第35話 観覧車
「うわぁ、熱帯魚⋯⋯」
足が止まって見惚れていると、後ろから来た人と肩がぶつかる。あ、と思ったところを青龍に支えられる。
「マナー悪いよなぁ。きちんと前、見ろよ」
「でも立ち止まったわたしが悪いし」
「ぶつかったのが子供だったりしたら、危ないだろう」
ああ、子供目線⋯⋯。
そう言えば青龍は学校の先生希望だったっけ。
でも先生になったら、きっと生徒たちに、走ったり立ち止まったりしたらいけないって言うんだろうなぁ。
ん?
わたしは怒られてない。
「真帆子、ほら、俺は背が高いから前には行けないけど、お前はもう少し前で見てこいよ。せっかく来たんだから、ゆっくり見てこいよ」
「え、でもせっかく一緒に来たのに」
「ここにちゃんといるから」と、水槽の対面の壁によりかかった。
こんなところでも子供扱いかぁと思うと、ちょっと悔しかったけど、小さな子供たちを邪魔しない距離で、じっくり魚の名前のプレートを見ながら観察する。
まるで、南国の海を泳いでいるようなゆらゆらした気分⋯⋯。コバルトブルーの小さな魚が、隙を縫って泳ぐ。
「お待たせ! ねぇねぇ、あの大きくて鼻がコブみたいになってる魚、ナポレオンフィッシュなんだって! 確かにナポレオンの帽子被った横顔に似てるね」
「メガネモチウオだろう? 変な色だよなぁ」
「なんだ、知ってたんだ? つまんないの!」
「近くで見られたならいいじゃないか」
それもそうか、と思い直して次の水槽に向かう。
青龍の手が、するっと肩に回って一瞬、固まりそうになる。
「またぶつかられるかもしれないだろ?」
え、と見上げた青龍の顔は、暗い照明の下で赤かったかもしれない。少なくとも、わたしは赤かった。
南の海の水槽がいくつか続いて、人並みも落ち着いた感じになってきて、青龍と一緒に水槽を覗く。
ネームプレートと、目の前の魚を合わせる。
青龍も「あのプレートの魚、見当たらないなぁ」なんて言って、素に戻ってる。
緊張してるより、ずっといい。
水槽は、寒い海の魚、深い海の魚を見せてくれて、その後、身近な海の魚に戻ってくる。
波打ち際を再現した人工のプールが見えてくる。潮の香りが、ふわっとする。
「潮の香りがするとドキドキするのって、不思議だね」
わたしたちは緩く手を繋いで、人混みを抜けた人工の浜辺をゆっくり見て歩く。
「ヒトも、海から生まれたからかもしれないな」
「そっかぁ、海からかぁ。なんか、感慨深いね」
にこっと青龍がいい笑顔を見せるので、ドキッとしてしまう。
「水族館、楽しい?」
「すっごく! 来てよかった」
「⋯⋯前の彼とは来なかったの?」
「あー、別のところに行ったけど⋯⋯なんていうか、その時楽しかったのか、忘れちゃったな」
そっか、と青龍は言った。
デート中に、元カレの話なんかしちゃうところが青龍なんだよな、と思う。
思い出したくないのになぁ。
高輪くんのことなんて。
「真帆子、ベンチがある。少し休もう」
言われてみると興奮していてわからなかったけど、結構な距離、歩いたように思う。ベンチに座ると「ふぅ」とため息が出た。
「疲れたんじゃない?」
「みたい」
「だってお前、興奮しっぱなしだったもんな」
くっくっと青龍が笑う。
わたしは買ってきたアイスティーをぐいっと飲んだ。
