ぶつかり、終わる
広川朔二
ぶつかり、終わる
朝の山手線は、獣道だ。
人間らしさなんてものは、満員電車の中でとうに死んでいる。混雑、圧迫、呼気、汗、スマホの画面にしがみつく指。誰もが自分の世界を守ることで精一杯だ。周囲にぶつかったって、文句ひとつ言えない。言ったところで、「混んでるんだから仕方ないでしょ」と逆に睨まれるだけ。
そんな中、俺だけは違う。
「ぶつかる」ことに、意志を持っている。
鞄を左に、スマホを右手に。両肩を開けて歩くのが、俺のスタイルだ。ターゲットは、ヒールで歩くOL、リュックを前に抱えたサラリーマン、下を向いてとぼとぼ歩く学生。気弱そうなやつ。自信がなさそうなやつ。できれば女がいい。相手がよろけて、俺に「すみません」と呟いたときのあの感触—あれが、俺の一日を始めるスイッチだ。
今朝も、その時間が来た。
都内某駅、改札から中央コンコースに向かうエスカレーターを降りたあたりで、混雑がピークになる。動線が複雑に交差する地帯。ここが俺の「狩場」だ。俺は少しだけ歩幅を広げ、周囲の流れを見ながら、タイミングを測る。
いた。黒いスーツにベージュのトートバッグ。髪を後ろで一つにまとめた女。歩きスマホをしていて、周囲への注意はゼロ。理想的な“ぶつかりポイント”。
—そうこれは鉄槌なんだ。歩きスマホをするこいつが悪いだけ。
俺は歩調を変えず、そのまま直進した。肩がぶつかる。女の身体がわずかによろける。
「……っ、す、すみません……」
掠れた声。反射的な謝罪。それだけで、心が静まる。
俺は何も言わず、足を止めず、そのまま人波に紛れた。
勝った。今日もまた。
会社に着けば、くだらない会議が待っている。取引先からは無茶な要求がくるだろうし、部下のミスを尻拭いして、上司には報告書の体裁で文句を言われる。帰れば、妻とは最低限の会話だけ。子どもはもう俺を目も合わせない。
でも、いいんだ。
朝、この数秒だけで、俺は生きていられる。
「ぶつかる」ことで、世界の中に自分の存在を刻みつけている。
たとえ誰にも気づかれなくても、俺だけは知っている。今日も、確かに俺は「誰かを動かした」のだ。
そう思って、俺は会社の入り口をくぐる。
胸の内には、さっきの感触がまだ熱を残していた。
「あれ? もしかして—」
言いかけて、俺は口を噤んだ。
目の前に立っていたのは、先日、駅でぶつかったあの女だった。
黒のスーツに淡いグレーのシャツ。長い髪は、あのときと同じように一つに結ばれている。
見間違いじゃない。あの瞬間の“ぶつかり心地”は、俺の体が覚えている。
「本日から弊社の営業を担当させていただく立花沙織です。よろしくお願いします」
そう言って彼女は、名刺を差し出した。
俺は思わず受け取る手が遅れた。
立花は俺を見ていた。穏やかな笑顔を浮かべながら、その目だけは冷たい水のようだった。
だが、あの日の出来事については一切触れない。
まるで何もなかったかのように、いや—まるで俺が“何者でもない”かのように。
それが、妙に気に食わなかった。
俺は愛想笑いを浮かべながらも、心の中でぐつぐつと何かが煮えるのを感じていた。
あれは偶然か? それとも—いや、そんなわけはない。俺の行為なんて、誰にも気づかれたことはなかった。
たかが肩がぶつかっただけで、こんな巡り合わせになるはずがない。
そう自分に言い聞かせた。
が、その日から、何かが狂い始めた。
*
SNSで最初にその投稿を見かけたのは、帰りの電車の中だった。
何気なく覗いたタイムラインに、こんな文言があった。
| 「毎朝駅でぶつかってくるオジサン、ついに動画撮られてて草」
動画が貼られていた。再生してみると、あきらかに俺だった。
顔は影とメガネでやや隠れているが、スーツの色、カバンの形、歩き方、すべてが一致している。
何より—ぶつかった瞬間、俺がわずかに口角を上げる様子が、はっきり映っていた。
「……嘘だろ……」
背筋が冷えた。
コメント欄には、「サイコ」「キモすぎ」「被害届出していいレベル」などの言葉が並んでいる。
いいねとリツイートの数は、すでに数万を超えていた。
投稿は、どこかの素人が偶然撮ったもののようだった。
タグには《#ぶつかりおじさん》《#駅で遭遇した恐怖》などと並んでいる。
まさか、俺が……?
