第10話  特別

 その晩、青龍は終電間際まで帰ってこなかった。

 わたしはみんなと一緒にバラエティ番組を観て、部屋でごろごろYouTubeを観て、夏羽ちゃんとちょっとLINEして、夏羽ちゃんの彼氏の愚痴を少し聞いた。

 その時、青龍の車の音がした。

 家中が寝静まっていて、迷ったけど玄関に迎えに出ることにした。


「おかえりなさい」

「うわっ、びっくりしたな! いつもはこの時間に帰ると誰も出てこないからさ」

「出ない方が良かった?」

「いや、そんなことはないけど」


 青龍が手を洗ってくると言ってわたしの隣を通った時、すんと香りを嗅いだ。香水の類の匂いはしなかった。

 ドキドキして、何となくホッとした。そんなわたしをもうひとりのわたしが「バカじゃないの」と罵る。

 お兄ちゃんの彼女に興味を持つのは、それ程おかしなことじゃないんじゃないかと結論づけた。


「まだ起きてたの?」

「うん、こっちは夜が早いよね」

「何にもないからな」

 何となく居間に座って、何となく無口になる。

 青龍が、冷蔵庫から麦茶を持ってくる。


「昼間は何してたの?」

「たけちゃんと遊んだり、伯母ちゃんの手伝いしたり、テレビ観たり」

「刺激が少ないだろう」

「そんなことないよ、家にいてもひとりの時はそんな感じだよ」と言うと、一瞬彼はわたしを見て、そして目を逸らした。


「あのー、彼女さんは元気だった?」

「え!? 母さんだな、そんなこと言ったの。うちと学校の往復で疲れちゃって、彼女なんか作る暇ないよ」

「⋯⋯モテるでしょ?」

「何だよそれ?」

「だって青龍、優しいし料理も出来るし、見た目も⋯⋯」

「いい男だろう? それがみんなは知らないんだ。俺が料理出来るの知ってる女子はお前だけだ」

 ぼっと、一瞬にして顔に火がつく。そんな恥ずかしいことを、すらっと言わないでほしい。

 そうなんだー、と流す。


「お前の方こそモテるんじゃないの?」

「わたしは全然⋯⋯」

 忘れそうになっていた高輪くんが突然、目の前に現れて困惑する。もう忘れるしかない人なのに、どうしても思い出してしまう。


 ぽつり、とこぼす。

「わたしさ、一年付き合った彼氏にフラれちゃって。腐ってたところを、ママにここに来るように勧められたの」


 青龍は「そうなんだ」とは言わなかった。

 一瞬、ふたりの間に沈黙が通って、肩肘をついた青龍がこう言った。

「その男、見る目ないんじゃない? 一年も一緒にいて真帆子のいいところがわかんないなんてバカだな」


 ハッとして顔を上げると、青龍は立ち上がるところで、風呂に入って寝ると言った。

 さっき聞いたのは空耳だったのかもしれない、とそう思った。


 眠ろうとして布団に入っても、さっきの青龍の言葉がリピート再生されて、何度も何度も青龍の声が耳元を掠めた。


 わたしのいいところって、なんだろう?

 そんなもの、あるのかな?

 と考えて、青龍にはそれがわかるのかな、と考える。

 そういうことじゃない。励ましてくれたんだ、きっと。青龍はわたしより大人だから。


 つまらない考えがぐるぐる頭を駆け巡るうちに、わたしは眠りに落ちた。


 ◇


 毎朝恒例の水撒きも済んで、わたしは外の洗い場で足を洗っていた。青龍がそこにやって来て、「暇なら出かけるぞ」と言った。

 わたしは勿論、暇だったので、はーいと答えて急いで支度をした。何処に行くのか訊くのを忘れたと思い、何を着るべきか迷う。

 半袖のブラウスにダンガリーのイージーパンツを履いて、足元はやっぱりビルケン一択だ。


 伯母ちゃんに「何処か行くの?」と訊かれて「青龍と」と言うと、「昨日の穴埋めね」と笑って奥に行ってしまった。


 行き先がわからないので、帽子をしっかり被る。

 また心配かけるといけないので、今日の格好には不似合いだけど、迷った上、扇子も持っていくことにした。

 これで買い物だったら恥ずかしいな、と帽子を目深に下ろした。


 いつものように車に乗ると冷房はもう快適な温度で、前もって準備してくれてたんだな、と思う。

 少しだけしてきた化粧が無駄にならなくて良かった、と胸を撫で下ろす。

 昨日、丁度塗り直したペディキュアとリップが同系色のピンクで、きっとそんなこと気にしてないだろうけど、わたしは気にする。塗り直して良かったなぁと思う。


 ギアがDに入って、車が走り出す。

 カーステレオは今日はFMになっていて、DJの軽快なトークの間に、爽やかな曲が次々と流れる。

 車は街からどんどん遠ざかって、キレイに舗装された道を走っていく。何処に着くのか見当も付かない。


「ねぇ、何処に行くの?」

「んー、山の中、かな」

 それ以上、青龍は何も言わなくて、わたしは車外の緑に心奪われていた。


 車が停まったのは、比較的新しい駐車場だった。その証拠に白線が鮮やかに引かれている。

 こっち、と示されて歩みを進めるとそこには緑色を湛えた大きな湖があった。


「こんなところあるの、知らなかったな」

「出来たばっかりだからなぁ」

「出来たの!?」

「ここ、ダム湖だもん」

 ダム湖、と口の中で繰り返す。

「沈んだ集落とかあるの?」

「お前、SNSの見すぎ! 何戸かは沈んだらしいけど、元はほとんど林と田んぼだったよ」

 へぇ、と沈んだ家が見えないか、湖水を覗き込んでみる。


「お前さぁ、そういうことするから危ないんだよ。ハラハラするこっちの身にもなってみろよ」

「⋯⋯ごめんなさい」

「いいんだけどさ、危険度は健と変わんないな」

 ふっと笑って、青龍はわたしの頭の上にポンと手を置いた。帽子が、わたしと青龍を遮る。


「いつもはウォーキングに来てる人も結構いるんだけど、猛暑だから人気がないな」

「どうしてここに来たの?」

「お前、海より山の方がすきだって言ったから」


 蝉の声がふたりの間をすり抜ける。

 湖面に浮かんでいたカモが飛び立つ。

 空が、バカみたいに青い。


「ありがとう」

「どういたしまして。――特別講義はもうお盆過ぎまで無いから、心配しなくていいよ」

「心配はしてないよ」

 ちょっと食い気味に言ってしまって後悔する。

「ああ、違うか。お前、危ないから俺が心配なんだよ」


 この男は無意識にこういうことを。

 そんなことを言われると、大抵の女子は自分が特別だと思ってしまう。そんな考えもないんだろう。


 でも、そう、特別。

 従兄妹なんだから、他の女の子とは違った意味で特別なはずだ。勘違いしてるわけじゃない。田舎でどうしたらいいのかわからないわたしを気の毒に思って、あちこち連れていってくれるだけ。

 優しいお兄ちゃんだ。


 青龍はたった一台置かれていた自販機に向かうとコーラを買った。

「お前、何?」と訊かれてバカみたいに「アイスティー」と答えて後悔する。世の中に、アイスティー以外の飲み物もあるのに、わたしは意外と保守的だった。

 ここに来ても、ちっとも変わらない。


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