第40話 母の手紙

翌朝の光は、いつもより白く感じた。

目を覚ました美奈は、しばらく天井を見つめたまま、まばたきを繰り返した。まるで昨夜の出来事すべてが夢だったかのように、現実がどこか遠くにあった。


けれど、胸の奥に刺さった言葉たちは、ひとつも消えていなかった。


(私が、もう一度、生まれてきた──)


布団を抜け出すと、廊下の向こうに父の背中が見えた。

庭に面した小さな縁側で、膝に文箱を乗せている。

その姿は、まるで何かに祈っているようだった。


「……おはよう」


声をかけると、父は顔を上げた。

表情は、いつもと同じだった。けれどその目の奥にある疲労と痛みが、昨日よりも濃くにじんでいた。


「加世が、お前に渡したいって言ってた手紙がある。

ずっと迷っていたけど、ようやく……いま渡す時だって思ったらしい」


差し出されたのは、黒い布に包まれた古い封筒。

淡い桜色の便箋が、端からのぞいていた。


「……お母さんが?」


「十歳の誕生日のころに書いたらしい。

けれど、言葉にはできなかったのかもしれない。

お前がこの歳になるまで、しまったままにしていた」


美奈はうなずき、ゆっくりと封を切った。

便箋には、見慣れた丸い字が並んでいた。

けれど、それはどこか遠い記憶の向こうから届いた言葉のようで、読み進めるたびに、胸が軋んだ。


『美奈へ』


“あなたが生まれた日、私は世界が変わる音を聞いた気がしました。

小さな、小さなその声が、私のなかに大きな光を灯してくれました。


でも、ほんとうは、その光は一度、消えてしまったのです。

あなたがいなくなったあの日、私はもう、何も感じなくなりました。


それでも、あなたがもう一度私の腕の中に戻ってきてくれたとき、私は自分の体の痛みさえ愛しいと思えたの。

たとえ、それが間違いだと言われたとしても。

たとえ、それが望まれるかたちじゃなかったとしても。


私は、あなたをもう一度、この手で抱きたかった。

生きているあなたを、もう一度この胸に刻みたかった。


だから、どうか、許してね。

あなたの意思を待たずに、私たちの願いだけで“あなた”を生まれさせてしまったことを。”


美奈の手が、便箋の端でぴたりと止まった。

その指先がかすかに震え、視線が文字の上で宙を泳ぐ。

心臓の鼓動が早まり、呼吸がうまくできない。

目の奥が熱くなる。


(私の“意思”なんて、最初からなかったのに……)


それでも、続きを読まずにはいられなかった。


“でもね、あなたが笑ってくれるたび、私は確信したの。

この子は、たしかに“いま”を生きているって。


あなたが話す言葉は、誰かの記憶のまねごとなんかじゃない。

あなたの声で、あなたの思いで、紡がれている。


私はそれを、ちゃんと感じていた。


あなたが、あなたとして生きてくれるなら、それでいい。

私は、ずっとあなたのお母さんだから。”


涙が、ぽたぽたと落ちた。

文字がにじみ、読みづらくなっても、ひとつひとつの言葉が美奈の胸に沁みこんでいく。


「……お母さん……」


目を閉じると、遠い日の匂いがよみがえった。

洗濯物に顔をうずめて笑っていた母の手。

眠れない夜に、背中をさすってくれた手。

そのぬくもりが、まるで今も自分を包んでいるようだった。


ふと、廊下の先から、かすかな足音と、襖がこすれる音がした。

そのとき、そっと襖が開いた。

そこに立っていたのは、加世だった。


「読んだのね」


美奈は、はっとして立ち上がった。

けれど、言葉が出ない。


加世は何も言わず、そっと美奈の手を握った。

その手は、あの頃と変わらず、あたたかかった。


「……ありがとう」


それだけを、美奈はやっとの思いで言った。


父はひとつ、息を吐き、視線を庭先に落とした。

そして、静かに言った。


「俺たちは、間違えたかもしれない。

でも、お前を愛していなかったことは、一度もない」


美奈は、何も言えなかった。

けれど、その言葉を否定する気持ちは、もうどこにもなかった。


リビングの窓が、春の風に揺れていた。

外には、やわらかい陽の光が満ちていた。


美奈は、封筒の中にもう一枚、便箋があることに気づいた。

それは、母の筆跡ではなく、父のものだった。



『リバースメモリー』より

 うまれかわる ということは

 なにかを失って なにかを受けとること

 名前も 記憶も 過去も

 すべてが 自分のものじゃなくても

 わたしは この目で見た

 この声で 呼ばれた

 それだけは 誰にも 奪えない


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