第一章 水の都リヴェリス

第2話 水の神殿(1)


 次の瞬間、意識が浮上する。佐藤健一が目を開いた――いや、目を覚ましたのではない。気づけば、全く別の世界に立っていた。


 目の前には、喧騒けんそう混乱こんらんとは無縁むえん静謐せいひつな光景が広がる。澄み切った空気に満ちた神秘的な空間。頭の中で女神から授かった知識があざやかにめぐり、ここが水の女神をまつる神殿であることを理解した。


 壮麗そうれいなバロック様式の建築が、視界いっぱいに広がる。高くそびえる天井てんじょうには、精緻せいちなフレスコ画が描かれ、水の女神をたたえる物語が息づいているかのようにかがやいていた。その美しさに目をうばわれながらも、胸の奥に疑問がわく。


(……どうして天井がこんなにも高く感じるんだ?)


 違和感をかかえつつ周囲を見回す。床には光沢こうたくのある大理石がかれ、ね返る光がまるで湖面のように神殿全体をやわらかくつつんでいる。背後を振り返れば、祭壇さいだんの中央に立つ水の女神の像が威厳いげんを放っていた。そして、自分がその祭壇の上に立っていることに気付き、軽く息をむ。


 違和感をいだきつつ、ゆっくりと周囲へ視線を向ける。足元には光沢こうたくのある大理石がかれ、ね返る光がまるで湖面のように神殿をやわらかくつつんでいた。背後を振り返ると、祭壇さいだんの中央に水の女神の像。おごそかにそびえ立ち、威厳いげんを放っている。そして、自分がその祭壇の上に立っていることに気付き、息を詰めた。


 そのとき、低い声が祭壇の下から響く。


「おお、成功したのか?」「そのようですね」「だが……子供の姿とは?」


 声の主を探し、視線を向ける。そこには三人の男性が立っていた。


 最初の人物は、深緑色のローブをまとった神官。繊細せんさいな葉模様の刺繍ししゅうほどこされ、知識と洞察力がきざまれた顔立ち。手にした古びた書物には、召喚の儀式に関する記述があるのだろう。


 二人目は、恰幅かっぷくの良い商人。柔らかな微笑びしょうを浮かべ、穏やかな視線を向けている。あわい青色の衣装には貨幣かへい模様もようが織り込まれ、商業都市の象徴を感じさせた。恐らく、この街の商人ギルドのマスターなのだろう。


 そして三人目――中央に立つ貴族。豪奢ごうしゃな金刺繍のローブをまとい、堂々とした立ち居振る舞い。深い知恵と経験を刻んだ表情は鋭いが、どこかおだやかさも宿している。


(つまり、交渉すべき相手は、この男か……)


 佐藤は静かに状況を整理し、彼らの様子を見定める。視線を合わせると、神官が困惑した表情でつぶやいた。


「召喚は成功しています。しかし……子供の姿とは」


(……子供?)


 不意に言われた言葉に、佐藤は自分の姿を見下ろす。肩口まで流れる銀色の髪が、風に揺れた。その先へ視線を落とすと、き通るような青い瞳が大理石の床に映り込んでいる。少年の姿になっている――その現実に、言葉を失った。


 三人の話し合いが止まる。中央の貴族が静かに前へ進み、佐藤の前でひざをついた。その礼儀正しい所作に、佐藤はおどろきと緊張を覚え、思わず背筋を正す。


「水の女神『マリーナ』様の御使いですね。我が召喚に応じていただき、誠に感謝いたします」


 低く温かみのある声。その言葉が持つ重みが、佐藤の胸にじわりと広がる。


 自分は今、女神の加護を受けた神秘的な少年――水の都『リヴェリス』の救世主として召喚された。透き通る青い瞳、銀色の髪。肌は白く輝き、ローブには水の模様が繊細に施されている。その装いは、女神の祝福を受けた存在そのものだった。


(女神様……これはさすがにやりすぎじゃないか)


 年齢は十歳ほど。ローブのかすかな魔力の輝きが、否応なく視線を引きつける。この姿が『リヴェリス』の民にとって何を意味するのか――それを理解するのは容易だった。


 貴族の男性は穏やかに微笑ほほえみ、静かに言葉をつむぐ。


「私はこの都市を治める貴族、ロレンツォ・アクアティカと申します」


 その名が告げられるとともに、佐藤の心には徐々じょじょに状況の輪郭りんかくが浮かび上がり始めていた。水の女神『マリーナ』――それがこの都市の守護神の名であり、自分もその女神の御使いとして召喚されたのだ。

 その名が告げられた瞬間、佐藤の中で状況の輪郭りんかく鮮明せんめいになっていく。水の女神『マリーナ』――この都市の守護神。そして、自分はその女神の御使いとして召喚されたのだ。


(ん? マリーナ……そういえば、あの女神様の名前か)


 彼はその名前を思い返しながら、少しずつ自分の使命を受け入れる準備を進める。とはいえ、人間の「名前」という概念がいねんが、彼女のような高次元の存在にどれほど意味を持つのかは疑問だった。


 与えられた知識を頼りに、冷静さを保つ。そして、次の会話の主導権を握るべく口を開いた。


「かしこまらなくていい。それよりも、女神の御使いである私が呼ばれた理由を教えてください」


 静かな一言が、神殿内に張り詰めた空気をもたらす。佐藤の言葉に、「はっ」と息をのむロレンツォ。そのひげ縁取ふちどる彫りの深い顔立ちは、日本人から見ればやや老けて見えるが、実際には四十を少し過ぎた程度か。


 「かしこまらなくていい」と言ったにもかかわらず、ロレンツォは再び膝をつき、深く頭を垂れた。その動きにつられるように、後ろにひかえていた神官と商人も同じように膝をつき、佐藤へ敬意を示す。まるで神殿全体が、一つの儀式を行っているかのような厳粛げんしゅくな空気が漂った。


 戸惑とまどいと困惑。佐藤はその敬意の裏に込められた責任の重さを、痛いほど感じる。この信仰の深さが、希望と絶望の両方を、この都市にもたらしているのだろう。

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