ふと、会社のロゴが入った名札を首にかけたまま歩いていた日があったことを思い出した。さすがに名札はポケットにしまっていたが、見る人が見れば…。
あの日だけか。いや、他にも何度かあったかもしれない。
動画の中では名札はしていないが、この動画しかないとも限らない。
頭がぐらぐらしてきた。電車の揺れに合わせて、世界もぐらりと歪む。
なのに周囲は誰もこちらを見ない。みんな、スマホの中の世界に夢中だ。
もしかして、その中で俺は—笑い者になっているのか。
どうする? どうすればいい?
削除申請? でも誰に? アカウントは鍵付きで、リツイートされた動画がすでに無数に拡散されている。
そして、俺はようやく気づいた。
俺は、"見られていた"のだ。
自分だけが神の目線で他人を押しのけているつもりだった。
でも違った。俺もまた、誰かのカメラの中の「ただの異物」にすぎなかった。
その夜は眠れなかった。
閉じたまぶたの裏で、あのぶつかりの瞬間が何度もリプレイされる。
そして、その隣には、あの女—立花沙織の顔があった。
口元には微笑み。
目だけが、まっすぐ俺を見下ろしていた。
朝、目が覚めても、どこにも行く場所がなかった。
リビングのテレビはつけっぱなし。誰もいないのに、ずっと通販番組が流れている。
ソファの上には、妻が書き置いたメモ。
「しばらく実家に帰ります。」
テーブルの上には、冷めきった味噌汁と、封筒。中には離婚届のコピーが入っていた。
一週間前、会社から“自主退職を勧められた”日以来、すべての歯車が狂った。
そう、職場での立場はあっけなく崩れた。
最初は「一時的な炎上」くらいに思われていたが、日が経つにつれ、問い合わせが相次いだ。
匿名のメール、電話、SNSの公式アカウントへの抗議。
「貴社の○○部に“ぶつかりおじさん”が勤務していると話題ですが、本当ですか?」
そのメールを総務の田中が読み上げたとき、会議室の空気が凍った。
加藤さん、しばらく休んでください。
加藤さん、ご自宅でお過ごしいただいて……。
加藤さん、会社としても対応を……。
最終的に提示されたのは、退職金を削った退職合意書だった。
判を押すとき、俺はまだ夢を見ていた。
すぐに収まる。誰も本気で気にしてない。ただのネットの冗談だ。そう信じていた。
だが、現実は違った。
玄関には週刊誌の記者が張り込み、ポストには無記名の投函物。
そして妻はある日、子どもを連れて出ていった。
最後まで何も言わなかった。いや、言葉すら交わさなくなって久しかった。
*
ネットカフェの薄暗いブース。
乾いたエアコンの風と、カップ焼きそばの匂い。
モニターに映っているのは、まとめサイト。
《【悲報】駅で“わざとぶつかるオジサン”、特定されて人生終了へ》
画面には俺の名前、勤めていた会社、年齢、顔写真まで掲載されていた。
「同僚がリークした」「近所の人から話を聞いた」など、出どころも曖昧な情報が、事実のように並ぶ。
スレッドの住人は、笑いながら、俺の存在を解剖していく。
「キモい」「気持ち悪い目してんな」
「自業自得すぎて草」「家族逃げられて正解」
「どうせ謝罪もしてないんだろ」
俺は、そのすべてを無言で読んだ。
声を出して否定する気力も、もうなかった。
気づけば、俺はページをスクロールしながら、ある書き込みを探していた。
—「俺はあの人にぶつかられたことがある」
あった。いくつも。
その中には、あの立花沙織のものと思われる投稿も紛れていた。
「駅で肩をぶつけられました。初めは偶然かと思いました。でも、その日から同じ時間、同じ場所で毎日のように現れて。気づかないふりをしていたけれど、心臓が毎朝冷たくなっていくのを感じました。
私の時間を、安心を、奪われていたんです。」
