第42話 心が繋がる

 水族館はそこそこ混んでいた。

 けど、この前行った夏休みの水族館よりはだいぶ余裕があった。ここの名物は金魚の水槽で、いろんな種類の金魚が、尾びれをそよがせながらキラキラと泳いでいた。


「こういうのが好き?」

「うん、不思議な感じ。わたしの方が、水槽に入ったような気分になる」

「そうだな」


 意識すると、水槽のガラスの表面にわたしたちが映っていた。

 青龍はわたしよりずっと背が高くて、わたしはその隣にちょこんとくっついているおまけみたいだった。まるで、子供の時のように。

 繋いだ手が見える。金魚と共にわたしたちも揺らぐ。キラキラ光る鱗が幻を見せる。

 わたしの心も⋯⋯揺らぐ。


「⋯⋯どうして、会いに来ちゃったの?」

「だから、ごめんて」

「ごめんじゃ済まないよ。上手く言えないけど――優しくしないで」


 手を振り切った。

 涙を堪えて出口に向かう。

 予想に反して、青龍は追いかけてこなかった。

 ひとりでどんどん進んで、惨めな気持ちを引きずって、電車に乗る。


 スマホを出す。

 メッセージを送って、スマホを胸に抱きしめる。

 電波はわたしの気持ちを確実に送ってくれたのか、不安に思う。――わたしには複雑な問題だった。


 ◇


「真帆!」

 足元はシンデレラのサンダルじゃなかったけど、改札を出てすぐのところで待っていてくれた彼のところに走る。

 つまずきそうになって、慌てて支えられる。

 ドンと、その胸に飛び込む。


「今日は大胆だなぁ。涼ちゃん的にはうれしいけど」

 腕の中で、背中をポンポンと優しく叩かれる。苦しかった呼吸が、少しずつ楽になっていく。嫌な汗をかいている。深呼吸する。


 ちょっと待って、と彼は言って、ティッシュを取り出す。

「アイメイク、流れてる」

 その理由を訊かずに、細かく目元を拭いてくれる。

「鏡、見てくる?」

 ううん、とわたしは首を振る。

「ごめんね、約束したのにこまめに逢えなくて」

 わたしはまた首を振った。


「⋯⋯涼ちゃん、学校抜けてきて大丈夫だった?」

「そんなこと、真帆は気にしなくていいの」

 わたしの頭を、ギュッと胸に押し付ける。その力が心地いい。

 ブラブラしよっか、と彼はわたしの額に自分の額をこつんとぶつけた。わたしは小さく頷いた。


 指を絡めて歩き出す。歩幅を合わせてくれる。いつもそうだ。

「てっきり真帆は、俺のこと『重い』と思ってるんじゃないかと思ってた」

「そんなことないよ。あの、毎日のメッセージ、うれしかったし。⋯⋯いつも近くにいる感じがしたし」

「そっか。送ってて良かった」


 目的もなく、地下道を歩いて階段を上ると、空はまだ目に突き刺さるように青かった。

「日傘、さしたら?」

「いいの。⋯⋯涼ちゃんと距離ができちゃうから」

 少し、間が空く。甘えすぎたかな、と思う。おもむろに涼ちゃんが口を開く。


「ああもう! そんなこと言うと、マジで襲っちゃうぞ。涼ちゃんにも限界があるんだから」

「⋯⋯だって、涼ちゃんのそばにいたいんだもん」

「何だよそれ、かわいすぎるじゃん」

 人混みの中、彼はわたしの頭を固定して、キスをした。不思議と嫌だと思わなかった。

 通り過ぎる人たちはみんな忙しそうで、わたしたちを気にしてなんかいなかった。


 切符を買って、大きな公園に入る。こんな暑い日に馬鹿みたいだ。

 でも、ふたりきりになるには丁度いい場所だった。

 開けたところに行くと、気のせいか、秋の風をささやかに感じた。


 アイスティーのペットボトルを持って、わたしの座っていた東屋に涼ちゃんは歩いてくる。その影は色濃く、少し斜めに伸びている。


「はい、暑いからたくさん飲んで」

「うん」


 熱を帯びていた胸の中まで、紅茶は冷ましていく。

