1日
女の子は私を潰さないように、けれど走る時の風圧で落とさないように握って、家に連れて帰った。
大事そうに私を机の上に置く。走って部屋を出ていったと思ったら、水の入ったコップを持ってきてそこに私を入れた
――あぁ、美味しい。旅をする上で滅多に会えないだろう水を、ごくごくと飲んだ。やがて満足してしばらくはぷかぷかする。
女の子はというと、期待しながらも寂しそうにぬいぐるみを手に取っていた。
洗われていないのか薄汚れた体の、将来私の友達になるであろう者たちは、優しく女の子を見つめ相手をしている。
無言でたまに息が漏れている。きっと女の子のなかでは冒険をしてるのだろう。
犬のぬいぐるみに乗って、魔物に弓矢を放つ。仲間のクマとうさぎは魔法を使って戦っている。皆、今その瞬間、命のやり取りをしてるかのようだ。
そうしてる間に日も暗くなってきた。
ガチャリ、と扉が開く音がして力なく「ただいま」という声がした。女の子はひと呼吸置いてから「おかえり」と返す。犬のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる姿は先程とは違って痛々しい。
遠くで帰ってきたばかりのその人は忙しそうにばたばたとしている。女の子は申し訳なさそうにしながらも、無言のまま部屋でぬいぐるみと冒険の続きを始めた。
今度は違う世界らしく、人間相手の戦争のようだ。切っては切られて、引いては仲間に怪我を治してもらう。
その姿を見て私は思わずくすりと笑みが溢れた。子供というのはなんて忙しい生き物なのだろう。
感情の動きもそうだが、空想の中も、身にまとう雰囲気や、周りの空気も忙しなく動き続ける。
ぬいぐるみたちも、急なアドリブに戸惑いながらも合わせていく。この時間はなんて輝いているものなのか。
外が真っ暗になった頃には、部屋の外から「ごはんだから来なさい」という声が聞こえた。女の子はぬいぐるみたちをその場に放って、駆け足気味に向かう。
少し気になるので私もコップから出て、開け放たれたままの扉から顔を覗かせた。
案外家は広く、部屋が他にもある。けれど使われていない部屋は電気がついておらず真っ暗なまま。その差がなんとも物悲しくさせる。
光が溢れている部屋に向かう。中を覗くと女の子と母親が黙々とご飯を食べていた。女の子はそわそわしながらも黙っていて、母親は疲れきってげっそりとして、スープのみを飲んでいる。もう1人のためなのか、もう一つ席があり、ご飯が置かれていた。
「宿題は?」
と母親が力なく呟いた。
女の子は、どきっとしながら
「したよ、ひらがな」
と言った。
けれど母親には嘘はバレてしまうらしい。母親は絶望しきってため息をついて、自分の髪の毛を根本からぎゅっと握っていた。
「す、すぐ終わらせる!かきくけこだけだから!」
女の子はそう言い終えると、急いでご飯を食べすすめた。
母親はというと、すすり泣きながら自分の頭を軽く殴っている。と思ったら、茶碗半分にも満たない汁だけのスープを台所に捨てて、部屋から出ていった。
どこに行くのだろうと、私もとことことついていく。
母親は溜まっている洗濯物を洗った。それでもあまりにも大量なのでまだ残っている。
そしてすぐにお風呂を、そう、お風呂全てを洗いはじめた。
そこで初めて気づいたのだ。この家には髪の毛も落ちていない。住んでいる気配が感じられないのだ。
リビングから出て走る音がする。女の子は食べ終えたのだろう。扉を開けたまま部屋に入り込み、ガサゴソと音がする。
今度は女の子を覗いた。
女の子は床にノートを出して、いそいで宿題をしている。
その時にガチャリと扉が開く音がした。見てみると父親が帰ってきたらしい。無言で玄関にカバンを置いてリビングにまっすぐ向かう。
リビングに入った途端、ガシャン!と物凄い音が響いた。思わず私も体がビクッとなってしまうほどに。
それを聞いて母親は掃除をやめてリビングに駆け込む。女の子は部屋でぬいぐるみを抱きしめて泣いていた。
「なぜお前はまともに教育もできない!」