読みながら、指が震えていた。
その震えは怒りではない。混乱でもない。
ただ、怖かった。
「ぶつかる」というたった一つの行為に、こんなに深い痛みがあったなんて。
誰にもバレない。誰にも見られない。
俺が勝手にそう思っていただけだった。
ただのゲームじゃなかった。
ただのガス抜きでもなかった。
俺は、人間として、誰かを本当に傷つけていた。
頭の奥で、あの女の目が浮かぶ。
立花。
俺がぶつかったとき、彼女は何も言わなかった。
謝ったのは彼女の方だった。
でも今ならわかる。
あれは、無視ではなかった。
あれは、裁きだった。
俺を見て、笑って、許さなかった。
口元には微笑み、目だけが冷たく俺を切っていた。
気づけば俺は、ネットカフェのブースの床に膝をついていた。
乾いたカーペットが、冷たかった。
すべてを失って、ようやくわかった。
自分が何をしてきたのか。
誰にもぶつかられずに生きてきたと、思い上がっていたことを。
深夜の新宿駅。
昼間の喧騒が嘘のように、構内はしんと静まり返っている。
床は清掃員が丁寧に磨いたばかりで、照明をぼんやりと映していた。
その光の中を、俺はひとり歩いていた。
誰にもぶつからない。
誰も歩いていない。
ぶつかりおじさんは、世界から取り残された。
俺は、いつも自分が“ぶつかっていた”と思っていた。
でも、本当は違った。
ずっと、“誰にも触れていなかった”だけだ。
人の気配がない改札の手前で、立ち止まる。
ガラスの反射に、自分の姿がぼんやり映っていた。
くたびれたコート。無精髭。焦点の合わない目。
知らない男がそこに立っていた。
足元に置かれたビニール袋には、缶チューハイと、安物のサンドイッチ。
カードも使えないコンビニで買った、最後の晩餐。
味なんて、覚えてない。
ベンチに腰掛けると、背中がじんわりと冷えた。
寒さのせいではない。
背後にもう、何もないと知っているからだ。
*
ポケットの中のスマホを取り出す。
通知はゼロ。誰からも何も来ない。
タイムラインに流れるのは、誰かの楽しそうな写真、誰かの怒り、誰かの冗談。
世界は変わらず回っている。
俺が消えても、誰も困らない。
いや、むしろ??歓迎されるかもしれない。
画面を閉じ、もう一度ポケットに押し込んだ。
そして、顔を上げる。
ホームに続く階段の下に、人影が見えた。
スーツ姿の女。あのシルエット。
立花—?
いや、違う。
ただの誰か。
他人に見える誰かに、俺はあの女の姿を重ねてしまうだけだ。
でも、足が動いていた。
吸い寄せられるように、その人に向かって歩く。
まるで、何かを確認するように。あるいは、最後の儀式のように。
その距離が、徐々に縮まる。
あと十歩。五歩。三歩—
ぶつかる。
……はずだった。
けれど、その人は、すっと避けた。
まるで俺の軌道を予測していたかのように、軽く、無意識に。
俺の肩は、空気を切った。
身体がふらつき、足元が崩れるような錯覚。
ふらりと後ろに倒れそうになりながら、何とか立て直す。
女は振り返りもしない。
ただそのまま、静かに遠ざかっていく。
俺はそこに立ち尽くした。
肩に、何の感触もない。
もう、誰にも触れられない。
誰にも、触れられない。
まるで、自分が世界から消えてしまったようだった。
もう、ぶつかることはない。
ぶつかる相手もいない。
俺という存在が、誰の中にも残っていない。
世界は今日も、何事もなかったように朝を迎える。
俺はただ、その“朝の前の闇”の中に、じっと座っていた。
──ぶつかり、終わる。
ぶつかり、終わる 広川朔二 @sakuji_h
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