 ようやく気持ちが落ち着いてきて、目を上げると、涼ちゃんの顔がそこにある。

 彼は優しく、長いキスをした――。


「これは逢えなかった分」

「うん」

 それから顔の向きを変えて、息もできないほど、苦しいキスをする。

「⋯⋯これは泣かせちゃった分」

「知ってたの?」

「真帆からメッセージ来たあと、すぐにアイツから連絡あった。多分、そっちに行くからって。⋯⋯怖い思い、した?」


 後悔する。

 あんな風に突き放さなくても良かったんじゃないかと。

 でも、あの揺らぐ水槽の前で、わたしは違和感を感じずにいられなかった。

 涼ちゃんは何も言わず、わたしを抱きしめたまま、待ってくれる。


「青龍に、酷いことしちゃった」

「置いてきたこと? それとも、こうやって俺と一緒にいること?」

「どっちも、かな」


 スーッと、涼ちゃんが深呼吸する音が聞こえる。わたしは次の言葉を待つ。

「アイツの肩を持つわけじゃないけど、不器用だからね。こんな風にしか出来なかったんだと思うよ。真帆が悪かった訳じゃないから。⋯⋯それで勝手だけど、涼ちゃんはうれしい。真帆が俺を頼ってくれたから。どんなにたくさんのキスしても足りないくらい、真帆が今、愛しい」


 何度も言われている言葉なのに、その言葉はわたしの心に重く響いた。

 心の水面に、ひと雫、水滴が落ちたように、水紋が広がっていく。


「⋯⋯わたし、涼ちゃんを、すきみたい。涼ちゃんのそばにいると、安心する。例え涼ちゃんがツンな時でも」

 ふふっと彼は笑った。

「真帆に対してツンはないでしょ」

「わかんない。たまに涼ちゃんが何を考えてるのか分からない時があるから」

「心も手と手みたいに簡単に繋がるといいのにね」


 涼ちゃんの優しい手が、わたしの汗ばんだうなじを撫でる。安心してその腕の中に包まれる。

「大すき」という言葉が、ため息のように自然にこぼれる。腕の力が強くなる。少し湿ったその胸に、頬を押し付ける。


 ――これが正解なのかわからないけど、少なくとも今は、これがわたしの選択した答えだった。


「すごくうれしいんだけど、ここにいたら暑くて倒れちゃうと困るから、真帆は水分補給して、日傘さして公園を出よう。逃げたりしないんでしょう?」

「多分」

「まだ多分なの?」

「自分の心の中は手に取って分かるわけじゃないから。でも、感じることは出来るから、その⋯⋯大すきだって言えるんだと思うの」

「うれしいよ」


 涼ちゃんはわたしにアイスティーじゃなく、自分の買ってきたスポドリを渡すと、飲むように促した。

 それは身体に染み込んで、心を十分に満たした。

 わたしたちは芝生の植えられた日陰のない歩道を、手を繋いでゆっくり歩いた。


 初秋と言えるはずの、猛暑の公園は静かで、わたしたちも言葉少なく手を揺らした。

 日傘の影が少しだけ、薄くなった気がした。


「今日はさ、家まで送っていくよ」

「いいよ! 涼ちゃん、帰りがすごく遅くなっちゃう」

「そうかもね。ま、そういう日があってもいいんじゃない? お互いの気持ちが通じ合った記念日だし」

 俯く。

 恥ずかしくて顔が上がらない。


「今日だって、真帆が呼んだからちゃんと飛んできたでしょ?」

「うん。すごくうれしかった。涼ちゃん、毎週は逢ってくれなかったから、本当は地元にかわいい人がいるのかなって、ちょっと考えちゃった」

「酷いなぁ。こんなに本気なのに、浮気を疑われてたなんて」

「ほんとだね」

 ふたりで少し笑う。日傘の中で短いキスをする。この唇が、夏を前にして失恋したわたしの心を溶かしたのかもしれない。


「わたしだけに甘い恋人でいてね」

「約束するよ」

 日傘は風もないのに落ちて、わたしは彼の首に手を回してキスをした――。

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