「青龍だって、楽しんでたじゃない」
「俺はお前を見てる方が楽しかったよ」
ボンッと、火を噴きそうになる。
そんなこと、ナチュラルに言われると、どんな顔していいのかわからなくなる。
「あ、ね! この先、ペンギンがいるみたい。行ってみようよ」
わたしは立ち上がると、強引に青龍の手を引いた。
「急がなくてもペンギンは逃げないよ」
「どうかな? 飛ぶかもよ?」
「そうしたら俺も降参する」
おかしなことを言うので笑ってしまう。暗かった水族館の外に出ると、光が目に突き刺さりそうだ。
ペンギンは思い思いのことをしていて、この猛暑の中、暑くないのかな、と思う。
下に続く階段があって、青龍に促されて下りてみると、そこにはペンギンの泳ぐ姿があった。
「ね、飛んでるみたいじゃない?」
「外にいる時とは違って、本領発揮って感じだな」
わたしは水槽に顔を近づけて、ペンギンが目の前を泳いでくるのを待った。
青龍が「こっち向けよ」と言って振り向くと、絶妙なタイミングで写真を撮ってくれた。
「うわー、ペンギンとツーショット」
「たまたま運が良かったんだな」と青龍もにこっと笑った。わたしも同じく笑顔になる。
上にまた戻って、しばらくペンギンを見ている。
ペンギンが飼われているのは、海のすぐそばだ。
「海に帰りたくならないのかなぁ」
青龍の顔の表情が止まる。それから思案顔になる。
「難しいなぁ。子供にもし同じことを訊かれたら、なんて答えたらいいんだろう?」
「思ったままでいいんじゃない? 青龍が思ったまま。ペンギンの本当の気持ちは誰にもわからないし」
「⋯⋯そうだな。負けた」
青龍はわたしの頭に手を乗せた。
親子連れも多い、ざわざわとした館内のレストランで昼食にする。
さっき見てきたマグロの料理があってギョッとする。
「ねぇねぇ、マグロのカレーだって! 青龍、食べてみる?」
「嫌だよ。さっき泳いでたマグロじゃないだろうけど、悪趣味じゃないか?」
「せっかく来たんだから」とわたしはくすくす笑った。
お昼ご飯は無難に食べて、水族館のミュージアムショップをざっと見て、みんなにクッキーをお土産に買う。魚のイラストが焼き付けられた、かわいいクッキー。
「かわいいね。みんな喜んでくれるかなぁ?」
「真帆子が選んだんだから、喜ぶだろう」
たけちゃんにも迷った末に、絵本を買う。
小さい子向けの図鑑。
「まだ早いかな?」
「早かったらまた大きくなってから見るさ」
確かにそうかもと思って、レジに向かう。
青龍は背が高くて、人混みの中にいてもすぐに見つかるので安心してひとりになれる。
「お待たせ」
「おう」
わたしたちはまた、指をひっかけただけのような、緩い手の繋ぎ方をする。ギュッと繋ぐわけじゃないので、緊張しないでいられる。
「もちろん観覧車には乗るよな?」
「え? すごい高いよ?」
正直に言えば、高いところはちょっと苦手だった。
「大丈夫だって。きっと海がキレイだから――」
押し切られる形で観覧車の列に並ぶ。今度は殆どがカップルだ。恥ずかしい気がしてくる。
ここへ来て、何を話したらいいのか分からなくなる。そうだ、デートに来たんだと、猛烈に意識し始める。
まったく、今までのわたしは何を考えていたんだろう?
