第8話 ハイスペック

 ――夢の中で、わたしは日傘をさしている。

 高輪くんが反対の手を繋いで、わたしたちは公園を散歩していた。

 その公園には大きな噴水があって、人々はそこで涼んでいた。


 わたしたちもベンチのひとつに座って、わたしは花柄の大きく百合の花がプリントされたハンカチをバックから取り出すと、額の汗を拭った。

 高輪くんが満足そうに微笑んで「暑い中、歩かせてごめんね」と言うので、わたしは恥ずかしくなって俯いた。


 日傘の影が足元に落ちて、日差しが酷く強いことを物語っていた。陽炎で前の風景が揺らぐ。

 急に不安になって顔を上げると、そこに高輪くんはいなくて、わたしはハンカチも持たずに冷たく濡らされたタオルで額を冷やされていた――。


「真帆子! 母さん、真帆子、気が付いた!」

「あら、何か飲ませなくちゃ!」

 伯母ちゃんの足音が聞こえる。目の前で青龍が何かしきりに大きな声を上げている。


 ああそうだ。わたし、田舎に来たんだっけ。

 朧気に記憶が戻る。

「真帆子!」と大きな声で青龍がわたしの名を呼んだ。

 何故か酷く悲しくなって、涙がぽろりとこぼれた。


「母さん、麦茶でいいから早く!」

「はいはい、わかったわよ! この間、ポカリスエット買っておいた気がして」

「いいから!」


 青龍の立ち上がる気配がして、次に青龍が戻ってきた時には上半身が起こされて、唇に、冷たいグラスが当たる感触がした。

「飲めるか?」

 すごい剣幕で言われて、首を縦に振る。ごくり、と喉を冷たい麦茶が流れていく。そこから身体中に水分が行き渡る感覚がして、わたしはひとつ、深いため息をついた。


 わたしのすぐ隣で、同じように大きなため息が聞こえた。

「真帆子、俺のこと、分かる?」

「⋯⋯青龍、わたし」

「買い物から帰ってきて倒れたんだよ。多分、熱中症だと思うから、少し休まないとダメだ」

「ごめん⋯⋯」

「あらあら、いいのよ、真帆ちゃん。青龍が付いてたのにこんなことになってごめんなさいね」


 顔を上げて青龍を見ると、そこには心配そうな瞳があった。

「真帆子、苦しくないか?」

「心配かけてごめんね」

「俺が連れ回したのが悪いんだよ」

 青龍が余裕のない顔をしていたので、わたしはそっと手を上げて、彼の頬に触れた。

「青龍のせいじゃないよ」とわたしは微笑んだ。


 ◇


 居間の大きなエアコンから強い風が吹いて、その風を扇風機が撹拌している。

 座布団を並べた上に寝かされたわたしの頭の下にはアイスノン、額には熱ピタが貼られていた。


 伯母ちゃんが「困ったわねぇ、救急車、呼ぶべきかしら」と言う声と、冷蔵庫のドアを開け閉めする音が何度も聞こえた。

「とりあえず意識は戻ったんだし、そっとしておいてやれよ」と青龍が言って、伯母ちゃんが「だって熱中症は怖いって、この前、テレビでやってたのよ」と心配そうに言った。

 わたしはお腹に力を入れて、うんしょ、と上体を起こした。


「真帆ちゃん!」

 伯母ちゃんの声に、台所から青龍がすごい早さで飛び出してきて、わたしの背中に手を当てた。

「真帆子、お前、まだ寝てた方がいいって」

「わたしなら大丈夫だから、そんなに心配しないで」

「冗談だろう? とても普通には見えないし、とりあえず飲めるだけ飲め」

 今度は麦茶じゃなくてポカリスエットの甘い味がわたしを満たした。


「もう大丈夫だろう。部屋に連れていこうか?」

「ひとりで行けるよ」

「病人の言うことは当てにならない」と言うと、よっこいしょ、と青龍がわたしを持ち上げた。

「やだ、恥ずかしい、下ろしてよ」

「大丈夫、さっきもこうしたし、母さんしか見てないから」

「伯母さん、見てないわよ、何も」と伯母ちゃんはふふ、と笑った。


「別にひとりで歩けたのに」

 客間には布団が敷かれていて、空調も丁度いい温度だった。

「ここにポカリ置いていくから、喉が乾かなくても飲めよな」

「難しいこと言うなぁ」

「それだけ言い返せるなら、もう大丈夫だな」と軽くデコピンすると、青龍は部屋を出て行った。


 部屋着にきがえる。

 ぼんやり、記憶が戻る。

 意識が失くなる手前、伯母ちゃんが大きな声でわたしの名前を呼ぶと、青龍がすごい剣幕でわたしのところに走ってきた。そこまでは覚えている。

 わたしの瞳を覗き込む、青龍の黒い瞳も。


 あーあ、青龍の前ではやらかしてばっかりだ、と布団の中でごろんと転がる。バカな女だと思われてるだろう。

 ハイスペック男子には、男にフラれたばかりの女の気持ちはよくわからないだろう。

 わたしは何度目かのため息をついた。


 所詮、高輪くんにわたしは似合わなかったんだ。わたしは何にもひとりでできないし、人の手を借りて生きている。

 そんな女に愛想をつかしても、仕方なく思えた。

 今頃、彼は⋯⋯考えることさえバカバカしく思えてきた。あの都会の暑い空気の中で、彼女と仲良くしているんだろう。日傘の似合う彼女と。


 ◇


 気が付くと少し眠ってしまって、障子には朱色が差していた。

 とんとん、と気づかうような音がして、青龍だなと思う。

「入ってもいいか?」と訊かれて「うん」と答える。

 青龍はまだ心配そうな顔をして、わたしに近付いた。


「起きても平気なの?」

「もう大丈夫みたい」

「今夜は蕎麦にしたんだけど、食べる?」

「お蕎麦、食べたいな。――あ、歩けるからね」

 牽制する。

 そう何度もお姫様抱っこされたんじゃ、堪らない。

「じゃあ、歩いてこいよ」と彼は言って、居間に戻っていった。


 実のところ、まだ頭がぐらぐらしたけど、青龍の茹でたお蕎麦が食べたくて、よいしょ、と立ち上がる。

 居間ではもう、みんなの声がして、その輪の中に自分も早く入りたいと思う。

 居間に入ると明日香ちゃんが「真帆子ちゃん、もう大丈夫なの?」と聞いてくれる。「うん」と答えた。


「今日も本当に暑かったもんねぇ」と伯母ちゃんが言って、「涼しい車の中から急に炎天下の庭に出たからだと思うよ」と青龍が台所から言った。

「今度から真帆子を乗せた時は、玄関に横づけで降ろすよ」

「勘弁してよ。もう倒れたりしないから」

 みんなはそこで、どっと笑った。


 夕飯は冷たいお蕎麦と天麩羅だった。

「薬味の大葉とミョウガはうちで育ったもの、天麩羅の茄子と大葉とインゲン、ピーマンも庭で採れたもの。茄子は真帆子が毎朝、水をやってくれてるお陰でツヤツヤに良く育ってるよ」とおばあちゃんが言った。

 大葉やミョウガは食べ慣れないものだったけど、採りたてと言われると、その風味も一層増した気がした。


 今日は料理は全部、青龍が作ったと聞いて、うわっとなる。女子力が半端ない⋯⋯。

「気にすんなよ。美味しく食べてもらった方がうれしい」と青龍は本当にうれしそうに笑った。

 お蕎麦のわさびが今度は本当にツンと来て、みんなを笑わせた。






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