そう怒鳴り声が聞こえたあと、ドンっという物音がした。
「小学一年生にもなって片付けもできないのか!あいつは!お前もお前でパートのくせにまともな教育もできないのか!?」
と一方的に怒鳴る声だけが聞こえる。
どうしたらいいものか。私の小さな体では仲裁できないだろう。できる事と言えば女の子の側に居ることだった。
膝にちょこんと自分の体を預ける。それに女の子は気づいて、目を輝かせた。
私を掴んでリビングに走る。大きなものに向かうそれはどれだけの恐怖なのだろうか。
「どれだけ恥をかいたと思っている!子供っぽいと言われてるんだぞ!」
と母親に怒鳴りつけている父親に、女の子は私を差し出した。
「見て!珍しい1枚のクローバー!幸せになれるかもしれない!」
それはきっと女の子の優しさなのだろう。いや、希望とも言えるのか。
あまりにも小さく頼りない火。それは簡単に指で摘めば消えてしまう。けれど女の子にとっては全てを照らすものだった。
父親はと言うと、さらに激怒した。
「ほら!小学一年生でこんな…!もういい加減に大人になってくれ!どれだけ外で辱めを受けてるか…パートしかできない、家事もできないお前でさえ恥ずかしいのに。部長の奥さんはパーティーも開けるんだぞ!それに子供は手伝っている!」
ただ母親を責める。ただ自分の事だけを考えて、相手に理想を怒鳴りつける。母親は静かに震えながら聞いていた。女の子は私を連れて自分の部屋に戻った。扉を静かに閉めて、宿題の続きをする。ノートの文字は滲んでいった。
その行動も気に食わなかったのか
「ほれ見ろ!怒られてるのに何もしない!」
と怒鳴り声が聞こえる。
なんと理不尽なのだろう。そして人間とはなんと面倒なのだろう。世間を気にしすぎて、他人に求めすぎて、人間の基準を自ら上げ続けている。今となってはもはや人間では成し得ない基準になっている。
私は少し身を震わせた。
女の子は宿題を終えると、ぬいぐるみを抱いて、私を膝の上に置き、ひたすら泣いていた。
どれくらい時間が経ったのだろう。母親はお風呂を洗い終えたらしく、父親がお風呂に入る音が聞こえ始めた。
女の子は震えたまま、必死に無言の世界でぬいぐるみたちに話しかけている。
女の子が足を組み替えて、私はポロリと床に落ちた。そうなってやっと小さな時計を見つけた。
カチっカチっと秒針は揺れる。女の子はぬいぐるみとひたすら会話を続ける。今日あった学校での出来事、喧嘩をしてほしくないこと、たくさんのことを。
30分、1時間と時間は過ぎていき、2時間経った頃。お風呂場から父親が出た。父親はバサバサとタオルのような音を立てながら廊下を歩く。扉の音が聞こえるので部屋に入ったらしい。
入れ替わりで母親がお風呂に入った。
ばしゃん、ばしゃん、とたくさんのお湯をかける音がする。どのくらいかけてるのだろう。元々骨格も華奢でげっそりとやせ細った彼女にしては物凄いお湯を使っている。
突然のしばらく沈黙のあと、今度はお湯を入れる音が聞こえた。それでもまたお湯を使う音が聞こえるが、響き的にはさっきとは違う気がする。
洗い終えたのかまた静かになった。
その頃には女の子も落ち着いたらしく、ぬいぐるみたちと学校ごっこをしていた。
お湯を止める音が聞こえたと思ったら、母親はすぐにお風呂から出た。それに気づいて女の子は服と私を持ってお風呂に向かった。
もわっと熱気が私の体を包む。これがお湯か。もと居た場所では人間が落としてくれないと体験できない代物だった。もちろん運要素が強いので私は体験したことがない。そのお湯がたくさん目の前にあるのだ。
女の子は窓のヘリに私を置く。そして自分の体を洗い始めた。
密閉された空間のお湯とはなんと息苦しいのだろう。空気は足りているのか、と心配になるほどだ。たまにかかる飛沫でさらに息がしにくい。こんなものを喜んで使うなんて、全く人間とは不思議な生き物だ。
ようやく洗い終えたのか、女の子は私を持って湯船に浸かった。体を洗うときに散々暖められた手は、クローバーの私でも汗をかくんじゃないかというほどに熱かった。
