第8話 時政、動く

 北条館の奥、静寂の間。


 囲炉裏には朱が残り、炭のはぜる音がわずかに響いていた。夜の雨は軒を強く打ち、重い雲が地を圧するような湿り気を持って空を覆っている。北条時政は、腰を据えたまま、湯呑をじっと見つめていた。茶の香りは冷えかけているが、その手は微動だにしない。


 やがて、静かに襖が開き、密偵が跪いた。


「曾我と工藤、接触いたしました。尾行した者によれば、夜を選んで密かに会うようになっております」


 時政の眉がわずかに動いた。だが顔を上げず、湯を一口含む。


「巻狩までに何かを掴むつもりのように見えます。河津殿暗殺の命、北条館経由の命令状……堀藤太の名も、すでに耳に入れたようでございます」


 その名に、時政の手が止まった。茶の湯が唇から離れ、僅かに音を立てて膝元の膳に置かれる。


「……なるほど、そう来たか」


 長い沈黙のあと、低く、吐くように漏れた言葉だった。時政はようやく顔を上げ、囲炉裏の炎を見据える。


「愚か者どもが。真実を知ってどうなる。証を突きつけて、誰を責めるつもりか――鎌倉殿か? あるいは、この私か?」


 嘲るような微笑がその口元に浮かぶ。


「武士が正義を振りかざすなど、滑稽な話よ。刀を抜く時に必要なのは正しさではない。勝ち目と、機、そして、敵を敵に見せかける“物語”だ」


 密偵が黙して頷くと、時政はゆっくりと立ち上がり、炉に箸を伸ばして炭をいじり始めた。


「良いか……“真実”は脆い。だが、“噂”は強い。火のないところに煙は立たぬ、などというが――私は火を持っておる」


 炭をひとつ、指で弾くようにずらすと、ぱちりと音が鳴った。


「曾我の兄弟が、工藤祐経と結託している……そう流しておけ。奴らが口を開くよりも早く、世間の耳に囁いてやるのだ。己らの手で、自らを謀反人と晒すことになるだろう」


 時政の目は暗く、鋭かった。


(曾我兄弟、殊に祐成のほうは冷静だが……弟・時致は違う。血の熱で動く男。兄が何かを隠していると知れば、必ず揺らぐ。揺らいだ弟は、必ず誤る)


 その読みは、時政の過去に培われた人間観察から来るものだった。祐成のような男は真実に届きかけるが、時致のような男はそこに届く前に剣を抜く。それでよい――そうなるよう仕向けるのだ。


「弟を怒らせておけ。兄を疑わせておけ。そのうち兄弟は裂け、己の正義を互いに信じられぬようになる」


 そして――


「巻狩の日、奴らが刃を抜けば、好機となろう。“謀反を未然に防いだ”と、そう申せばよい」


 老将の眼差しは、燃え盛る炭のように静かで、しかし確かな熱を宿していた。


「……風は吹かせねば吹かぬ。だが、吹けば、世は転がる」


 その呟きは、やがて闇に沈んでいった。


――――


 曾我の屋敷。雨上がりの庭に、まだ湿り気が残る。


 時致は縁側に腰を下ろし、濡れた木の匂いを吸い込みながら、じっと庭先を見つめていた。兄・祐成はまだ戻らず、いつもならば気にも留めぬ時間の空白が、今日は妙に長く感じられる。


「……兄者が、工藤と?」


 不意に漏れたその呟きは、屋敷の静寂に沈んでいった。


 数日前、道場の稽古帰りに立ち寄った町場で耳にした噂――「曾我の兄と工藤祐経が、夜ごと密かに会っているらしい」「どうやら、鎌倉殿の側近と通じて何やら探っておるとか」「仇討ちなど表の顔、真の狙いは別にある」……まことしやかに語られる陰の噂。


 当初は一笑に付した。だが、否応なく脳裏にこびりついたのは、最近の祐成の様子だった。


 思い返せば、このところ兄は何かに思い悩むように沈み、口数が減っていた。時致が語りかけても、どこか上の空。刀を研ぐ手つきにも、かつてのような迷いのない鋭さがない。


「兄者は……何かを、隠している」


 そう感じたとき、時致の胸に走ったのは怒りではなく、不安だった。


(まさか、俺たちの仇討ちを捨てるつもりではあるまいな……)


 工藤と結託? 仇と? そんなこと、兄がするわけがない――だが、兄者が一言もそのことに触れぬまま動いているという事実が、時致の心にじわりと疑念を染み込ませる。


(兄者は、いつから俺に何も言わなくなった?)


