思えない。
「きつくないですかその姿勢……」
「うるさいっ。この前のひざまくら分、きっちり返してもらうから」
そういって彼女は僕のひざに頭をぐりぐりとこすりつける。あれだけ柔らかそうに見えたクリーム色の毛玉もにもシッカリと頭蓋骨があり、生きた人間だということを実感する。
「理人くん」
「今度は何ですか」
「おしっこくさい」
「マジすか」
「うそ、じょーだん」
そう言いながらまた頭をこすりつける。まるで猫のマーキングのようだ。
「でも……私たちが調査をやめたらみどりくんはどうするかな」
「えっ」
予想だにしない言葉に僕は言葉が詰まった。確かに、僕らが依頼を降りてもみどりさんは別の人に相談すればいいだけの話だ。こんな簡単なことにすら思い至らなかったなんて。
「すみません、そこまで考えてませんでした」
「謝らないで。理人くんだってさきっまでバタバタしてたし、まずは冷静になるのが先決だよ」
うんしょ、と身体を猫のようにくねらせ、愛理さんが仰向けの姿勢になる。少し垂れ目がちな目が僕を見つめる。もう二十歳は超えているというのに全く感じさせない幼い顔つきだ。よく見ると右頬に小さなほくろがある。
「そんなにじろじろ見られるの、恥ずかしいんだけど」
「……すみません、つい」
「いいよ、理人くんもお疲れのようだし」
そのまま彼女は僕の膝の上でスマートフォンをいじり出し、完全にリラックスモードに入った。一方の僕は膝上の存在に加えて今後の動き方が気になり、気を休めるどころではなかった。
みどりさんの中にある攻撃的な性格。学生時代のいじめっ子に復讐をして蒼さんを殺す事を僕らに依頼する。そんな過激で破壊的な欲望を持った人間に、今更蒼さんと共存して下さいと言ったところで受け入れられるだろうか。
じゃあどうやってみどりさんを納得させるのか。モラルや正論は通用しない、かといって人生の半分を渡すリスクにあたうリターンなんて全く想像がつかない。あの時依頼を断っていればという後悔と、断ったら蒼さんは本当にどうなっていたのだろう、という気持ちが渦巻く。
「ねー理人くん、明日と明後日はどうする?」
スマホをいじりながら呑気なが膝の上からする。
「どうするもなにも、みどりさんに蒼さんの事を報告して、それで僕らで対策を考えて……」
「んじゃ、うちに出る予定なんだ」
「他にやることもないですから」
「はーい」
ぺたぺたとスマホの画面を何回か叩いた後、愛理さんが僕の方に顔を向けながら言った。
「じゃあちょっと旅行しない?知り合いのツテで旅館を安く借りられるみたいなんだ。2泊3日、初めての社員旅行!……どうかな?」
「その、この状況にですか?」
「うん。むしろこの状況だから、いったん私も理人くんもみどりさんから物理的に離れて考えるべきかなって思ったんだ」
「でも、みどりさんにはどう説明するんです?」
「さっき休むことは連絡済み。明日明後日休みいただきますって理由もちゃーんとこしらえたんだから。理人くんは行きたくないの?」
「行きたくないわけでは……ないです」
「じゃあ行くってことで。運転変わって」
「今から行くんですか!?」
「うむ!時は金なり、下着とかは行く途中で買っちゃおう!」
だからいつも事務所に金がないんですよと言葉が出かけて、僕は慌てて口を閉じた。
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