女の子は肩までは浸からずに、変に腰を浮かしている。なぜだろうと湯船を見ると、かすかにどろどろの垢が浮いていた。
そこでわかったのだ。母親がやたらとお湯を使っていたわけを。きっとこの垢を取り除いていたのだろう。よく体を洗ってるというていにして、お湯を限界まで取り除き、壁などなるべくきれいにして、新しいお湯を入れる。本来は堂々とすればいいが、これすらも外に聞こえて恥だと言われて怒られるから、母親自身がそう演技しているのだろう。
それでも残っているわずかな垢たち。女の子は嫌そうにしながらも我慢して浸かっていた。
どうやら体が赤くなるまで入れと言われたのだろう。体が赤くなってから、ふらつきながら女の子はお風呂を上がった。私を洗面台に置いて、バスタオルを取る。その瞬間限界が来てしゃがみこんだ。壁に頭をつけて力なく、息も浅く目を閉じる。
落ち着いたのか、しばらくして立ち上がった。それでも全身に力は入っていない。女の子は何度も何度も水一滴も残さないように全身を拭いていく。
それが酷く痛ましかった。
拭き終えてパジャマを着ていった。着終えると私を持って、脱衣所を出た。何度も自分の歩いたあとを確認しては部屋まで進む。お風呂を終えたあとも続く恐怖とはなんなのだろうか。
床が濡れたところで気にすることないだろうに。むしろ私達なんかは飲み水なので濡らしてほしいとさえ思う。人間ももっと楽しんだらいいのに。そう思ってるうちに部屋の中についた。
私を水の入ったコップの中に入れる。女の子は明日の学校の準備をしていく。小さな体はさらに小さく見えた。
ぬいぐるみたちを丁寧にベッドに乗せる。外の音で簡単にかき消される声で「おやすみなさい」と呟いて布団の中にもぐった。
私はため息をついて夜空を眺めた。
「私が四葉だったら幸せにできたのかな」
という呟きは、星星も風も空気もデスクも窓も皆、自分たちの事で忙しく、誰にも届かなかった。最後に寝ている女の子の額に、良い夢だけを見られるよう願いを込めてキスをして、自分のコップに戻った。
夜が明け、朝になる。外にいたときは、空気の違いも感じ取れたが、どうやら家の中は違うらしい。全くなにも感じない。太陽の陽が入って明るいはずなのに、暗くも感じる。
女の子は起きて、眠そうにしながら部屋を出た。ぬいぐるみたちも起きていく。ぬいぐるみたちに「おはよう」と声をかけると「おはよう」と返ってきた。それだけでいつもと変わらないように感じて、心があたたかくなる。
女の子はすぐに戻ってきた。顔などが濡れている。前に犬が言っていた、顔を洗う、というやつか。せっかく水があるので、私も顔を洗ってみた。汚れが取れたのか、さっぱりとしていく。昨日のお湯とは違って、これなら気持ち良いものだ。
女の子は私を連れて、再び部屋を出る。なんて慌ただしいんだろうと思いながらコップの中を揺れていた。
リビングに入り私をテーブルの真ん中に置く。一枚の葉の私を飾ったのだ、彼女は。何をしたらいいのか分からず私はひたすらコップの中で泳いでいた。
母親が料理を器に盛っていく。それをじっと見ていた女の子は走って向かい、完成したものをテーブルに並べていった。あっという間に私の周りは料理だらけになった。食べ物というものはなんていい香りをするのだろう。遠くからやってきた花の香りと同じように良いものだ。
お茶も持ってきて終わったはずなのに、二人は食べずに座って待っている。
その不思議はすぐに分かった。父親が遅れてやってきて、座った。そして「いただきます」と言って食べ始めるのを見てから、二人も「いただきます」と言って食べ始めた。
静かに始まった食事はどんよりと暗い。ご飯はもっと楽しいはずなのに。
父親はおかずを取る途中で私に気づいて、顔をしかめた。
「このゴミは朝のうちに捨てるように」
と女の子を睨む。女の子は私を見て、首を横に振った。
「こんなゴミを拾ってると会社の人に知られたら馬鹿にされるのは俺なんだ、いつになったら理解できるんだ」
