経営コンサル、異世界を救う ~水の女神の祝福を受けて~

神霊刃シン

心があたたまる家族愛ファンタジー

序 章

第1話 面接会場


「もう、会社なんてめてしまいたい……」


 春のやわらかな日差ひざしが頬を温かく撫で、公園の桜は風に乗って舞い落ちる。

 けれど、その美しい風景も、佐藤健一の心の重さを和らげることはなかった。ベンチに腰を下ろし、深い息を吐く。瞳には疲労ひろう憂鬱ゆううつの色が滲んでいる。


 佐藤は30代の経営コンサルタント。かつてはこの仕事に情熱をやし、未来に明るい希望をいだいていた。しかし今では、過労かろうとストレスに押しつぶされる日々が続き、ただ時間に流されるだけの毎日が続いていた。


「高い報酬ほうしゅうに安定した生活……それだけで十分だと思ったんだよな」


 しかし現実はきびしい。顧客こきゃくの要求に応え続け、終わりのないめ切りに追われる。頻繁ひんぱんな出張、容赦ようしゃない業務の連続。気づけば、自分を見失いかけていた。


 ふととなりを見る。元気に遊ぶ子どもたちの笑い声が耳に届き、視界には楽しげな家族連れが映る。佐藤はなんとも言えない感情に包まれた。


「俺だって……今頃は結婚して、子供がいる年齢のはずなんだよな」


 思わずこぼれた独り言。スマホを取り出し、転職アプリを開く。画面に映るアンケートに答えるうち、胸の奥でむなしさがじわりと広がった。


「便利な時代になったよな……でも、無職で家族を持つなんて、夢物語か」


 目の前の幸せそうな家族の光景に、心の奥で何かが静かにらめく。まだ遅くないかもしれない――そんな希望が、そっと息づいた。


 アンケートを続けながら、指先がふと止まる。「あなたにとって理想の人生とは?」画面に映る最後の質問を見つめ、しばし考え込む。そして「安定と充実」と入力した。


 その瞬間、スマホが突然輝き始める。思わず目を細めた佐藤は、周囲の異変に気づいた。空間がわずかに揺らぎ、やがてまばゆい光が視界をおおう。


 光が収まると、広大な白い空間へと踏み込んでいた。時間も重力も感じられない不思議な場所。恐怖と困惑に支配されながら、辺りを見回す。そのとき、優雅ゆうがおだやかな声がひびいてきた。


「ようこそ、異界のとびらへ。あなたの未来を見定めるために参りました」


 声の主は女神だった。荘厳そうごんでありながら親しみやすく、光に包まれた姿は神秘的で、目をうばわれるほど美しい。


「あなたは、現世の重荷おもにえかねて、この場へみちびかれました。しかし、ここからの人生はあなた次第です」


 女神は微笑ほほえむ。佐藤は目を見開いたまま、状況を完全には飲み込めず、恐る恐る口を開いた。


「え、あの……ここは一体……?」


 女神は穏やかに答える。


「これは異世界への玄関げんかんぐちです。あなたの知識と経験を必要としている場所へお送りする準備をしています。そのための、いわば面接の場です」


「面接?」


 その言葉が心にさる。かつて就職活動で感じた緊張感が一気によみがえる。だが、女神の静かな視線に、次第に落ち着きを取り戻していくのを感じた。


「さあ、準備がととのい次第、詳細をお伝えしましょう。それまでは安心してお過ごしください」


 女神の穏やかな声に耳を傾けながら、佐藤は胸の内にわずかな興奮と不安を抱えていた。まさか、自分がこんな形で面接を受けることになるとは夢にも思っていなかった。


 再び空間が歪み始め、周囲が揺らめく。気づけば、目の前に古めかしく荘厳な建物が佇んでいる。入り口には『異世界転職面接会場』と書かれた札が掲げられていた。その札をじっと見つめ、佐藤は思わず息をむ。


 木製の重厚じゅうこうな扉を押し開けると、意外にも品格のある空間が広がっていた。壁には歴史的な絵画が並び、床には高級感ただよ絨毯じゅうたん。テーブルには古びた手書きの書類が積み重ねられ、部屋全体に静けさと威厳いげんが満ちている。


「佐藤健一さん、どうぞこちらへ」


 突然名前を呼ばれ、戸惑いながらも部屋の中央へと進む。


 そこで待っていたのは、インテリ風の美しい女性――女神らしき面接官だった。知的な雰囲気の中に厳しさと温かさが絶妙に調和し、佐藤の目を引きつける。


「ようこそ。この場は、あなたの新たな人生の幕開けです」


 荘厳な部屋の静けさに溶け込むような、落ち着いた声。その一言に、佐藤は思わず息を呑み、ゆっくりと深呼吸をする。そして、椅子いすに腰を下ろした。


 緊張と期待が交差する中、これから始まる面接へ向き合う覚悟を決める。何もかもが未知――それでも、逃げるわけにはいかない。


 女神は手元の書類に目を落とし、口を開いた。


「佐藤健一さん、なるほど……魔王討伐とうばつ数はゼロ、と記録されています。失礼ですが、異世界での戦闘経験はおありですか? 無詠唱魔法の使用は可能でしょうか?」


 突拍子とっぴょうしもない質問に、佐藤は一瞬言葉を失う。しかし、すぐに正直に答えた。


「いいえ、戦闘経験もありませんし、無詠唱魔法も使えません。ただ……企業でつちかった営業コンサルタントとしてのスキルはあります」


 女神は少しまゆをひそめ、眼鏡めがねを軽く直して佐藤を見つめる。


「営業コンサルタント、ですか。そのお仕事について、もう少し詳しく教えていただけますか?」


 佐藤は慣れた口調で説明を始める。


「クライアント企業の経営状況や問題点を分析し、改善策を提案するのが主な業務です。事業戦略の立案から組織づくり、人材管理、さらにはM&A――買収や合併の案件も担当しました」


 その説明に、女神は静かにうなずく。


「なるほど……経営の専門家、というわけですね。それはこの世界でも大いに役立つでしょう」


 佐藤はほんの少し肩の力を抜く。しかし、頭の片隅かたすみには疑問と違和感が残り続けていた。


(……どうやら、アプリを間違えたっぽいな)


 得体の知れない状況に迷い込んだという直感――間違いない。しかし、この奇妙きみょうな面接が、自分の運命にどう影響するのか。それを知るのは、まだ先の話だった。

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