第34話 水族館

 金曜日が来て、わたしは武装する。

 ノースリーブのタンクトップに、オレンジの花模様のワンピースを引っ掛ける。足にはデニムレギンス。爪はオレンジに塗った。⋯⋯足元はビルケン。涼ちゃんのくれたサンダルは履けない。

 トートバッグに忘れずに帽子を入れる。日焼け止めもしっかり塗る。


「お待たせ」と居間に向かうと、青龍は驚いた顔をした。

「お前、そのワンピース」

「セールになってた。アプリ会員価格」

 わたしはピースサインを作って見せる。青龍が笑う。

「冷蔵庫にアイスティー、入ってる。コーラと一緒に持ってきて」

 はーいと言って台所に向かう。

 まだ居間には誰もいない。コーラを渡すとわたしのうなじにそっと唇を付けて「似合ってる」と言った。


 朝からドキドキさせて⋯⋯と鼓動をしずめようとがんばる。普段、不器用な人が慣れないことをしてみせるから、余計にドキドキする。

 涼ちゃんとは違うキスに、戸惑う。

 涼ちゃんのキスは⋯⋯と考え始めて、不毛なのでやめる。

 どっちみち、週末には会うんだし、会えばきっとキスしてくるに違いない。そういう人だ。


 蝉の声が、まだ朝だというのにうるさい。

 今日も三十五度を超えるところが出ると、ラジオが喋る。

 交通情報が入るから、ラジオでいいかと訊かれる。もちろんいいよ、と答える。

 なんだ、いつもと変わらないじゃん、と思う。

 何も構えなくたって、買い物に行く時と変わらないじゃん、って。

 あれこれ考えた自分がバカみたいだ。


「朝飯、何がいい?」

「あ、わたし、考えてきたんだけど、朝マックがいい!」

 青龍が笑う。

「考えてきてそれかよ?」

「ジャンクフードが食べたいお年頃なんだよ」と返す。


 車はあの日のようにすーっとマックに入って、ドライブスルーで青龍が注文してくれる。

 朝マックのハッシュドポテトは最高。


 車はまた走り出す。

「運転しながらだと食べづらくない?」

「もう慣れた」

「ふぅん」

 確かに青龍の運転に危なげなところはなくて、わたしも安心して朝マックを堪能できる。おねだりして買ってもらったバニラのシェイクをズズッと吸う。


 天気は毎日同じく快晴で、空の青さが目に痛い。雲一つない空の下を、ブルーの車は疾走する。

 ピッとETCが作動する。

 今日は青龍も高速に乗る。

 高速に乗ると、運転手は真剣な顔になるらしい。


 今朝は涼ちゃんからの定期LINEもない。

 涼ちゃんなりに気を遣ってるらしい。

 まぁ、明日来るって言ってるんだし、直接会うことに勝るものはない。


「暑くない?」

「大丈夫だよ」

「車内でもちゃんと水分摂れよ」

「わかってるよ」


 あーあ、お兄ちゃんみたい。わたしはもっと違う青龍が知りたいのに。大体、青龍は明日香ちゃんの弟で、末っ子なのにわたしには兄のように振る舞う。

 それってどういうことなのかな、と思う。

 わたしが頼りないってことだろうか? ⋯⋯まぁ、そういうことなんだろう。歳だって、ひとつしか変わらないのに。


 車が走るのは、緑豊かな雑木林の中だ。時折、田んぼが見える。のどかだなぁと思う。

「昔さ」

「うん」

「夏休み、まだ小さかった頃、真帆子も涼平も一緒に海に行ったんだよ」

「そんなことあったっけ?」

「まぁ、真帆子は幼稚園生くらいだったから、覚えてないかもなぁ」

 記憶の何処にもない。


「それでさ、砂浜で砂をシャベルで掘って真帆子は遊んでたんだよ。で、俺たちが拾ってきた貝殻をそこにいれてやって」

「優しいお兄ちゃんたちだなぁ」

「と、思うだろう? そしたら涼平がさ、真帆子の手を引いて、無理やり海に入ったんだ」

「涼ちゃんらしい」

 わたしはくすくす笑った。まるで目に見えるようだったから。


「足首に波がかかるか、かからないかってとこで遊んでた真帆子は怖がって大泣きしてさぁ。走っていって真帆子の反対の手を握ったら、真帆子、転んでお尻まで濡れてもっと泣いちゃってさ、あの時はまいったよ。俺は真帆子のお兄ちゃんだと思ってたから」


 笑顔で話していた青龍が、最後の方は真顔になって、ドキッとする。隣をすごいスピードで、車が追い越していく。


「⋯⋯涼平がさ、『真帆、ほら、そのまま立っててごらんよ。波に引っ張るれる感じがして不思議だからって』笑顔でそう言ったんだ。真帆の手を繋ぎながら。尻もちついた真帆を立たせてね。まるで大人みたいだった」


「それで?」

「その後はよく覚えてないけど、気がついたら真帆子も波打ち際で水かけっこして遊んでたな。涼平はどんな魔法を使ったんだろうな?」


 青龍はまた真剣な目をして、運転に専念し始めた。わたしは――青龍がそんなに小さな頃から涼ちゃんを意識していたのかと、複雑な心境だった。

 涼ちゃんだけが、特別なわけじゃないのに⋯⋯。


 ◇


 夏休みの水族館の駐車場はいっぱいで、入り口まで遠いところに車を停めた。「悪いな」と青龍は言ったけど「青龍のせいじゃないよ」と答えた。


 車が連なったアスファルトの上に、以前の忠告通り、帽子を被ってそっと車を降りる。車の前で待っていてくれた青龍の隣に行くと、自然に手を繋がれる。

 ――あ、これ、いつもの買い物と違う。デートなんだ。

 と、急に気が付いて、目眩がしそうになる。

「行こう」と青龍はわたしを見下ろしてそう言った。


 水族館まではひたすら暑い中を歩いて、途中の噴水が涼しく見える。大きな観覧車が、動いているのか分からないスピードで、ゆっくり回る。非現実的な景色。

 子供の食べるソフトクリームが美味しそうに見えて、これはダメかもと思っていると、ついと手を引かれて自販機に向かう。


「何でもすきなもの、買って」と言われ、アイスティーの無糖を買う。ペットボトルの出口にしゃがんで、渡そうと上を見ると、青龍の顔が逆光でよく見えない。

 今、青龍が、どんな気持ちでいるのか、よく分からない。

 わたしと同じく、ドキドキしてるんだろうか、と思いつつ、スポーツドリンクのボトルを渡す。


「こまめに水分摂れよ」と帽子をポンと叩かれる。うん、と俯く。その表情が、恥ずかしくてよく見えない。

 繋いだ手も、そこに大きな意味があるような気がして、手汗を気にする。

 すき、とか、嫌いの前に、はぐれないように繋いでいるだけかもしれないのに。意識しないなんて、無理だ。


 大きなガラスドームを被るように建つ水族館の入り口にたどり着く。マグロと背比べできるようになっていて、作り物のマグロの前で写真を撮ってもらう。

 子供たちが並んでるのに、バカみたいだ。でもわたしは笑っていた。


 入り口からはいると、いよいよ暗くなってきて、細いエスカレーターを降りる。下に、大きな水槽が置いてあって「青龍! 魚だよ!」と興奮してしまい、青龍はふっと笑った。子供じみたことをしたな、と帽子を深く被る。


 入り口の水槽の奥に順序通りに進むと、そこは原色の世界で――。

 色とりどりの鮮やかな魚たちが、自由に泳いでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る