それだけ言って、箸を乱雑に置き「今日もくそまずい飯だ」と言ってリビングを出ていった。
父親が完全に出ていってから、母親は小さくため息をつく。女の子は泣きながらご飯を食べ進めた。
「いつも言ってるよね。持って帰っても捨てるだけだって」
母親はそう言ってから疲れた表情で父親の残した食事を片付ける。
女の子は泣きながらもはっきりと
「珍しい一枚葉だもん、きっと良いことは起こるもん。仲良しになれるもん」
と言った。
母親はそれを聞いてまたため息をつく。いつまでも希望に、願いにすがっている子どもに少しの絶望と苛立ちを感じていた。
どうしたら現実を見てくれるのか。と思いながらも同時に、まだこの子は小学一年生なのだ。大人の勝手な欲望なんてわかるわけないのだ、とぐるぐるとしていた。
女の子は小さく「ごちそうさま」と言い、私をまた連れて部屋に戻った。リビングを出る前に見えた母親の姿はひどく小さい。
女の子は机に私を置くと、また忙しそうにしていた。今度は長いようなので隣にいる鉛筆に
「ここってなんでこんなに暗いの?」
と聞いてみた。
「ん?ああ、色々あるみたいだね。女の子はいい子なのにね。いつも理不尽に怒られてるんだ。赤ちゃんの頃から両親が仲良くなるために頑張ってるんだ。あの子は小さいときから優しい子だよ」
そう鉛筆が答えると下敷きやデスクたちも話し始めた。
「お母さんも突然お父さんが変わったからね、驚いただろうね。昔は仲睦まじかったのに。子どもができてから、仕事と家事と育児どれもするのってどんな気持ちなんだろう。どこまで気持ちが減るんだろうね」
「この前のお小遣いで買った花。あの子も捨てられちゃったな。父に。あの子と話してみたかったな」
なんてたくさんの事を教えてくれた。
公園では楽しそうにしている人間たちも、実は家の中では暗いのだろうか。そう思うと、公園にいるときだけは全て忘れてほしいなという新しい願い事ができた。
女の子が服を着替え終えてランドセルを持つ。最後に私を見て、何を思ったのだろう。
「ありがとう」
その言葉に込められた意味は何なのかわからないが、私にとっては心があたたかくなった。
女の子は部屋を出る。きっと今日も家族のために新しい何かを見つけるのだろう。大人たちの勝手を知りながらも、修正はできると信じて。
私はコップから出て、リビングに向かった。まだ母親はテーブルに座っている。いや、力なく時間を過ごしていると言うのか。片付ける気力もないのだろう。器はそのままだった。こっそり膝の上に座った。私の重みくらいでは気づかないらしく、しばらくはそのままだった。
父親が家を出る音で母親は、はっとした。椅子をずらし立ち上がるときに私に気づいて、慌てて手を伸ばした。母親は私を見て涙を流し、誰にも言えない気持ちをたくさん私に渡す。――ああ、なんて複雑で相反する気持ちに溺れているのだろう。
きっと彼女はもうすぐ、私の曽祖父母たちと同じところに行くだろう。そうなっても分かるのは女の子だけだ。全てを見て、知っていたあの子だけだ。そうなる前に、どうか女の子の願いが叶ってほしい。
役に立つかわからないが、私は母親の手にそっとキスをした。
私を置いて、母親は泣きながら家事を始めた。邪魔になると思い廊下に出る。もう出ていった彼の香りは、胸をやたらと締め付けた。
女の子の部屋に戻り、ぬいぐるみたちに頼んで窓まで運んでもらう。静かに街並みを眺める。窓からの街はこんなに遠かったのか、近くにある家さえも遠い。
「例えば、あの眼の前の家まで届くかな」
独り言のはずのその言葉を窓は拾った。
「行きたいと思ったら行けるよ。どうする?」
すぐには答えられず、しばらく沈黙が流れる。行きたい、けれど行ってもいいのか。悩みに悩んだ挙げ句
「もっとたくさんの事を見たい」
と窓をしっかり見て言った。
窓が鍵を開けて少し開く。風の背中に勝手に乗って、落ちないようにしがみついた。
四つ葉 ゆめのみち @yumenomiti
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