まるで、お兄ちゃんに水族館に連れてきてもらった子供だ。
そうじゃなくて、今日はもっと大切な日、なのに。
「おとなしくなってどうした? 怖い?」
「べ、別にそういうんじゃないけど」
「天辺、どれくらいの高さなんだろうなぁ」
順番が近付いてきて、みんな、吸い込まれるようにゴンドラに乗り込んでいく。動いているゴンドラに上手く乗れるか、不安になる。
「ほら、真帆子、深呼吸」
言われた通りに深呼吸する。それでも嫌な感じが拭えない。
「怖いなら、やめる? やめてもいいんだ」
「せっかくここまで並んだんだから。大丈夫だよ、きっと」
それならいいけど、と青龍は苦笑して、わたしを先にゴンドラに乗せる。青龍が乗る時、グラッと揺れる。
観覧車は静かに、時間が止まるかと思うくらいゆっくり地上を離れていった⋯⋯。
怖い。
足の下には鉄板一枚しかないし、風でゴンドラが揺れる度、ギシッと金属の軋む音が聞こえる。
「真帆子、ほら、海がキレイ」
え、と思って、それまで余裕のなかったわたしは窓の外に顔を向けると、そこには陽の光をゆらゆら映す、海が一面に広がっていた――。
「ほんとだ⋯⋯すごくキレイ」
ギシッと、また鈍い金属音が聞こえる。
頂上はもう少しに見えるのに、なかなかそこにたどり着かない。
あと少し、少しで半分を過ぎるのに――。
「!」
ゴンドラがグラッとそれまでになかったくらい揺れて、わたしは気が動転した。その揺れは、青龍がわたしを抱き寄せて⋯⋯不意にキスをしたからだった。
長い、長いキスだった。
緊張で、身動きが取れない。両手が掴まれていて、抵抗もできない。
ゴンドラが少し傾いた気がして、頂上を越えたことを知る。
ゆっくり、わたしたちの身体は離れて、青龍はわたしを見てこう言った。
「観覧車の頂上でキスすると、しあわせになれるって言わない?」
わたしは手で顔を覆った。だって、多分、真っ赤だったから。
「ここの観覧車じゃなかったら、ごめん」
青龍は少し困った顔をして照れ笑いを浮かべた。わたしは思いもよらなかったことに、返事ができなかった。
◇
「楽しかった?」
「⋯⋯うん」
「そうだ、涼平が嫉妬するような写真を撮らないとな」
青龍はさっきの観覧車が丁度よく入る場所を見つけて、スマホで自撮りをした。
「真帆子、笑って」
「⋯⋯笑ってる」
その写真には、恥ずかしくて伏せ目がちのわたしが写っていた。
車の中は嘘みたいに暑くて「すぐには乗れないな」と青龍がエンジンをかけて窓を全開にする。
その間、わたしの頭の中はぐるぐるしていて、まるで貧血を起こしそうだ。
まさかのロマンティックな展開に、頭が着いていかない。
「真帆子、そろそろいいぞ」
「うん」
助手席シートベルトを閉める。窓は全部閉められて、エアコンが全開で風を送り出している。
わたしは暮れゆく景色を見ているように、窓の外を見ていた。まるで、名残惜しいというように。
「そう言えば」
ん、と思って運転席を見ると、青龍は自分のカバンの中をガサガサしていた。ああ、駐車料金を出さないといけないんだな、と思ってみていると、小さな水色のビニール袋が出てきた。
その、こぶし大の何かを、青龍はわたしの膝の上に投げた。
「やる。今日の記念。サンダルみたいに気の利いたものじゃないけど」
「⋯⋯開けてもいいの?」
「もちろん」
閉じてあったビニールテープを剥がして、中に手を入れる。もふもふした手触り。取り出してみると、それは。
「うわぁ、かわいい! 手乗りペンギンだ!」
小さなペンギンのキーチェーンだった。
「大きいの買おうかと迷ったんだけど、その、押しつけがましいかと思ったんだ」
「うれしい! すごくかわいい! 大切にする」
「真帆子はペンギンがいたくお気に入りだったみたいだからな」と青龍は車のシフトをDに入れた。
どうしよう? 気まずい。
お礼の何かなんて、用意してない。
「あの、ごめんね。もらえると思ってなかったから、何も用意してなくて⋯⋯」
自分の気の利かなさにガッカリする。
青龍は視線だけこっちに一瞬、チラッと向けて「いいんだ。今日一日の真帆子が全部、俺のものだったから」と言った。硬派な口調だったけど、夕日のせいか、彼の顔は一際赤く見えた――。
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