 思えば、あの仇討ちの誓いを立てたのは兄だった。時致は、兄の背中を信じてここまで来たのだ。だが今、その背中が、まるで自分の知らぬ方へ歩き始めているように見える。


 拳をぎゅっと握り締める。手のひらに爪が食い込むのも構わず、時致はその場に立ち上がった。


「兄者……なぜ、何も言ってくれぬ」


 怒りよりも先に、寂しさがあった。だが、寂しさが積もれば、それは容易に憤りへと変わる。


 庭の木々がざわりと風に揺れた。仇討ちの誓い――その確かなはずの道が、音もなく揺れ始めていた。


――――


 曾我の屋敷。夜。


 風が強まり、障子がぱたぱたと鳴っていた。時致は兄の帰宅を待ち構えていたかのように、刀を抱えて立ち上がると、部屋の中央へ出た。


「兄者……ひとつ問わせてくれ」


 祐成は一瞬だけ足を止めたが、すぐにいつもの静かな表情に戻り、草履を脱いで室内へ上がる。


「なんだ、時致」


「工藤祐経との噂……あれは、まことか。兄者、祐経と何をしておる? 何を探っている?」


 祐成の目がわずかに伏せられた。だがすぐに、静かに言葉が落ちた。


「祐経とのことは、気にせずともよい。俺が仇討ちを忘れたわけではない」


「ではなぜ、俺には何も言ってくれぬ! 兄者は何かを隠している。仇を討つ、それだけが俺たちの道ではなかったのか!」


 祐成は目を逸らしたまま、わずかに唇を噛む。だが、答えは返ってこない。ただ、祐経と結託しているという話を否定するだけ――その薄い応えに、時致は爆発しそうな怒りと焦燥を抱えながら、屋敷を飛び出した。


(もう、兄者には聞けぬ……ならば……)


――――


――北条館。


 夜も更けた頃、時政はまだ炉の前に座り、湯を啜っていた。そこへ、焦燥を帯びた足取りで時致が現れる。


「北条殿……お頼み申し上げます」


 時政は驚いたふうもなく、すでにすべてを見通していたように微笑んだ。


「おお、時致殿……これは珍しい。して、どうなされた?」


「……兄が、何も話してくれません。工藤祐経と接触しているのは確かです。しかし、それが仇討ちのためなのか、別のことなのか、何一つ語ってくれぬ。俺には、もう……」


 時致の声は震えていた。怒りではなく、迷いと痛みに揺れる声だった。時政はそれをじっと見つめた後、炉に炭をひとつくべて、静かに語り出す。


「……兄君は、重いものを背負っておられるのだろうな。仇討ちとは、時に道を外れることもある。特に、情が絡むと尚のこと」


「……情?」


「ああ。かつて工藤祐経は河津殿を討った。それは事実。しかし、命を下したのが誰か――そこを探り始めれば、いずれ鎌倉殿すら疑われかねぬ」


「……っ」


 時政は、あくまで穏やかに、しかし確実に揺さぶる。


「兄君はそのことを恐れているのかもしれぬ。お主にまで火の粉がかかることを避けたくてな。しかし……それでよいのか? 弟のそなたまで、真実から目を背けて良いのか?」


 時致の目が揺れる。その瞳をじっと見据え、時政はさらに言葉を重ねた。


「ならば、そなた自身が動くしかあるまい。兄を守るためにも、真の仇を討つためにも」


「……俺に、何ができる」


「曾我殿……敵を討たれよ。兄君ではなく、“工藤祐経”を。そうすれば……真実はおのずと明らかになるやもしれぬ」


 時政の言葉は、あたかも親身な助言に聞こえる。しかしその奥底には、祐経を討たせてすべてを“曾我の敵討ち”として処理し、兄弟を共に排除するという冷酷な算段が潜んでいた。


 時致は、わずかに俯いた。拳が震える。


「……承知した。俺が……決着をつける」


 その姿を見送りながら、時政は口元を歪めた。


――――


「良い子よ……愚直な者ほど、使い勝手が良い」


 火がぱちりと弾けた。


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